リディア・セルティアの事情①
リディア・セルティアの人生は、父であるコートニー伯爵が死んで、爵位が遠縁の男へと引き継がれたところから狂い始めた。
たった今父親を埋葬し、屋敷に戻ったばかりのリディアの前に黒服の事務弁護士が現れた。
彼はこの屋敷、領地、爵位は全て遠縁のオーガスト・ブレンドに引き継がれ、リディアには何の権利もないことを淡々と告げた。四角い鞄から取り出した書類を差し出し、「期日までに退去してください」とだけ言って帰っていった。
残されたリディアは途方に暮れた。
大きな病気もせず、健康的だった父は馬車の事故であっけなく亡くなった。領地の運営も使用人の監督も、全てを父が請け負っており、リディアはただ毎日、蝶よ花よと可愛がられて生活するだけだった。社交界にデビューはしていたが、早くに妻を亡くした伯爵は、一人娘が嫁にいってしまうのを嫌がり、舞踏会や夜会には参加させてもらっていなかった。
つまり、頼りになる友人や婚約者はおらず、唐突に父親が亡くなったことで、リディアはあっさりと後ろ盾を失ってしまったのだ。
どうしよう……と手渡された書類を前に、リディアは絶望感でいっぱいだった。
これからは生きていくために仕事をしなければいけない。養ってくれていた父親はもういない。それとも全財産かき集めて王都に向かい、結婚相手を探そうか。
胃の奥がしくしくと痛みはじめ、眩暈がし、リディアは力なくソファに倒れ込んだ。もう出ないと思っていた涙が再びあふれ出す。
お父様はどうして私を置いて死んでしまったの……!?
そんな思いがふつふつとあふれ出し──……。
以上の内容を情緒的に、感情もあらわに書き綴られた日記から読み取った凪は、眉間をさすりながら顔を上げた。
ふーっと内圧を下げるように息を吐く。
(お嬢様……ああお嬢様、お嬢様……)
現代日本の冷たい社会機構を泳いできた自分には、トンデモナイ花畑令嬢にしか思えず複雑な心境になる。
(このお嬢様が私……)
低い天井が斜めになった屋根裏部屋は、どうやらリディアの隠れ家だったらしく、ガラクタが積み重なった部屋の奥の一画が綺麗に掃除され、細々とした私物が並べられていた。一体ここはどこなのか、と転生を果たした凪が恐る恐る調べるうちに、この日記を見つけたのだ。
自分を憐れむ文章が滔々と続き、砂を吐きそうになりながら凪は頑張って大事なところだけを再び読み始めた。
なんといっても、この日記を書いた人間に自分は転生しているのだ。
(……文庫本の内容と全然違うけど……)
出勤時に買った文庫本。まだ途中までしか読んでいなかったが、リディア・セルティアなる人物は登場していなかったし、そもそもあれは、イケメン公爵様と聖女の恋物語だった。
それが……リディアの生きた世界の……つまり、凪が転生した世界のことらしい。
(まあ……読んでいくうちに何か手がかりがあるかもしれないし)
時間ならいくらでもある。それに今の凪がどの時間軸にいるのか知りたい。
(浮気男の記述はないかな……)
ぺらぺらとページをめくりながら凪はそれらしい記述を探した。
オーガスト・ブレンドは焦げ茶の髪に焦げ茶の目を持つ、なかなかの美男子だった。だがその存在は、リディアにとって死神でしかない。
玄関ホールに立ち、物珍し気に辺りを見渡す彼に、リディアは絶望的な表情で挨拶をした。
「……伯爵様。実はお願いがございます」
丁寧に頭を下げ、リディアは引っ越しまで少し待ってほしいと、死にそうな顔で訴えた。それに対して、オーガストはやたらと恐縮し、「あなたを追い出すつもりはなかったんです」と柔らかい声で申し訳なさそうに告げたのだ。
「お嬢様にご迷惑をおかけするつもりも……もちろん、屋敷から出て行ってもらうつもりもなかった。ただわたしは……爵位の引き継ぎ手が自分だと聞いて、驚いただけなんです。そこに屋敷や領地が付随してくるなんて思ってもみなかった」
間に合わせに仕立てた背広とトップハットを手に、オーガストはもじもじと居心地悪そうにする。素敵な容姿とのギャップが大きくて、リディアはぽかんとしてしまった。
「ですが……こちらは伯爵様のものでございますので……」
いずれは出て行かなくてはいけない。そう悲し気に告げると、オーガストは泣きそうな顔をした。
「どうしてわたしを困らせるようなことをいうのですか? わたしはあなたを不幸な目に合わせたくない」
「……しかし、伯爵様が奥様を連れていらしたときに、私のことは何と説明するつもりですか?」
前伯爵の娘を可哀想だから養っている。なんて……世間の奥様が許すとは思えなかった。
そんなリディアの言葉に、オーガストはぽかんとすると、はにかむように視線を落とした。
「……そう……ですね。でも……あの……」
切れ切れの言葉は小さく、聞き取りずらい。
「はい?」
そっと近寄って耳を傾ければ、ぱっと顔を上げた男が真っ赤になってこう告げた。
「わたしと結婚すればいいのではありませんか!?」
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