閑話 なにゆえ摂関家の姫は父の客人を欲するに至ったか
痛い。幼い頃のわたしの思い出はそれだけだった。
妖に、生きたままに貪られる。ぶくぶくと肥え太った芋虫が腹に噛みついているのを、わたしはぼうっとみつめた。
夜のたび、わたしは妖に痛めつけられる。
父は夷勢穂の先祖の言葉にするも悍ましい業がゆえの呪いだと語った。だが、わたしは不幸にして夷勢穂の祖人の顔をみたこともない。
誰もわたしを助けられない。
妖からわたしを守ろうとした母はあっという間にカミキリムシに頭をかじられて死んだ。わたしを愛していると口にする父は夜になるとわたしから離れる。
つまるところ、わたしはひとりで地獄の責め苦を負わなければならなかった。
蒸し暑い夏の夜も、しんしんと雪の降る冬の夜も、わたしは離れでただひたすらに妖に嬲られる。死なぬよう生かさぬよう、妖は丁寧にわたしを傷つけていった。
ほんとうに痛いのだ。
だから、わたしはすべてを諦めた。わたしはそういう縁の下に生まれたのだから、幸せに生きるなどはなから無理だったのだと己に言い聞かせる。
父はわたしの死を恐れていた。
わたしは違う。いずれわたしの命を奪いにやってくるという神のことをわたしは待ち望んでいた。
わたしは生きることの喜びがわからない。
こんなに命あることが苦しいのなら、いっそのこと死んでしまいたかった。死だけが、わたしの希望だった。
客人と会ったのは、月がきれいなある晩のことである。
父の雇った陰陽師にさらわれたと聞いても、わたしは興味がなかった。どうせ死ぬのが遅くなっただけだ、むしろ助けられたほうが迷惑だった。
どうせ屋敷にもどれば、あの生き地獄が続くのは目にみえている。
「今晩よりわたしが姫の身を守ります。」
父がわたしを溺愛していることは有名な話だ。父に気に入られようと陰陽師たちがわたしに媚びを売ってくるのには慣れている。
だから、客人がわたしを守ることになったと聞いても驚きはしなかった。
客人は富にありつこうと必死なのだろう。気の毒なことに、長続きした陰陽師はひとりもいなかったが。
なにはともあれ、今晩はすこしの間だけはよく眠れそうだった。か弱げな容姿の客人にわたしはたいして期待しなかった。
朝、小鳥のさえずりで目が覚める。
こんなにぐっすりと眠りにつけたのは生まれてから初めてかもしれない。わたしはうんとのびをして、異常に気がついた。
夜に妖にいたぶられることがなかった。
わたしは血まみれの客人が息絶えた物の怪に混じって倒れているのをみつける。その傷は深く、わたしは客人が未だ生きているのが信じられなかった。
「狛さま、言葉を守って妖どもからひと晩は姫を守ってみせましたよ。これからもよろしくお願いいたします。」
肌を伝う血をまったく気にしていないかのようにあっけらかんと客人が笑う。無理をしたせいか、そのまま倒れてしまった。
わたしは客人のことを初めて気にするようになった。
今まであれほどの重傷を負ってまでわたしを守り抜いてくれた陰陽師はいない。客人は頭のどこかが狂っているようだ。
そんなわたしの考えは、その日の晩に布でぐるぐる巻きにされながらも客人が姿を現したことでより強まった。
「狛さまをお守りする役は死んでも手放すつもりはございません。」
どうみても折れている腕を客人はぶらぶらと振っている。
こんなことは初めてだった。こんな酷い目にあってもわたしを守ってくれる人は初めてだった。
初めてのことに、わたしの心は千々に乱れる。
「ひと晩は生きのびた陰陽師など両手では足らぬほどいたわ。勝手にすればいいけれど、どうせあなたもわたしを厭う時がやってくる!」
冷静を欠いたわたしにできることは、そうして無理に強がって離れにこもることだけだった。布団の中でわたしは胸の奥からこみあげてくる期待を必死に抑えこむ。
その晩も、わたしは妖に眠りを妨げられることはなかった。
妖に痛めつけられなくなって、どれだけの日が過ぎただろうか。
もうこの世ならざるものに怯えることもなくなったわたしは、初めてこの世の美しさというものを知った。
いつかやってくる夜にびくびくすることがなくなっただけで、すべてが輝いてみえる。庭の草木が咲かせる花はいつまでみつめても飽きることはなかった。
ああ、生きるとはこんなに幸せなことだったのだ。
わたしは生まれて初めて楽しさで時を忘れるということを経験した。こんなに満ち足りた日々が永遠に続くのなら、どんなによかっただろうか。
だが、わたしはきちんと己をわきまえていた。
「明日、神がおぬしの命を奪いにくる。」
だから、父のその言葉にも心は動かなかった。わたしは、己がそういうどうしようもない星のもとに生まれたことをよく知っている。
「すまぬ、ここまでずっと黙っておってすまぬ。わしはただおぬしを苦しめたくなかったのだ……。」
わたしの肩を握って父がひたすらに涙を流す。わたしは庭の花に目をやって、もうこの景色も最後なのだと考えた。
「狛よ、わしはおぬしの幸せを心から願っておった。どうであったか、この世での生は楽しかったか?」
「生まれてこなかったほうがまし。」
父のすがるような問いに、わたしはそのほかの答えをもたなかった。妖に喰い荒らされ、最後には荒ぶる神に惨たらしく殺される人生を喜ぶなどできるはずがない。
肩を落とす父を、わたしは冷たい瞳でみつめた。
わたしの死に涙を流す父も、わたしが妖に喰われている間は一度も助けにきてくれなかった。とどのつまり、わたしはそういう人間なのだ。
そういう意味ならば、人生の最期に幸せな幻をみせてくれたあの客人には感謝しするべきなのだろう。父と違って客人はわたしを守ってくれたのだから。
この世のものならざる蛾が舞っている。みる者を惑わす蛾の群れの羽ばたきを、わたしは光のない瞳でみつめた。
神がやってきたのだ。
「……ほんと、どうせ死ぬんだったらもっと早くがよかった。」
「この地にかつてその名を轟かせた偉大なる古の神に、畏くも願い奉ります! 剣の果てを極めんため、わたしが尋常に真剣勝負を挑みましょう!」
客人の威勢のよい声が、わたしの耳に飛びこんでくる。
わたしは信じられないものをみるような目で、ゆっくりと振りむいた。笑いながら客人が藪から駆け出してくる。
まさか、そんなはずは。心の中で何度も否定する。
だが、目に入ってくるものはなにも変わらない。あろうことか神の化身たる蛾を斬り捨てながら、客人はまっすぐにわたしにむかってきていた。
やめてほしかった。そんなことをされたら、嫌でも期待してしまう。
わたしは無我夢中で感情を殺す。希望を抱いては駄目だ、どうせすぐに裏切られて傷つくのはわたしなのだから。
息が荒くなる。
そんなわたしの心も知らずに、客人はいつもの笑顔でわたしをみつめた。いつも妖からわたしを守ってくれた客人の刃が光を放つ。
「お伝えしたでしょう、狛さまをお守りする役は死んでも手放すつもりはございませんと。」
ああ、そんなものずるいに決まっている。
今までずっとひとりだった。誰も守ってくれずにずっと妖に苦しめられなければならなかった。そんなわたしにその言葉は、卑怯だ。
生まれてからずっと気持ちを閉じこめていた檻が壊れる。
「馬鹿、馬鹿なの……? そんなことのために、祟り神まで敵にまわして……。」
涙があふれて止まらない。むき出しの感情がこみあげて、わたしは泣き叫んだ。
客人が剣を振るう。だがそんなものを歯牙にもかけず、蛾の群れが嵐のように客人を吹き飛ばした。
それは誰もが予期していたであろう光景であった。神と人とでは勝負にならないことなど赤子でも知っているだろう。
それでもたちあがる客人は無謀にも神に挑む。
どんなに痛めつけられようとも、どんなに傷つけられようとも、客人はわたしを捨てて逃げだそうとはしない。
蛆の湧いた耳を客人が斬り落とした。
たとえなにもかもを失っても、客人は神と戦おうとするのだろう。わたしはそんな客人の剣に目を奪われていた。
ただひたすらに美しく、強く。
それはまさに一輪の花のような技であった。ひたむきに神にむけて捧げられる客人の剣に、神が笑い声をあげて喜んでいる。
神も、わたしとおなじ気持ちなのだ。剣に命を捧げた客人の一途な思いはまるで宝石のように煌びやかで、目にした者の瞳を焼いてしまう怪しい魅力があった。
力尽き倒れふした客人に、神が祝福を与える。客人の剣に鎮められた荒神は、穏やかな表情を残して夜明けに姿を消していった。
わたしはたまらず客人にかけよる。
「あなたはどうしてこんな無茶なことを……!」
わたしの腕の中で客人はふわりと笑って、すぐにその瞳を閉じてしまった。下人をひきつれた父が客人を屋敷へと運んでいく。
その様子を眺めながら、わたしはいまだ客人の暖かな肌の温もりが残る手のひらをみつめた。客人の柔らかな笑みが頭にこべりついて離れない。
欲しい。
ふつふつと醜い欲望が湧きあがってくる。どんな時でもそばで守ってくれた客人はわたしが初めてみつけた宝物であった。
あの清純で儚いあの客人をわたしの色で染められたならどれほど気持ちよいか。そう考えただけでキヒッと気持ち悪い笑いがもれる。
しかたがないだろう、わたしをおかしくしてしまったあの客人が悪いのだ。
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