第8話 なにゆえ剣の修羅は貴族の姫に興味をもつに至ったか
夷勢穂氏の屋敷は内裏のすぐそば、大路のそばに門をかまえている。いつまでも続く真っ白な築地塀からはその隆盛がうかがえた。
大路はかがり火に照らされて昼のように明るい。
今の摂政が暮らしていることもあってか、ひとりの陰陽師が門の守りについていた。これならばあの陰陽師に狛を渡してわたしは退散できるやもしれない。
高貴な貴族に目をつけられても、一銭の得にもなりはしない。むしろ剣の修練の時間が削られて損だ。
「そこのやつ、怪しいな! ここは今の摂政、夷勢穂さまの邸宅なればすぐさまに去るがよい!」
陰陽師の鋭い声が耳を揺らす。わたしは牛車を止めて、陰陽師に語りかけた。
「狛さまをお連れしております! たまさか、狛さまが牛車にて従者もおらずに困り果てていらっしゃるところをみつけたのです!」
私の言葉に陰陽師が血相をかえて駆けよってくる。
「狛さま、失礼いたします。」
すだれを持ちあげて牛車のなかを覗いた陰陽師が、狛の姿を目にした。主の姫の無事を知った陰陽師が安堵したように胸をなでおろす。
狛がさらわれたとなれば屋敷を守っていた陰陽師は責を負って打ち首であってもおかしくない。陰陽師はまさに首の皮一枚がつながったようなものであった。
「そこの者、よくやった。恐らくは夷勢穂さまから存分に褒美を賜るであろう、そのまましばし待て。」
深々と私に頭をさげた後、陰陽師が屋敷の門にむかおうとする。その腕をわたしは掴んだ。
怪訝な顔をして陰陽師が振り返る。
「なんだ。」
「いえ、わたしのような下賤な者に摂政殿からの褒美など恐れ多くてしかたがありません。ここは貴殿が狛さまをみつけたということにしませんか。」
とにかく、わたしは早くこの場を去りたいのだ。
わたしから手柄を譲ると打診された陰陽師が目を見開く。誰かに聞かれていないかと周りを見回した陰陽師が、がしりとわたしの手を掴んだ。
「それは誠か。」
「ええ、わたしも追われる身なれば騒ぎは好みませぬ。屋敷を常日頃からお守りなされている貴殿には報いがあってもよろしかろうと存じます。」
「それはかたじけない。是非にお願いしよう。」
狛を救い出したのは己ということにすれば、陰陽師の名誉は守られる。そして、わたしもまた剣の道になんの憂いもなくもどることができる。
こんなに素晴らしい話などないだろう。
堅く手を握り交わした後、陰陽師に牛車の手綱を渡す。そのまま、わたしはそそくさとその場を去ろうとした。
が、その瞬間。
「ハ――――――クッ!」
鼓膜が破れんばかりの大声が闇夜につんざく。門をつき破らんばかりの勢いでどっぷりと太ったひとりの貴族が屋敷から転がり出てきた。
どしどしと地響きを起こしながら、その貴族は牛車にむかっていく。そして、狛の姿を目にした途端、大粒の涙を流した。
「よくぞ無事であった、父はお主のことを思って眠れぬ夜を過ごしていたのだぞ!」
「……うるさい、離れて。」
抱きついて涙でぐしゃぐしゃの顔をすりつけてくる父をうざったそうに狛があしらう。感涙にむせび泣く父と違って、娘は不機嫌そうな表情だった。
それよりも、この肥え太った男が狛の父であるということは。
わたしはすぐさまに額を土にこすりつけた。隣りで青白い顔をした陰陽師もまた跪いている。
わたしの額をたらりと冷や汗が流れ落ちた。
この貴族こそが今の摂政。この国で最も大きな権勢を誇る殿上人の頂点に君臨する男、
梟がくるりとわたしたちに振りむく。わたしは身動きひとつできなかった。
このご仁の機嫌をすこしでも損ねてしまえば、地の果てまでも朝廷に追いかけられることになるだろう。
それはそれで実に魅力なのだが、剣の鍛錬が疎かになってはもとも子もない。
「そこの童がわが愛娘を救ってくれたというのか。これは厚くもてなしをせねば夷勢穂の名が廃る、さあ屋敷へどうぞ。」
わたしの肩を叩きながら梟がふくよかな腹を揺らして笑う。が、その底冷えする瞳はすこしも笑っていなかった。
断ればどうなるかは火をみるよりも明らかである。わたしは諦めて梟にうながされるまま夷勢穂の豪勢な屋敷へと足を踏み入れた。
庭の池にきれいな三日月がうかんでいるのをわたしはぼんやりとみつめる。わたしが梟の客人となってから数週間が過ぎようとしていた。
未だ道に迷う夷勢穂の屋敷にて、わたしは漫然と時間を無駄にしている。
そもそもわたしはこんなに長く夷勢穂家に世話になるつもりはなかった。梟の狛を助けた褒美とやらを断ってすぐさま去るつもりだったのだ。
だが、梟はその度にわたしを言いくるめてしまうのである。
だが、さしもの摂政の望みとあっても、わたしはずるずると屋敷にとどまり続けるわけにはいかない。剣の道を歩むのならばぬるま湯などいらぬ。
「客人よ、そんなところにいらっしゃったのか。ちょうど支度ができたゆえ、夕餉をともにしましょうぞ。」
「梟さま、わたしはもうこの屋敷を去らねばなりません。わたしのような矮小な身にも歩まねばならぬ道がございます。」
にこやかに語りかけてくる梟の誘いをわたしは遠回しに断った。
梟の表情が曇ったのを目にして、わたしは傍らにおかれた太刀を握りしめる。もしも許されぬというのならば、力づくでも退散させていただくつもりであった。
「そうですか、なんとわしが言おうとも心を翻すつもりはないのでしょうな。」
「ええ。」
「……ならば、わしも腹を割りましょう。」
梟がなにか思いつめたかのように唇を一文字に結ぶ。そしてそのまま手をつくと、頭をさげた。
「なっ、なにをなさっていらっしゃるのですか! わたしはどこの馬の骨とも知れぬ卑しい身ゆえ、時の摂政さまに頭をさげられるわけにはいきませぬ!」
「いいえ、わしの頼みを聞き入れてくださるまでは頭をあげませぬぞ!」
摂政に跪かれるなどという誰にもみられるわけにはいかない光景にわたしは大慌てした。だが、梟は鬼気迫った顔でただひたすらに額をこすりつけている。
「わかりました、わかりました! 梟さまの頼みとはいったいなんなのです!」
「かたじけない、客人殿の情けに甘えさせていただきまする。では、すこし昔話をしてもよろしいでしょうかな。」
ついには折れたわたしに、梟がようやく顔をあげる。そして、重々しい口調で夷勢穂一族の祖について語りだした。
「わが夷勢穂はかつて朝廷に仕えてなどおらぬただの豪族でありました。ここに京が開かれるよりも昔から暮らしてきたのです。」
昔、今の京があるこの盆地には夷勢穂のほかにもいくつもの豪族が権勢を誇っていた。夷勢穂もそのうちのひとつであったという。
「すべては、かような地に皇祖が軍勢をひきいて降られた時のことでした。」
東からやってきたという朝廷の一族には夷勢穂たち盆地の豪族よりもはるかに多くの兵があった。そこで夷勢穂は一計を案じる。
「団結して朝廷に仇なすために内輪もめはやめよう、そうわが祖は呼びかけたのです。おのおのの豪族の頭領を屋敷に呼び宴を催しました。」
その晩、夷勢穂一族は招いた豪族の首をひとつ残らず斬り飛ばし、朝廷の一族に捧げる。有力者を失ったほかの豪族たちは夷勢穂の手によって皆殺しとなった。
夷勢穂は同胞を売って命を得ることにしたのだ。
「わが祖は朝廷の西征に貢献をしたとして褒美を賜り、天皇の臣となりました。わが夷勢穂の一族はそこからめきめきと頭角を現し、今や摂政の座についたのです。」
そこまで語って感情をむき出しにした梟が顔をしかめる。
「この地に眠るかつての豪族たちはわが夷勢穂を憎んでおるのでしょう。わが一族にはとある呪いが降りかかったのです。」
梟が庭の奥にあるちいさな離れを指さした。
「夷勢穂の子は、必ずひとりが群がる妖どもに弄ばれて元服を迎えるよりも先に絶命することとなっているのですよ。」
わたしは屋敷にきてから晩に狛をみかけたことがないと気がついた。
夷勢穂の呪われた子とはつまり狛のことなのだ。妖が屋敷によってこないよう、狛は晩になると離れに閉じこもっていた。
「わしは手を尽くしてありとあらゆる高名な陰陽師に呪いを解いてくださるよう、それが叶わぬというのならせめてでも妖を追いはらうようお願いしました。」
梟がギリリと歯を食いしばる。わたしに襲いかかってきたあの男もそのうちのひとりだったのだろうか。
「ですが、どいつもこいつも能無しばかり! あんな数の妖などどうしようもないと逃げ出してしまうのです!」
梟がまたわたしに頭をさげる。
「客人殿、どうかあの妖どもと戦ってはくれぬか! わしの娘を苦しみから救ってはくれぬか!」
梟の悲痛な声に、わたしの考えていることはひとつだった。
なるほど、狛は妖を惹きつけるという不思議な呪いにかかっているらしい。そのもとには摂政が呼ぶ陰陽師ですら手を焼くほどの数が集まるとか。
まさに妖ホイホイである、わたしは歓喜に震えた。やはり、わたしは唾棄すべき剣の修羅らしい、人の不幸を喜んでしまうとは。
だがこれで真剣勝負し放題である。わたしは夷勢穂の祖に感謝した。
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