第11話 なにゆえ剣の修羅は神の奇跡を授かるに至ったか

 蛾の群れが、わたしを囲んでひろがっていく。柔らかな羽に描かれたまだらの紋様がしだいにぼやけていった。


 瞬間、わたしは剣閃を縦横無尽に走らす。


 ふわふわと飛んでくる蛾が次々と斬り捨てられてどんどんと土に落ちていった。庭の花々にまるで雪のように白い蛾の死骸が積もっていく。


 だが、いかに剣に魂を捧げたわたしといえどもすべての蛾を殺しつくすことなど不可能であった。


「客人、逃げて!」


 狛の悲痛な叫びが耳を揺らす。


 蛾の怒涛に飲みこまれたわたしはあっというまに前後左右の間隔を失った。剣を無理やりに振るうも、蛾の群れに弄ばれる。


 屋敷まで吹き飛ばされたわたしは柱に背をぶつけて血を吐いた。


 そんなわたしに容赦なく神の怒りは降りかかる。この世ならざるほどに美しい蛾の嵐が、屋敷ごとわたしをなぶった。


 がむしゃらに奥義を繰り出し、目についた蛾から斬っていく。


 それでも間にあわない。神の化身たる純白の蛾はわたしをあざ笑うかのように刃をすり抜けて肌にひっついてくる。


 喉奥まで潜りこんでこようとする蛾を死に物狂いで貫いたわたしは、蛾から逃げ出そうと駆け出した。


 が、そんなことを許すようでは荒ぶる神ではない。


 「なっ。」


 吹き飛んできた蛆が、わたしの耳にとりついた。声をあげる間もなく、蛆がわたしの肌を喰い破り、肉に噛みつく。


「あああっ!」


 想像を絶する激痛で知らずうちに叫びながら、わたしは蛆をひきちぎって投げ捨てる。じくじくと痛む耳を抑えていると、なにか奇妙な音がすることに気がついた。


 カチカチ、カチカチ。


 その音はどんどんと大きくなっていく。いったいなにが起きているのかと緊張が走ったわたしが目をこらしても、おかしなことはなにもなかった。


 ただ、遠くでひらひらと蛾が舞っているだけである。


 カチカチ、カチカチ。


 わたしはようやく音がすぐ近くで鳴っていることに気がついた。


 耳を抑えていた手を離す。手のひらのうえには今にも卵から孵らんとする蛆の姿があった。


 ぶちぶちと肉をひきちぎられる音がしてくる。わたしは己が耳に蛆がたかっていることを悟った。


 いつのまにか、地を覆う蛾の体からどんどんと蛆が湧いている。蛆に巣食われた桜の木が幹から腐り落ちて倒れていった。


 蛾の群れが優雅に舞っている。


 やがてそれは次第にかたちをとり、ひとりの老人のしわくちゃの顔を作った。その黒い瞳からは冷たい悪意がしんしんと伝わってくる。


 老人の顔をとった神は、苦しみもがくわたしを嘲笑するかのように覗きこむ。そしてわたしの笑顔を目にした。





 神が、不可思議なものをみたとばかりに首を傾げる。わたしはただひたすらに喜び笑っていた。


「……すばらしい。」


 わたしの口から声が漏れる。


「これが神というものの権能ですか。なるほど陰陽師も逃げ出すわけだ、こんなもの人が敵うはずがない。」


 かつての世で歩んだ剣の道も、蔵で学んだ剣の技も、妖を殺して染みつかせた勘も、なにもかもがこの神には意味をなさない。


 まったく本気でない神に、こうも手が出ないものか。いたぶられ、弄ばれ、これでは真剣勝負などではない、たんなる虐殺である。


 だというのに。わたしは剣をもちあげた。


 刃を耳にかける。わたしがなにをしようとしているのか気がついたらしい狛が手をのばして止めようとしていた。


 どうして、こんなにも胸が高鳴っているのだろうか。


 強者との戦い、己よりも実に優れた者との戦いに恐れよりも喜びが勝る。そんなどうしようもない修羅である己にあきれながら、わたしは耳を斬り落とした。





 耳ごと蛆を捨てたわたしに、神がしゃがれた声で笑う。奇妙なことに、それはまるでわたしを賛美しているかのようであった。


 そんな神に、わたしは刃をむける。


「もう、もう戦わなくていいから! わたしが死ねばいいんだから、だからもうやめて!」


 狛の叫びがうるさくてしかたがない。


 この世に生をうけてからこれまで、こんなに楽しいことはなかった。耳から鮮血を垂れ流しながら、わたしは神に飛びかかる。


 ああ、なんて幸せなんだろう。


 足もとの蛆虫を華麗に避け、蛾の羽を斬り裂いていく。剣が唸りをあげて、老人の顔の幻にむかっていく。


 右から蛾の群れが飛びかかってくる。避けるのはもう間にあわない。剣で身を守るにはいささか数が多すぎる。


 ならば、致命傷を避けられればよい。


 手と足が動かなくなるようなものは斬り、もしくは避けた。残りの蛾が私の体を穿っていく。血しぶきがあちこちの傷から吹きあがった。


 まだ戦える。


 今度は下から蛆が足を腐らせようとたかってくる。飛びあがったとしても、いつかは地に足をつけなければならないのだから意味がない。


 ならば、腐るより先に神を斬り殺せばよい。


 蛆をわたしは顧みなかった。蛆が次々とわたしの足に飛びついて、肉を喰らい始める。その激痛を、わたしは感じなかった。


 まだ戦える。


 もうあの老人の顔まであとすこしだ。宙を軽やかに舞う蛾の群れも、地で蠢く蛆虫の山も、もうわたしを止めることはできない。


 上下左右、どこに顔をむけても蛾のほかは目に入らなかった。


 これでは神に傷をつけたとて、その瞬間にわたしの命は尽きるだろう。だが、わたしはそれで満足だった。この神との勝負には、それだけの価値がある。


 純白に染まった世界で、わたしはまるで踊るように太刀を振るった。


 かつてこの盆地にてまつろわぬ神を崇めた巫女が捧げた剣の舞。その美しき剣の秘跡は人ならざるものをも惑わす力をもつ。


 わたしの最後の技は、くしくも古に神へと捧げられた剣の奥義であった。


 ふわりと軽やかに弧を描いた剣は、まったく軌道が読めないままに神へとむかっていく。しわくちゃの顔をした神がまるでなにかを懐かしむかのように目を細めた。


 宙にうかぶ老人の顔に、ゆっくりと刃が入っていく。


 まったく肉をとらえた感触がない手ごたえに、わたしは己の負けを悟った。それでも、わたしは剣の舞に己のすべてをかける。


 ただひたすらに美しく、ただひたすらに恐ろしく。わたしは剣を振るった。





 足はもう痛みを伝えてこない。腐り始めているのだから、それもそのはずであった。


 あおむけに横たわったまま、わたしは夜空をみつめる。


 ついに生涯の敵と定めたあの主人公と勝負することは叶わなかった。だが、それでもわたしはこの生に感謝していた。


 あの神は実に強敵であった。それこそそこが知れぬほどの権能をもった神に負けるというのなら、納得もいくというもの。


 穏やかな表情のわたしを、神が覗きこんできた。


 しわくちゃの老人の顔からは、もう背筋の冷たくなるような憎悪は伝わってこない。なぜかわたしを慈しむような笑みをうかべていた。


 蛾が、ふわりとわたしの足を包みこむ。


 すると、驚いたことにわたしは足に流れる血を感じた。そばですべてを目にしていた梟の顎ががくりと落ちる。


 腐り落ちたはずのわたしの足が、まるでなにもなかったかのように戻っていた。


 いったいどういうつもりなのか、神の意図を量りかねたわたしはただひたすらにその瞳をみつめる。つきものの落ちたような顔で神は静かに笑っていた。


 気がつけば地の蛆はみな蛾となって空に舞いだそうとしている。


 その羽が、かつてわたしの耳があったはずの傷を優しく撫でていった。神がわたしの耳を口にする。


 瞬間、わたしはなにもかもが聞こえた。


 数千里は遠くで音を奏でる小川から、そばの狛が紡ぐ心配げな吐息まで、なにもかもが耳に入ってくる。


 それは、確かに神がわたしに与えた恩寵であった。


「まさか、客人はたったのひとりで荒ぶる神を鎮めたというのか……?」


 唖然とした梟の言葉が宙に溶けていく。神は最後にわたしを一瞥してから、千もの蛾となって明けの空に飛んでいった。





 ……やれやれ、まだまだわたしも未熟者である。この世での初めての敗北を、寝転がったままのわたしはほろ苦く噛みしめた。


 だが、そんなわたしの剣でもあの神は満足してくれたらしい。ならば、その期待にこたえかならずあの神の首を獲りにいくと誓おう。


 この身に宿った奇跡に、わたしは静かに感謝した。


「あなたはどうしてこんな無茶なことを……!」


 かけよってきた狛に抱きかかえられる。わたしは狛に声をかける間もなく気を失ってしまった。

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