リディア、直接対決する①
「リディア!」
温かな初夏の夜。生ぬるい風を受け、星も見えない曇り空を緊張した面持ちで見上げていたリディアは、激しい口調で名前を呼ばれて振り返った。
ガラス戸を抜け、大股でオーガストが歩いて来る。その姿に、ずくん、と心臓が重く痛み、彼女は歯を食いしばった。どくどくと、不安に鼓動が揺れじっとりとした冷たい汗が背中を濡らしていく。
殺せ……! コロセ……! コロセエエエエエ!
(落ちついて、リディア・セルティア!)
胸の奥で荒ぶり、声を上げて喚く存在を必死に宥める。みるみるうちに耳鳴りがしてくるがそれを堪えて、彼女は両手を前でぎゅっと組み合わせる。震える腕を隠して冷たい眼差しでオーガストを見た。
「お久しぶりです、マイロード」
片足を引いて、丁寧にお辞儀をする。そのよそよそしい様子にオーガストの表情が歪む。
「どういったことなのか、説明していただけませんか?」
ずかずかと近寄り、手を伸ばす。それを避けるように、リディアは一歩後ろに下がった。血管の浮いた彼の手が空を掴み、オーガストの眉間の皺がますます深くなった。
「リディア……!」
「申し訳ありません、マイロード。あなたの紳士的なお申し出を受けることができればよかったのですが」
今にも喚き散らしそうなオーガストを前に、リディアは持っていたレティキュールから扇を取り出すと顔の前で広げる。胸の奥でどんどんと心臓を叩く白き手の持ち主を意識しながら、彼女は青白い怒りに満ちた表情でオーガストを見下ろした。
「他の女性と心を通わせている方と一緒になるのはやはり無理ですわ」
心臓が、喝采を叫ぶようにざわめき、それを糧にリディアはくるりと背を向けた。
「な……なにを……!?」
「向こうを正妻に? 私を愛人にするつもりでした? ああそれとも」
見返り美人を意識しながら、リディアは肩越しに振り返ると、リアージュお得意のせせら笑いを披露した。人を苛立たせるには最高の芸当だ。
「結婚した後殺して、遺産を受け取るつもりでしたか」
ひゅっと、彼が息を呑む。こげ茶色の瞳に慄くような色が宿るのが見え、リディアは心臓に絡む手と一緒に心の中でよっしゃぁっと拳を突き上げる。
「図星だったみたいですね」
ふ、と目を伏せて嘲笑うような視線を向けた後、リディアはきびきびと歩きだす。テラスにはオーガストが入ってきたのと反対側にも扉があり、そこから再び舞踏室に戻ろうとした。
「待ってくれ!」
完全に背を向けて歩きだすリディアに、オーガストの切羽詰まった声が響く。
「何を根拠にそんな……俺を貶めるような嘘を吐くんだ!?」
(何を今更……)
リディアの手元には、命を賭して呪いを排除した彼女が持ち出した手紙がある。
くるりと振り返り、ひたりと元婚約者を睨み付けた。
「嘘? 嘘を吐かれているのはどちらでしょう」
「俺は君を助けたんだ! 君を追い出さずに領地に住んでいていいと言ったではないか!」
ずくん、と心臓が重く痛み、リディアはそこに手を当てる。宥めるように撫でながら、心臓を掴む手の代わりに静かに告げた。
「打算ありきで、ですわね」
低く鋭いリディアの一言に、かっとなったオーガストがあっという間に距離を詰めて近寄ってきた。伸ばした手が、白い手袋に包まれたリディアの手首を掴もうとする。
(何が指一本触れさせないよ)
ふん、と呆れたように鼻を鳴らしかけ、奴の鳩尾にハイキックを叩き込もうかと身構えた……その瞬間。
「紳士的とは言えない行動ですね、ロード・コートニー」
冷ややかな声が彼らの背後から聞こえ、リディアは驚いて目を見張った。
窓から差し込むホールの明かりを背に、黒々とした影となったリアージュが大股で近寄ると、オーガストの手首を掴んで後ろへと捻り上げた。
「ッ……オルダリア公爵……ッ」
ぎり、と折れそうな音を立てて奥歯を噛み締めるオーガストに、公爵閣下は冷たい眼差しを送る。
「申し訳ないがミス・リディアはわたしの婚約者だ。今日、周囲にはそう紹介したし、そもそも君はリディアに対してどんな権利も持っていないだろう」
低く、静かに告げられたその台詞に、リディア自身も目を見張った。それはどういうことだ。
「君は甘言でリディアを婚約者として扱っていたようだが、書面を交わしていないし正式な発表もしていない。ただ周囲に『婚約者が行方不明になった』と騒いでたいだけだ」
それは初耳だ。
(確かに『リディア』の持ち物にはオーガストとの婚約を示唆するような書面はなかったわ)
ただ単に口約束だけだったのか、とリディアは呆れた顔で青ざめる偽婚約者を睨み付ける。
「……閣下、その男はしかるべき手続きを踏んで私と婚約をしたと言っておりましたが」
低く冷たい声で進言すれば、オーガストの掴んだ手をリアージュが突き放す。たたらを踏んでバランスを崩す男を見下ろし、彼は見た者全てが恐れ慄くような笑顔を見せた。
「愛しいリディア、そんな事実はどこにもないから安心してください。この男はあなたに対してどんな権限も持っていない」
甘い口調で告げる内容ではないし、自分の名前についている枕詞に背筋が粟立つが、彼女は全てを押し隠して晴れ晴れとした笑顔を作って見せた。
「それでは私は何の問題もなく、公爵様と結婚できるということですね?」
「そういうことになるな」
リディアの手を取り、恭しく持ち上げる。指の先にキスをされ、「何もそこまでしなくとも」と内心苛立つが必死に笑みで誤魔化した。
そのまま二人揃ってバルコニーを通り抜けガラス戸から舞踏室に戻ろうとして。
「……リディアは……俺の家族だ。家族を護るのは俺の役目だ」
低い声でオーガストが呟き、振り返る二人に血走ってギラギラした目を向けた。
「勝手に連れていくことなど認めない!」
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