リディア・セルティアの事情②



「う~わ~……まじか」

 焦げ茶の髪に焦げ茶の瞳。どこか子供っぽい様子。そこを読んで不意に凪は気付いた。

 新・コートニー伯爵、オーガスト・ブレンド。

 彼は例の文庫本でヒーローのイケメン公爵を陥れる人物だった。

 妻を殺し、彼女が父親から残された個人資産を奪い取った成り上りの伯爵で、王党派の公爵と対立する元宰相派に取り入ろうとする。

 貴族達が自家の騎士を連れて参加する、黒の領地での魔物討伐戦。その戦闘の指揮官となった公爵を暗殺しようと、オーガストは何者かの手を借りて出現する魔物を強化するのだ。

 その所為で公爵は腕を失いかける大怪我を負ってしまう。それと同時に、奴は公爵の血を使って古代竜を呼び出し、討伐戦の総司令である王太子をも殺そうとした。

 その時、神星官しんせいかんとして討伐戦に従軍していたヒロインが聖女としての力に目覚め、公爵の腕を直し古代竜も浄化し大勢の騎士から賞賛されるのだ。

 哀れオーガストは公爵の剣の錆になる。

(……つまり、放っておいても復讐は成し遂げられる、と)

 文庫本を読んでいてよかった。特になにもしなくてもいいじゃないか。

 そうほっと安堵したのも束の間。

「!?」

 凪は心臓に鋭い痛みを感じ、椅子から床へと転がり落ちた。そのまま心臓を抑えて痛みに浅い呼吸を繰り返す。何者かが自分の心臓を握っている……。

(これが……リディアの……)

 白い手。

 凪の現在の心臓に絡みつく……彼女の願いだ。

(わかったッ……わかったって!)

 きつくきつく締め上げられて、凪は息も絶え絶えになりながら語り掛ける。

(ちゃんと復讐は果たしますッ)

 ただ待つだけではダメなようだ。心の内で必死に唱えると、ふっと嘘のように心臓を締め付ける万力のような力は失せる。床に這いつくばったまま、凪はぜーはーと荒い呼吸を繰り返した。

(これは……相当にまずい……)

 ちょっとでも彼女の復讐心に違反することがあれば、容赦なく心臓を握られるということか。額に浮かんだ脂汗を拭いながら、凪ははーっと深い息を吐く。それから改めて椅子に腰をおろした。

 いくらかぼんやりしながら日記に視線を落とす。

 ぱら、とページをめくればオーガストとのらぶらぶな日々が書き綴られていた。その内容に凪は何ともいえない悲しい気持ちになった。

(原作のオーガストが遺産目当てで結婚し、殺された夫人っていうのが……)

 リディアだろう。

 だが彼女はまだ結婚していない。

 季節は廻り、二人は幸せいっぱいで婚約をする。そうして結婚式まであと三か月、と迫ったところで……。

「ッ!」

 はっと彼女は息を呑み、ばさり、と日記を床に落としてしまった。

 見開き二ページに渡って書き記されていたのは。

(……人の日記を読むべからずッ)

 赤いインクで何行にも連なっている「死ね」という文字だ。ぞわぞわぞわ、と背筋に鳥肌が立ち、凪は思わず自分の胸元を見た。だが心臓にまとわりつく白い手は特に動きを見せない。数ページ戻って確認すると、浮かれた描写の中に少しずつ身体の不調が混じり始めていることに気付いた。

 女神が言っていた「じわじわと死んでいく呪い」。その兆候が表れているとみていいだろう。

(この赤い日付の前日は特になんてことのない内容が書いてある)

 一体何があったのか。

 赤い日付で日記は終わり、凪は他に手がかりがないかあちこちを探してみた。机の引き出しには鍵がかかっており、一瞬悩んだ彼女は、首から下がっている紐に気が付いて引っ張り上げた。案の定、そこには鍵がぶら下がっていた。

(ここで隠れて日記をつけていたってことは……オーガストに全てを許していたわけじゃないってことよね)

 本能が、あの男はやばいと訴えていたということか。

 引き出しの鍵を開け中を確認すると、三通の手紙が入っていた。

 二通は差出人も宛先もわからない、私書箱へのものだった。もう一通はきちんとリディア宛てになっている。

(ふむ……)

 考え込み、とりあえず私書箱宛てのものから開封してみる。



 ──爵位、土地、屋敷……そして莫大な財産を得てわたしは立派な貴族となります。あなたを迎えるのに相応しい人物に。貴女はわたしの婚約と結婚に胸が張り裂けそうだとおっしゃっていましたね。でも抜かりはありません。わたしたちは結婚は愚か、婚約だってしてはいません。ただ遺言状をつくらせばそれでいいのです……──



(……ほう)

 すうっと凪の中の温度が下がり、心臓に絡む手もひやりと冷たくなるのがわかった。

 次の一通も開いてみる。



 ──貴女は偉大なる呪術師だ。こんなに早く効き目が出るとは思わなかった。貴女の血統の良さにわたしは震える思いです。本当に……本当にわたしでいいのですか? ああ、今すぐこの腕で貴女を抱き締め、柔らかな肌──



(もういいもういい)

 続く美辞麗句と鳥肌が立ちそうな内容に凪はあっさり目を逸らした。それから、これを見つけた時のリディアの心中を思って溜息を吐いた。じわりと心臓に痛みを感じるのは、絡みつく彼女の手の所為だ。そっと胸元に手を当てて凪は目を伏せる。

 はにかんだように笑い、おままごとのような触れあいを紳士的だと感じ、彼こそが苦境に立つ自分を助けてくれる王子様だと、リディアは思ったのだろう。

 だがそれはたった二通の手紙によって破壊された。

(いや……これだけではないんだろうな)

 この手紙を見つける前に、彼女は目撃したはずだ。素朴な笑顔の青年が、強かな笑みを浮かべて美女と歩くところを。もしくはどこかで抱き合っているところを。

 手紙を置き、ふーっと凪は溜息を吐いた。それから天井を仰ぐ。

 鼓動を激しくさせているのは、リディアの怒りだろう。似たような怒りを……自分はあの男に感じただろうか。後輩に覚えただろうか。

(どっちにしろ浮気彼氏あいつはもうダメだろうな)

 自分とあの男は同じ会社の同じ部署だった。仕事上は頼りになり、一生懸命な人間だった。向こうから付き合ってほしいと言われて、プロジェクトの延長の感覚で、一緒にいてもいいかな、と思ってしまった。そこからの交際だったが、二年目でこれだ。

 私生活では甘えて頼ってくるのであれこれ世話を焼いていたようにも思うが……今になって考えると体のいい奴隷だったような気がしないでもない。ただ仕事は上手く回っていたので問題はない気がしていた。

(まあ……結局ビジネスパートナーだったってことよね……)

 案の定、あの男はもっと刺激を求めて、二つ下の凪の後輩に手を出したのだろう。プロジェクトにどうにか関わろうとしていた後輩は、自分の領分を越えた行動が目につき始め、自分の仕事もおろそかにし始めた。

 いわく、先輩と一緒の仕事がしたいんです! と。

(頬膨らませて唇尖らせてうろちょろしてれば仕事が貰えるとか……どんだけ会社舐めてたんだか)

 しっかりと課長から釘を刺してもらった。お前の仕事じゃない、と。

 それを腹に据えかねたのか……凪が死ぬ間際に彼女はそんなことを喚いていた気がする。

 あんたさえいなければ、と。

 そうして彼女は凪を刺し、後に残った馬鹿な男は浮気相手が恋人を刺し殺して豚箱行きになった男、という不名誉すぎるレッテルを張られることとなったのだろう。

(まあ、ちょっとだけいい気味かな……)

 心臓の痛みが引き、絡む白い手に同情されたのだと悟る。まあでも、蝶よ花よと育てられたお嬢様が理想を打ち砕かれて鬼女になるほどの絶望感は自分にはなかったなと、苦笑した。

 あるのは虚しさ。

 自分の人生、一体何だったんだろうという。

(……そのために与えられた機会だっけ)

 リディア・セルティアは異世界転生を望むことなく、復讐を選んだ。オーガストに一矢報いたいと。身体に掛けられた呪いを解き、その自分の身体を与えてまで奴を葬ってほしいと願っている。

 それを叶えてやろうじゃないか。

 長い長い溜息を吐き、複雑に揺れた気持ちの水面を沈めてから、ふと凪はもう一通手紙があることを思い出した。

(これはなんだろう……?)

 開封し、文面を確認して眉間にしわを寄せた。



 ──ご依頼賜りました。明後日、ツィーリアの神殿までお越しください──



(神殿……)

 日付は赤い日記の翌週になっている。今日が何日なのかわからないが……神殿、ということで凪は唇を噛んだ。

 全ての生命力を使い切って、リディアは呪いを解いた。そうして死んだ際に運命の女神に復讐を願ったという話だった。つまりはどこかでリディアは解呪を実施しているはずなのだ。

 リディアが希代の魔法使いなら自分が読んだ例の文庫本に載っているはずだ。だが実際は名もなきモブである。しかもオーガストを悪役であることを説明する文に登場するだけの存在だ。そんな圧倒的モブが掛けられた呪いを解く力を持っているとは思えない。

(ツィーリアの神殿……)

 そこに行けば、なにかリディアの復讐の手助けになる情報が手に入るかもしれない。それに、死んだ彼女がどうなったのか……知る必要がある。

 そうと決まれば凪の行動は早かった。隠れ家に置いてあったトランクに手紙三通と日記、それから屋根裏部屋のすぐ下にあった自室からドレスを何枚かと下着、あと高価な宝石と現金を詰め込んで、使用人の目を盗むように屋敷を飛び出したのである。

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