第15話 なにゆえ剣の修羅は化け狸を式神にするに至ったのか

 陰陽寮の朝は日の昇るより先に始まる。


 卯の刻の鐘が鳴らされるころには学生は狩衣に身をつつんで私室を後にする。細長い廊にならべられた膳を軽く食すると、慌ただしく授業にむかうのであった。


 足もとをバタバタと学生が走っていく。


 それを眺めていたわたしは剣をゆっくりとひき抜いた。噴きだした血が学生の証である緑の狩衣を赤く染めていく。


 息絶えた鼠の化け物を梁のうえにのせて、わたしは天井から飛び降りた。


 どこからともなく現れた沢蟹がおっちらこっちらと妖の亡骸をどこかへと運んでいく。老婆の操る沢蟹は陰陽寮の細々とした仕事をこなしているようだった。


 ともかく、わたしも急がなければならない。


 はてさて、わたしはいったいどこにむかえばよいのだろうか、初日に渡された長い巻物を目をこらして読む。どうやら山のお堂にいかなければならないようだ。


 陰陽寮からの渡り廊下で山道までやってきたわたしは苦笑した。


 険しい岩道がえんえん霧に隠れた山頂まで続いているのだ、これでは授業に間にあうわけがない。そんな考えを裏づけるように授業の始まりを告げる太鼓が鳴った。





 岩場にひっかかるようにして寂れたお堂がある。音を鳴らさぬよう気をつかいながらわたしは中に忍びこんだ。


 ぼわぼわと学生たちの真言を唱える声が響いている。


 こちらを手招きする旭人の姿を目にしたわたしはこれ幸いと傍によった。血まみれのわたしに眉をひそめた学生たちがさっと離れていく。


 おかまいなしに経の記された草子をとりだすわたしに旭人がささやいた。


「みんなは火炎真言の音読をしてる。そのほかはなにも言われてないから問題ないと思うよ。」


「これはこれは、どうもありがとうございます。」


 本音を話せば真言など興味はなかったが、こうした親切を無下にするべきではない。わたしは旭人に感謝して、火炎真言なるところに目を落とした。


「いや、お礼をいわなくちゃいけないのは俺のほうだ。秋継は妖を退治してまわってくれてるんだろ。」


「べつにわたしが好きでしていることですから、それこそ礼などいりませんよ。」


 この陰陽寮はともかく妖の数が多い。勝手に殺しても誰も咎めないというので、わたしは喜び勇んで刀片手に陰陽寮を駆けずりまわっていた。


 そのせいで授業にたびたび遅れているのは秘密である。


 わたしの私利私欲によるものなのだから、感謝されるのは筋違いというか申し訳なくなる。ゆえにわたしは人目につかぬよう努めていた。


「それでも俺は助かってるんだから、秋継にお礼したいよ。」


「ではわたしと殺しあいをお願いします。」


「……それはちょっと無理かな。」


 だが、旭人にはわたしがなにをしているのか気づかれている。残念なことにわたしが勝負したいのは妖ではなく旭人なのだが、それは断られ続けていた。


「そもそもどうして俺なんだ? 俺ってそんなに陰陽術が得意じゃないし、剣だって秋継みたいな才能はないんだぞ。」


「それは……。」


 どうしてわたしに執着されるのか不思議だとばかりに旭人は首を傾げる。確かに、旭人が陰陽術に苦労しているのはわたしにとっても驚きだった。


 わたしが知る旭人はあくまで陰陽寮を出た後の彼に過ぎない。


 その頃の旭人はすでに京でも五指に入る凄腕の陰陽師であったし、小説のなかのわたしに憎まれていた。真言ひとつも満足に唱えられない姿からは想像できない。


 だが、それでもわたしは旭人の鬼神のごとき戦いぶりを知っていた。


「それでも、わたしは旭人でなければならないのです。」


 旭人と勝負をしたい、そう告げてわたしは剣をそうっと撫でる。そのとき、旭人の懐から顔を出したカワウソがわたしに唸った。


「そういえば、そのカワウソ。なにやら妙な気配があります。まるで呪いかなにかをかけられているような気がするのですが、問題ないのですか。」


「え、いや問題ない問題ない。こいつのことは気にしなくていいから。」


 わたしがカワウソの話をすると、旭人はいつも焦った顔になる。どうやらそのカワウソには秘密があるらしいが、そんな話など小説にあっただろうか。


「そこまで、唱和を止めてよい。」


 わたしが首をひねっていると、重苦しい声がお堂に響いた。


荒削りの鬼神像が祀られた仏壇のそばに、笠で顔を隠したひとりの巨漢が座っている。黒の僧衣を身にまとったその男は真言博士であった。


「真言は仏の言葉であるから、そうして何度も口にして身に馴染ませるがよい。話せぬ言葉に意味はない。」


 真言博士の鋭い瞳が学生を睥睨する。真言に興味のないわたしでも、真言博士にはあった。


 陰陽寮の博士たちは術の深奥を極めた者ばかりあって、みな怖気が走るほどの悍ましい力を身に秘めている。そんな強者たちと勝負が叶えばどんなに嬉しいことか。


 そんなことを考えているわたしに、真言博士がちらりと目をやった。





「どうしてそんなに旭人なんかにご執心なの? 許嫁なんだからわたしのそばにいなさいな。」


 甘い吐息が耳をくすぐる。


 式神道の授業で湖の奥の鍾乳洞に足を踏み入れたわたしに狛が背中からのしかかってきた。そのまま狛が腕を首にまわしてくる。


 そんな言葉は旭人がいるのなら控えるべきではなかろうか。苦笑する旭人に、狛がどこか冷たい瞳をむけた。


「で、そこの旭人なんていう野蛮人はどうやってわたしの秋継の気をひいたの。秋継はこんなにわたしに興味をもってくれたことなんて一度もなかった。」


「べつに俺はなにもしてないはずなんだけれどな……。それにしても、狛さんって秋継のことになったら言葉が刺々しくなるよね。」


 そうなのだ、ほかの学生と話していると狛は頭がよく人好きのするまさに理想の優等生といった様子なのである。それが、わたしに声をかける時だけおかしくなる。


 わたしの髪に顔を埋めて狛が息をしている。


 わたしは狛のなされるままになった。ときどき感じる狛の気持ち悪い目に鳥肌をたてながら、わたしはじっと耐える。


 狛ははやくも学生たちの間で人望を集めていた。そんな狛に逆らって厄介な問題に巻きこまれたくはない。


 こうして好きにさせておけば平穏に妖を退治してまわることができる。


「秋継が困ってるから、狛さんもそれぐらいにしておいたら?」


「……。」


 旭人を睨んでから、ようやく狛はわたしから手を離してくれた。わたしは心のなかで旭人に感謝する。


 どうも狛はちょっと恐ろしく感じる。


「それにしても、俺の式神はいったいどんな妖なんだろうな。今から呼ぶっていうんだから汗が止まらないよ。」


「陰陽術が得意でない旭人にろくな式神が仕えるわけがない。期待ばかりしても意味がないと思うけれど。」


 わたしといると、あいかわらず狛の言葉は刺々しい。それはそうとして、わたしは式神という言葉に思いをはせた。


 ひとりの陰陽師はひとつの式神しか従えられない。


 それが式神道の原則である。たとえば式神博士であるあの老婆は無数の沢蟹をそれぞれ操っているわけではなく、沢蟹の群れというひとつの妖を式神にしている。


 古より式神は陰陽師の才を占う、大切な術であった。


 式神は術者の力量にみあった妖なりが呼ばれる。しかも契約できるのは一度桐ともなれば旭人が険しい顔になるのもむべなるかなである。


「問題ありませんよ、旭人ならば強力な妖を式神にできるでしょう。」


 だが、わたしは小説で旭人が従える式神を知っていた。


「なんでそんなふうに断言できるんだよ、やっぱり秋継はひいき目なんだって。俺なんかより狛さんのほうがよっぽど望みがあるよ。」


 わたしの言葉を冗談だろうと笑い飛ばした旭人が肩を叩いてくる。だが、わたしは真剣に旭人がここの学生たちのなかでもっとも強力な式神を得ると確信していた。





 沢蟹がごそごそと祭壇をいくつも運んでくる。その奥の暗がりからかすかに笑みをうかべた老婆、式神博士が姿を現した。


 式神博士は無口で、言葉を口にするところをわたしは目にしたことがない。


 今日もまた、沢蟹がもってきた紙に達筆でさらさらと文を書いては学生たちにみせていた。これが式神道の授業のいつもの光景である。


 話が終わると、ついに式神を呼び出す時が来た。


 しめ縄でわけられた儀礼の場へとそれぞれが足を踏み入れる。小さな膳のうえに米や魚、蛙の頭が意味をもっておかれていた。


 ぶつぶつと祝詞を口ずさむ。


 わたしとしては己の式神などどうでもよかったので、目は絶えず旭人をちらちらと追っていた。しばらくして式神を呼ぶことに成功した学生がどんどんと増えていく。


 六尺もあるような大きなナマズから、人さし指ほどの大きさのひとつ目のよくわからない小人までだんだんと鍾乳洞が賑やかになっていく。


 やがて、旭人のほうで水柱があがった。


 怒涛の勢いで激流が荒ぶり、まわりの学生たちが慌てて離れていく。宿敵の式神をはやくこの目に入れようとわたしが目を凝らしたその時であった。


 ボフンと大きな音がして、煙が舞う。


 いつのまにか、わたしのすぐそばに、ひとり怪しげな女がしだれかかっていた。流し目でわたしをじっとみつめている。


 どうやらこいつがわたしの式神であるらしい。


 が、今のわたしにはどうでもよかった。式神に目もくれず、わたしはひたすらに旭人のほうに目をやる。


 そんなわたしの顎をつかんで、女が目をあわせてきた。


「あぁ、そんなつれない。きちんとあてしに目をやってくださいな。」


 まるでみる者を骨抜きにしてしまうような妖艶な笑みは、わたしには意味がなかった。わたしは女をふりはらう。


もしもわたしを誘惑したいというのなら、名刀をもってくるほうがましだ。


 それに、わたしの耳が女の真の姿をはっきりと伝えていた。女のあでやかな声に混じって聞こえてくるのは、フスフスという獣の鼻息である。


 わたしは女の頭に乗っている葉っぱを軽くはたいた。


 とたん、煙が晴れてほんとうのわたしの式神の姿が露わになる。それはまるまると太った化け狸であった。


 いきなり幻を破られて驚いているのか、固まったままの狸のつぶらな瞳と目があう。主を化かそうとしたのが失敗に終わったと悟った式神は冷や汗をかいていた。


 わたしの式神がごろりと横になり、わざとらしく目をつむる。そのまま狸寝入りを決めこむことにしたらしかった。

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