第32話 なにゆえ剣の修羅は悲しむに至ったか
宙を舞っていたすべての呪がほどけて消える。
ただ草花のゆれる野原にたって、陰陽頭は笑って腕をひろげた。ぶんやりとした青白い光が陰陽頭の足もとからたちのぼる。
呪を放たれるより先に斬る。
わたしは頭がそう考える間もなく、懐まで潜りこんでいた。陰陽頭の紅潮した頬がすぐそばにある。
わたしは呪の音を耳にした。陰陽頭のまわりには幾重もの呪がわたしから守っているらしい。
わたしはそれらすべてを斬り捨てる勢いで剣を振り抜いた。
術というものは放たれるまでをふくめて戦いである。天文道が隙をもたらすというのなら、わたしは逃すほど薄情ではなかった。
わたしの剣が呪をどんどんと破っていくが、それでも間にあいそうにない。いったいいくつの呪で身を守っているのか、わたしは感嘆した。
「おお、素晴らしい。あとひとつ斬ればその刃わしの首に触れておっただろう。」
ふと、頭のうえから柔らかな声が聞こえてくる。燐光を漂わせて、陰陽頭がわたしを覗きこんでいた。
「だが、残念であった。すでに天文道は成っておる。」
わたしはすぐさまその首を刎ね飛ばさんと剣を振るった。
気がつくと、わたしはいつの間にか陰陽頭から遠い木の根もとでうずくまっている。おかしい、先ほどまでわたしは陰陽頭の首に刃をかけていたはずだ。
陰陽頭は、満天の星空のもとでわたしをみつめている。わたしをじっとみつめるその瞳はどこか悲しげであった。
星が瞬いていた。
わたしはすぐに剣を握って走りだした。遠くの陰陽頭、その命を奪わんとただそれだけを考えてひたすらに駆けていく。
だが、どれほど地を蹴ろうとも陰陽頭の姿はちいさいままだ。
「……哀れであるな、せめて一撃は許してやろうぞ。」
陰陽頭の言葉には、深い響きがあった。まただ、気がつくといつのまにか陰陽頭のすぐそばにきている。
わたしはすぐさま一閃を放った。
まったく動こうとしない陰陽頭の胴にまるで吸いこまれていくかのように刃が迫っていく。もう防ぎも避けもできない。
なぜなにもしない、わたしは陰陽頭の正気を疑った。陰陽頭はただひたすらに悲しげな顔をしているだけである。
「やはり、剣で天文道には敵わぬか。しょうこりもなくぬか喜びするのはこれきり止めにせねばならん。」
わたしの刃は、陰陽頭をかすめもしなかった。
ただそこにたっているだけの陰陽頭に、わたしは傷ひとつすらつけられない。これはいったいなんなのだ、こんな陰陽術などみたことも聞いたこともない。
さっと飛びずさるわたしに、陰陽頭はため息をついた。
「それではわしの術を逃れられんのよ。」
喉の奥からこみあげてくるものがあった。たまらず吐きだしたものを目にすると、それは血である。
指に力がはいらない。目もかすれて、耳などもうなにも聞こえない。
わたしはわたしがじわじわと死のうとしていることを感じた。血がただひたすらにこみあげて、わたしは悶絶する。
空に座する星々がきらびやかに輝いていた。
そんな星の光をあびながら陰陽頭が歩いてくる。不思議なことに、重苦しかった陰陽頭の気は鳴りを潜め、まるでただの童のようにしか思えなかった。
「天文道とは、卜占の類じゃ。過ぎ去ったこと、これからやってくること、なにもかもを知る陰陽道である。優れた術であったが、戦いにはむかなんだ。」
陰陽頭は私のすぐ隣に腰かける。
ああ、あれほどまでに抉りたかった心臓の鼓動がそばにあるというのに。地べたに這いつくばるわたしは歯を食いしばった。
「じゃが、わしはそこに希望をみた。天文道のしめす運命は強い、それこそいかなる呪でもかえられぬほどに。ならば、天文道にこそ真の力があると思った。」
―――運命をかえられぬのなら、星のほうを動かしてしまえばよい。
陰陽頭が星空をあおぐ。色鮮やかな夜がぐっとわたしたちを閉じこめていた。
その星は、今も絶え間なく動いている。光の軌跡を残しながら天は蠢いていた。
「この術は寂しいものじゃ、わしがこれはと喜んだ者をみな殺してしまう。どんな陰陽師も妖も、この運命からは逃れられんだ。」
ゆらりと陰陽頭の手がかざされる。
ただうずくまるわたしは、慚愧で歯を食いしばった。わたしを陰陽頭が諦めている、それだけで首をくくりたい。
剣の道を歩む辛苦をなによりも知っているはずのわたしが、陰陽頭におなじ悲しみを味あわせる。
それだけはあってはならなかった。
最後に残された力で、わたしは空を斬る。陰陽頭は地を這うわたしをみつめるのみで、なにも言葉にしない。
わたしと陰陽頭のいる鐘楼にかけられた呪を斬った。夜から昼へ、野原から陰陽寮へと景色がかわる。
わたしは真っ逆さまに湖へと落ちていった。
「わしの天文道、その編んだ運命からは剣の修羅とて逃れられぬ。ただそれだけよの。」
湖から橋へと這いあがる。血と泥で濡れ鼠となったわたしは、気怠い手をあちこちにのばしてなんとか陰陽頭のもとへとむかおうとした。
あんな顔をされて剣の修羅が死ねるはずがない。なんとしてでも斬りふせなければ。
いまだ夜は遠い、そのはずなのにどんどんと日が陰ってくる。
ギラギラと輝く太陽はみるみるうちに山へと隠れてゆき、満天の星星が顔をのぞかせる。
陰陽頭だ、陰陽頭が夜にしているのだ。
いまだ天文道の呪はわたしを蝕んでいる。敵には容赦ないはずの陰陽頭に呪われて生き永らえていることがなによりも恥ずかしい。
血で床を汚しながら、わたしは陰陽寮を歩む。
「秋継……?」
誰かがいる。瞳がかすんでいて、よくみえない。
その声には聞き覚えがあるが、あいにくとその人間のことは頭のなかでは剣に埋もれていて忘れている。
「なんで、そんなに血を流してっ、はやくこちらにきなさい!」
透明な雫がわたしの顔にかかった。わたしはゆっくりと瞳をあける。
そこにいたのは、なぜか泣いている狛だった。
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