1-7

青嵐せいらん……」

 突然目の前に現れた天涯てんがい山主さんしゅは、剣を一閃させた後、そこにいる青嵐の姿を改めて認識したらしく、わずかに目をみはった。

「なぜ、あなたが……」

 そう呆然と呟いたが、しかし、すぐに気を取り直したようだ。

「まあ、それはあとにしましょう。いまは……」

 それよりも優先すべきことがある、と、今しがた吹き飛ばしたばかりの鬼面の男たちのほうへと向き直った。手にした剣のつかを握り直すと、鋭い剣鋒を相手へと突きつける。

「そのなりに、気配……あなた方は、地涯ちがいこくの向こう側の方たちでしょうかね」

 天涯山主が男たちに向かって放った言葉に、青嵐は息を呑んだ。

地鬼ちき、だってのか? でも、なんで俺なんかを……」

 そも、地涯谷の向こう側、沙沙下地ささがちに属する者が、人間たちの暮らす中原に姿を現すことなどあるのだろうか。否、地鬼は人間に災厄をもたらす生き物だとされているからには、あることには、あるのだろう。

 だったら、普段は、誰か、あるいは何らかの力によって、地鬼の中原への侵入は防がれているということなのかもしれない。天涯山主が、天涯山への人間の侵入を阻むために張っているという迷陣のようなものが、地涯谷にも存在していておかしくはなかった。

 それが破られれば、地鬼が中原に出てくることだって、あるのだろう。とはいえ、一介の刺客でしかない青嵐には、沙沙下地の者に付けねらわれるいわれのあろうはずがなかった。

「さて、ね……私も出自は人間ひとでしかありませんし、地涯谷の向こう側の者の思惑などわかろうはずもありませんが」

 天涯山主は青嵐が思わず口にした疑問に応じるともなく答えつつ、灰色の視線を鋭くして、鬼面の男たちに向けた。

「なんにせよ、この狼藉ろうぜき……ここが天涯山――我が領内であることを心得てのことであれば、それなりの覚悟ありと判断いたしますが、いかがですか?」

 わかっていてのことならば容赦はしない、と、山主は男たちをそうおどすようだ。鬼面がおおうために向こうの表情は読めなかったが、それでも、青嵐の目には、相手が明らかにひるみを見せたのがわかった。それだけ、いま天涯山主の気迫は強い。

 ひゅん、と、鋭い風切り音がした。山主が軽く剣を振ったのだ。一拍遅れて、鬼面の男のうちの何人かが、再び後ろへと思い切り吹き飛ばされた。

 青嵐には何が起きたのかわからない。息をむうちに、天涯山主が地を蹴って空へ飛び上がった。

 白い道袍きものすそが風をはらんで大きくはためく。山主は中空で身をひねりつつ、まだ立っている敵に向けて、剣を一閃させる。着地した次の瞬間には、再び、くるりと身をひるがえす勢いを借りて、残った相手を横薙ぎに斬り捨てていた。

 あっという間の出来事だった。ことごとく打ち倒された鬼面の男たちは、ある者はうつ伏せに、ある者は仰向けに地面に倒れて、それぞれにうめき声を上げている。じり、じりり、と、天涯山主はすこしずつそんな相手との距離を詰めようとした。

 そのときだ。


 ゴォオォン――……。


 どこからか――否、あたかも天から降ってきでもしたかのように――深山に低く鐘のが響き渡った。

「……弔鐘ちょうしょう

 山主は足を止め、天空そらあおぐ。

 その言葉に、青嵐ははっとした。中原の国王の崩御に際しては、天が鐘のもってそれをしらせる、と、山主が語ったのを思い出した。

 国主の崩御――……真っ先に思い浮かぶのは、我が主のことである。

君上くんじょう……」

 青嵐は意味もなく呆然とそうこぼした。ゴォン、ゴオォン、と、天からの鐘の音は続いている。

 が、その哀切の調べによって一瞬できた隙を突くように、倒れて呻いていた鬼面の者たちが動いた。

 といっても、再びこちらに攻撃を仕掛けてきたわけではない。彼らはそれぞれにそでから呪符ふだを取り出すと、黒地に赤で、文字か絵かわからぬような、蚯蚓みみずののたくるような線が書かれたそれに息を吹きかけた。

 黒いほむらが次々と燃え立ち、その焔の中に、男たちは姿を消していく。

「ああ……逃げられてしまいましたね」

 鬼面たちがき消えた後、天涯山主は、ふう、と、嘆息を漏らした。

「まあ、いいですが」

 そう言って、改めて青嵐のほうへと向き直る。

「訊きたいことがあります、青嵐。なぜ、君は……私の〈名〉を知っている?」

 山主は柳眉を寄せ、くちびるを引き結んで、青嵐を真っ直ぐに見据えていた。

「……亜深」

 青嵐は思わず呟く。

 すると天涯山主は、ひく、と、不愉快そうに片眉を持ち上げた。

「亜深」

「そう何度も、気安く呼ばないでください。言ったでしょう……〈名〉とは、最も原始的で根元的な、ゆえに強力なしゅなのだ、と。――それよりも、なぜ君がそれを知っているのか……わかるように説明してくださいますか?」

 天涯山主はすこしばかり強い口調で青嵐に迫る。不快の中に警戒も不審も入り混じった灰色の眼差まなざしが、じっと青嵐を見据えていた。

「アンタは……亜深と言うのか」

 天涯山主の名を呼んだつもりなどなかった青嵐は、ただ呆然とするばかりだ。

「だから……それを誰から訊いたのです?」

 天涯山主が――亜深という真名を持つらしい相手が――また不愉快そうに問うた。

 その後で、彼はきゅっと柳眉を顰める。

「いえ……私が名を教えた相手など、数えるほど……ここ百年に限っては、ひとりだけです」

 亜深はまるで独白でもするかのように言った。

 まだ戸惑うばかりの青嵐は、己の手の中にある、出立に際して国王からたまわった錦袋に目を向けた。

「俺はただ……王からもらった呪符ふだを使うのに、教えられた呪文を唱えただけだ。――危機におちいったら唱えろ、一度だけ助けてくれる、と、そう言われてたから」

「王……りょう王?」

 訊ねられ、青嵐は頷く。そして改めて、さっと血の気が引くような想いを味わった。

「君上……!」

 いつしか、亜深が弔鐘と呼んだ鐘のんでいる。それに気付いた青嵐は全身から力が抜けるのを感じ、その場に膝を突いた。

 もしも先程の鐘が、中原のいずれかの国の王の死を教えるものだと言うのなら、旅立つ前の病状からかんがみるに、それが報せるのは十中八九、凌王崩御なのであろう。

 間に合わなかった――……背を丸めるようにうずくまり、青嵐は思い切り地面を叩く。くそっ、と、悪態あくたいでもきたかったが、そうしてしまえば嗚咽おえつまでもが漏れそうで、青嵐は奥歯を噛んで、かろうじてそれをこらえていた。

 そのとき、ふと、亜深が問うともなくこぼす声が聞こえてくる。

「凌王の、いみなは……?」

 普通、国王ともなれば、その名は秘され、外に漏れることはない。亜深自身が口にしていた通り、〈名〉とはそのまま、しゅになるからだ。いくら天涯山の主とはいえ、彼が凌王の名を知らなくとも不思議ではなかった。

 が、それにしても、と、青嵐はいらついて、きつく相手をめつけた。

「こんなときになんなんだよっ!?」

 人が傷心のときになんだ、と、そんな気分だった。

「それ知ってどうするってんだ! っつうか、俺だって知らないっ!」

 声をあららげたが、対する亜深は呆然と立ち尽くしたまま、実のところ、青嵐を見てもいなかった。揺らぐ眼差しを、どこか定まらぬ遠くへと向けている――……中庭でひとり酌み、門を眺めていたときのように。

 やがて、ふと、相手が青嵐を振り返った。

「……景明けいめい

 ぽつ、と、亜深はこぼす。

「え……?」

 青嵐はぽかんとした。

「君の王の名は、景明……この百年で唯一、私が名を教えた相手……私の、朋友とも

 亜深の灰色の眸が、ゆら、ゆらり、と、さざなみ立つかのごとく揺らいだ。 

「景明……」

 三度みたび、亜深が口にし刹那だった。ふいに、青嵐の手の中で、王からの賜り物の錦袋についたちいさなぎょく飾りが、わずかにやわらかく発光した。


 ――……亜深。


 幻のように浮かび上がったのは、青嵐の主、凌国王の姿である。青嵐ははっと息を呑んだ。

 蜃気楼しんきろうのように透けた姿は、果たして、すでに彼岸へと去りかけている王の、霊魂たましいかなにかなのだろうか。もしかしたら、その玉の飾りにはもともと、何らかのしゅがかけられていたのかもしれない。

 だからこそ、おそらくはすでに鬼籍きせきの人となってしまったのだろう青嵐の主が――夢幻のごとき、たのみない姿とはいえ――いまこの場に立ち現れているのだ。

 だが、老王の目は、自らが遣わした刺客の青嵐ではなく、真っ直ぐに天涯山主へと向けられていた――……その殺害を命じたのとはまるでうらはらに、やさしく、さびしく、かなしげな眼差まなざしで。

 ――亜深。

 呼びかけられた天涯山主の灰色の眸は、驚愕のためか、わずかに見開かれている。

「景明……どうして」

 亜深はふるえる声で言った。凌王はかすかに苦笑するような表情を見せる。

 ――約束したろう。いつか必ずお前を不死から解放してやる、と。その方法ほうを俺が見つける、と、そう……かつて、約束して、俺は天涯山ここを後にした。もう何十年も昔の話だが、それでも……片時も、忘れたことはなかった。

 王は、ふう、と、切なげな息をく。

 ――あらゆる方法を探し求めた。だが、結局は、掴んだのはわずかな手がかりばかり。それだけで、我が寿命は尽きてしまった。すまない、亜深。約束を果たす前に、お前をひとりおいてく俺を……許せとは、言うまい。恨んでくれていいから。

 静かに言って、王は亜深のほうへと手を伸べる。

 亜深は柳眉をひそめ、きゅう、と、目をすがめた。けれども王の手からのがれるでもなく、されるがままに頬を撫でられると、ふるふる、と、ちいさくかぶりを振る。

 そのまま深くうつむき、彼は両のてのひらで、我がかんばせおおってしまった。小刻みにふるえる肩をいだくように、王はそっと亜深の身体に腕を回した。

 ああ、そうか、と、目の前の光景を呆然と見やりながら、青嵐は得心する。

 凌王は不死にかれている、と、世間にはもっぱらそう風聞されていた。そしてそれは、傍にいた青嵐の目から見ても、間違いなく事実だった。

 だが、王はなにも、自ら不老不死にならんとして、その方法ほうを求めていたわけではなかったのだ。

 そうではなく――……朋友ともを、不死から解放する方策を探していた。遠い遠い昔に交わした約束を、いつか、果たすために。

 天涯山主を殺せ、必ず、と、王は青嵐に命を下した。けれども、あれは祈りのようなものだったのだ。人界の摂理に従って己の寿命がまさに尽きようとしているそのときに、凌王は、己自身では果たすことの叶わなかった知己ともとの約束を、青嵐に託したのではなかったろうか。

「……なぜ、青嵐をここへ……?」

 王に抱かれたまま、ふるえる声で亜深が問うた。ん、と、老王はちいさく応じると、その後で、悪戯いたずらっぽい笑みをくちびるにいてみせる。

 ――なに、これは……若い頃の俺に、ちょっと似ている気がしてな。それならお前も心を開くかと思ったんだ。

 言われた天涯山主が驚いたように顔を上げ、それから、ふ、と、軽く笑った。

「まさかでしょう……あなたのほうが、ずっと、ずっと、素直で可愛かったですよ」

 ――ははっ、そうか……そうだったかな。しかし、もう、随分と昔のことだ。

「……ええ」

 ――……亜深。

「……なんですか、景明」

 ――うん。俺はな、お前を永劫えいごうに続く生の苦しみから、救ってやりたかったんだ……俺こそが。

「……ええ」

 ――生半なまなかな気持ちで約したのではなかった。だが……結局、我が生あるうちには、果たすことができなかった。すまない。

「いえ……いいえ、景明。あなたはちゃんと果たしてくれます。だって、青嵐を、私のところへ寄越してくれたではないですか。だから……いつかきっと、私の願いは叶うでしょう。あなたが、叶えてくれるんです」

 亜深は泣き笑うような表情をする。

「ずっと……ずっと、あなたを待っていました。待ち草臥くたびれるほど長い長い時が経ったけれども……待っていて、良かった。景明……私との約束を、ずっと忘れずにいてくれて……ありがとう」

 それだけで十分です、心から感謝します、と、そう言った天涯山主の頬を、つう、と、透明な滴が伝い落ちる。真珠しらたまのような涙を、老王はやさしくぬぐう仕草をした。

 ――朋友ともだからな。

 当然だろう、と、呟くように言う。

 それから、王は晴れやかに笑った。

 ――遅くなって……長く待たせて、悪かった。生涯をかけて、ようやく掴んだ手掛かりが、これだ。お前に、託したい。

 そう語った老王は目を眇め、青嵐のほうを見た。それにつられるように、亜深の視線も青嵐のほうを向く。

 どういうことかわからず、青嵐は黒眸を瞬いた。亜深もまた、よくわからない、と、そんな表情をしているが、老王だけがひとりゆったりと笑んだまま、また自らの朋友のほうへと視線を戻した。

 ――亜深……お前を不老不死たらしめているのは、龍玉の霊力。雲上うんじょうてんにある天神、天仙も扱いかねた、解き放たれれば世に災いを齎す莫大な力。それが、人間ひとたるお前の身を、理に反して不老不死にすることに用いられることで、相殺されている……ちがうか?

 老王の問いに対し、亜深は一瞬、目を瞠った。それから、ふと、俯くようにして黙りこくる。それはほんの刹那のようでありながら、長い長い沈黙にも感じられた。

 やがて顔を上げた亜深が、ちら、と、眉根を寄せる。

「気づかれるとは、ね……ちがいません」

 ほう、と、諦念の吐息でもこぼすように、彼はしずかにそう答えた。

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