暗転


(だ、だれ!?)

 気づかわし気に腰を屈め、心配してますとでかでかと表情に書いた紳士の、どこかおもねるような笑顔に、リディアは口の端が引き攣った。

「だ、大丈夫ですわ」

 ちらっと視線を舞踏室の入り口に向ければ、偽の婚約者である背の高い黒髪のイケメンは見当たらない。代わりに壁際からすっと身体を起こす紳士が見えた。

 金髪の彼はきっとハイランド侯爵だろう。

「ですが顔色が悪いですよ? 風に当たられた方がいいのでは」

 目尻に皺を刻んだ笑顔で手を伸ばし、男がリディアの手を取る。ぞぞっと鳥肌が立ち、リディアはぐっと腕に力を入れた。

「問題ありません。すぐに婚約者が戻ってきますので」

 オルダリア公爵が戻って来る、と言外に告げればかすかに相手が怯むのがわかった。

(ていうか、この会場内で私が公爵の婚約者だって知らない人はいないと思うんだけど)

 それでも声を掛けてくるとはどういう了見だ。

 だが、目の前のにやけた笑顔の男は手を引かない。どころか再びリディアの手首を掴むとぐいっと顔を近寄せてきた。

「公爵様が戻られるまでお側におりますよ。こんな顔色のご婦人を置いておけませんから」

(いや置いておいて結構だっつーの)

 イラっとしながら、リディアの隣に座り込む男を笑顔で睨み、すっと身体を遠ざけるように立ち上がる。だが男の方が動きが速かった。

 掴まれたままの手首を引っ張られてベンチに引き戻され、更に身を寄せた彼が真っ黒な瞳にリディアを映す。

 距離が近い。

「不適切ですわ、マイロード」

 流石にこれは怒ってもいいだろう。眉間に皺を寄せて睨み付ければ、男は歪んだ笑みを浮かべながらリディアへとどんどん迫る。空いている手に二の腕を掴まれリディアは必死に視線を男の向こうへとやった。この状況を見ているであろう侯爵の姿を探す。だが見当たらない。

(なんで……!?)

 心の奥で舌打ちをしながら、リディアはものすごい力で腕を掴む男に視線を戻す。

 その瞬間、リディアは気が付いた。

(この人……)

 ぎりぎりと掴む腕は震えているし、こちらを見つめる黒い瞳はガラス玉のように生気がない。

(誰かに操られている!?)

 まさかオーガストだろうか。

 ぎりっと奥歯を噛み締め、それからリディアはゆっくりと息を吸った。全身に力が満ちるよう、今度は長く長く吐き出す。心臓の鼓動は気付けば早まり、脳裏に警鐘が響いていた。

「みぃすぅ……リディアぁ……」

 長く引き伸ばしたような、人とは思えない声が男の喉から漏れリディアは決意を固めた。ぐっと身体に力を入れ軽く背を曲げると。

「いい加減にしてッ!」

 男の顎めがけて頭突きを繰り出した!

 ごん、という鈍い音と衝撃を脳天に感じるが、それは相手も同じだったようで「うぐ」という呻き声をあげてのけ反る。鈍痛を堪えたリディアは、必死に距離を取るべく、緩んだ腕から身を取り返すと素早く立ち上がった。

 その瞬間。

「何をしている?」

 押さえてはいるが、怒気と苛立ちが滲む声がし、続けて温かな腕が身体を抱き寄せるのを感じた。

(あ)

 ふわっと香る、甘さの中にスッキリした……朝の空気にも似た香りと腕に触れる温度にゆっくりと緊張が緩む。ほっとして顔を上げれば。

「リアージュ」

「……一人にするべきではなかったな」

 護るようにリディアを腕に抱え込み、リアージュが苛立ちとかすかに後悔の滲んだ声で呟く。呻き声をあげて顎を抑える男を冷ややかに見下ろし、彼は忌々しそうに眉間に皺を刻んだ。

「男爵、わたしの婚約者に手を出すとは……どうなっても構わないということかな?」

 ぞっとするような声音に、リディアは慌てて彼の上着の襟を引っ張った。

「公爵閣下! その人……何者かに操られてます」

 つま先立ちになり、彼の耳元に小声で訴えれば薄明色の瞳を彩る中心の金が、より濃く色づいた。

「だとしたら」

 言って、ゆっくりとリディアの手首を掴む。男がぎゅっと握っていた個所に指を這わせながら、死刑宣告をするようにきっぱりと告げた。

「隙を作ったこの男の怠慢だ」

(いやいやいやいや、操ってるやつの方が悪いでしょうがっ)

 うううう、と頭を抱えて呻き声を上げる男爵を一瞥し、リアージュがリディアの肩を抱いて歩き始めた。

「ほっといていいんですか? どうしてあんなことをしたのか確認しないと」

 思わず振り返って言えば、ホールを移動してくる金髪の男性が見えた。

「あとはハイランドに任せる」

 ちらりとこちらを振り向く彼と目が合い、微笑むのが見えた。

 恐らく彼がこちらに近づくのを止めたのは、大股で突進するリアージュを見たからだろう。ここでハイランドがリアージュの婚約者を助けると……騒ぎが大きくなりかねない。

「今日は帰ろう。目的は達した」

 大股で歩く彼に必死でついて行きながら、リディアは何者かが彼を操ったにしても張本人は未だここに居るはずだと周囲を見渡いた。途端、ずくん、と心臓が痛み彼女は目を見張った。

(なに……これ……)

 胸郭を打ち破るような勢いで心臓が激しく鼓動を刻み、耳鳴りがする。どっと嫌な汗が背中を伝い、リディアは自分を抱える男の袖を思わず掴んだ。

「どうした?」

 急に足取りの重くなったリディアに気付いたリアージュが顔を覗き込む。その薄明色の瞳を見上げ得ながら、リディアは震える唇を開いた。

 声が出るより先に。

「リディア!?」

 放送終了後にテレビに映る、カラフルな画像と同時に響くエラー音。それとそっくりな耳鳴りが脳裏に鳴り響き、目に映る世界が端から灰色になり掠れてほどけて行く。

(まって……!)

 心臓は痛み、意識は遠のき、耳鳴りが酷い。その中で、ただ一つの言葉が、かすみがかった意識を強烈に貫いた。


 ──お前なんかに……ッ!


(え……)

 その瞬間、何かが目の前を過った。それが何かと意識を向ける傍から消えゆき、実態を掴む前にリディアは目の前が真っ暗になるのを覚えた。

 そこから先、彼女が覚えていることは何一つなかった。

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