オルダリア公爵家③


「……婚約を受けてもらえるでしょうか? リディア」

 唐突に名前を呼ばれ、額が触れそうな位置で覗き込まれたリディアはふいっと視線を逸らした。いったんこの男の綺麗な薄明から目を逸らさないと、どんな不利益な条件でも呑んでしまいそうだった。

(これだからイケメンはッ!)

 いい香りがするのも解せぬ。

 必死に彼に汚染されていない空気を取り込んで気を落ち着かせてからちらりと横目で公爵を見た。

「……期間はどれくらいでしょうか」

 あくまでも、契約上の婚約だ。きちんと目的と期間を明瞭にして契約書を作らなくては。

 視界の端で、彼は「そうだな」と呟くと天井を見上げた。

「まずは半年かな」

「半年もオーガストをのさばらせる気なら契約は無効です」

 きっぱり告げれば、リアージュが可笑しそうに笑う。

「神に誓って、早期解決を目指そう。それに黒の領地への討伐戦は二か月後だ。半年もかからない。だが、延期のたびに契約し直すのも面倒だろう?」

 リディアの頬に触れて笑う男に、とりあえず悪態を飲み込んだ。

「わかりました」

「契約成立だな。では婚約者殿にはこれからレッスンを受けてもらう」

 ゆっくりと囲いを解かれ、はーっと腹の底から安堵の溜息をもらしていたリディアは、公爵から漏れ聞こえた物騒な台詞に目を見張る。

「…………レッスン?」

「ああ。我がオルダリア公爵家の花嫁になるのだから……相応しい女性になってもらわなくてはね」

「いやいやいやいや、私は閣下の花嫁になるつもりはありませんけど!?」

 身を起こし慌てて告げれば、ソファに座り直したリアージュが呆れたように眉を上げた。

「馬鹿も休み休みに言え。君は半年間、俺の花嫁だと世間から認識される。礼節を持った相応しい人間として振舞ってもらわなければ」

「……では申し上げますが、閣下。契約上の婚約者で、監禁が決定している私を一体どこに連れて行って、誰に見せるおつもりですか? そんな真似、しなくてもいいのでは?」

 引き攣った笑顔を見せれば、数度瞬きした男が手を伸ばして再度、頬の絆創膏に触れる。

「それは俺が決める」

(この男は……ッ)

 ぎりぎりと胸の内で歯噛みしながら、リディアは不満げに鼻から息を吐いた。その様子がおかしかったのか、リアージュが噴き出した。

「俺の婚約者に選ばれてそんなに不服そうにされたのは初めてだ」

「今まで婚約者を選んだことなどなかったではありませんか」

「その座を狙って身を投げ出す者は大勢いたがな」

 ふっと目を伏せて妖しく笑う男に、リディアは「同情できませんね」と鼻で笑う。

(まあ……レッスンと言ったって礼儀作法とか教養とかでしょうから。それくらいなら本物のリディアが覚えているだろうし、この世界で二度目の人生を全うしようと思ったら知っててもおかしくない知識があるかもしれないし)

 長い目で見れば自分のプラスになると考えを転換し、リディアは背筋を伸ばすと隣に座るリアージュに相対した。

「……わかりました。その条件を呑まないと先に進めないというのなら……お受けします」

 言って右手を差し出す。

 契約締結の握手だ。

 だがそれを、男は奇妙なものでも見るような……きょとんとした顔で見下ろす。

(この世界って女性が握手を求める習慣がないのかな?)

 なら画期的な第一歩だと、女性だって握手くらいします、と胸を張って教えようとした、その瞬間。

「……では」

 言って、リアージュは彼女の指先を取ると、軽く捻り持ち上げて手の甲に口付けた。

「!?」

 にやりと目の前で男が笑う。

「愛しいリディア。何があってもあなたを護ると誓いましょう」

 にまにま笑うイケメンの、揶揄うような視線を前にリディアは卒倒しそうになった。……怒りで。

「誰もこうしろなんて言ってません!」

「そうか? 婚約者に対して正しい扱いだと思うが?」

 反射的に言い返そうとして、ぐっと奥歯を噛む。いかんいかん、この人のペースに乗っては駄目だ。

「……申し訳ありません、閣下。我々の間にあるのは単なる契約であり、こういった親愛に近いものではありませんので」

 握手でお願いします。

 ぐ、と手に力を込めて引っ込めようとするが、指を握り締めた男は首を傾げるだけだ。

「閣下ではない、リディア。婚約者同士なのによそよそしすぎるだろう」

 名前で呼べ、と目が潰れそうな笑顔で言う。

「それともわたしの名前をご存じありませんか?」

 更にネコナデ声で言われて唇を噛む。

「知ってますわ。……リアージュ様」

「様もいらない」

「……リアージュ」

 引き攣った笑顔で告げれば、彼は満足した様に一つ頷き。

「リアでいい」

 あっさりと追加で要求を出してくる。

(親しい人しか呼ばない名前を……ッ)

 不意に原作を思い出し、リディアは呻き声を堪えた。リア、という呼び名を、ヒロイン、エトワールが使っていたのを思い出したのだ。何となく、その呼び方は取っておいた方がいい。エトワールが使ってこその呼び名だ。

「申し訳ありません、閣下。わたくし達、まだそれほど親しくはありませんので」

「リア」

「…………リアージュ様」

 両者共笑顔なのににらみ合い、どうでもよすぎる内容で火花が散る。先に動いたのはリアージュの方だった。

「では、俺が要求する呼び名で呼んでも不思議ではないくらい、距離を縮めればいいんだな」

「!?」

 はっと身構えるが遅かった。ソファの上にあっという間に押し倒され、抵抗するために振り上げた両手はやすやすと顔の横に縫い留められる。

「……リディア」

 そっと首もとに顔を埋めた男が、甘すぎる声で囁く。温かな吐息を耳殻に感じて、リディアは悲鳴のような声を上げた。

「わかりました、リア!」

「わかればよろしい」

 すっと身体を起こし、何事もなかったかのように立ち上がったリアージュが、息が上がって動けないリディアを見下ろして爽やかイケメンスマイルを見せた。

「ではわたしは政務があるのでこれで。レッスンの手配をしておくから、執事のドーズから詳しく聞いて実施するように」

 命令し慣れた様子で告げて、リアージュは大股に部屋を横切ると、大きな扉から出て行った。机の上には宝石箱が残されており、リディアは横たわったまま舌打ちをした。

 あれが自分の切り札だったのに、ぞんざいに扱われた上に計画とは百八十度違う方向に舵を切られている。

 だがこれも、全てが終わった後のセカンドライフのためだ。

 はーっと重い重い溜息を吐いて、リディアは起き上がる。一応は前進したのだと己の心に言い聞かせて。


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