1-7
「
突然目の前に現れた
「なぜ、あなたが……」
そう呆然と呟いたが、しかし、すぐに気を取り直したようだ。
「まあ、それはあとにしましょう。いまは……」
それよりも優先すべきことがある、と、今しがた吹き飛ばしたばかりの鬼面の男たちのほうへと向き直った。手にした剣の
「その
天涯山主が男たちに向かって放った言葉に、青嵐は息を呑んだ。
「
そも、地涯谷の向こう側、
だったら、普段は、誰か、あるいは何らかの力によって、地鬼の中原への侵入は防がれているということなのかもしれない。天涯山主が、天涯山への人間の侵入を阻むために張っているという迷陣のようなものが、地涯谷にも存在していておかしくはなかった。
それが破られれば、地鬼が中原に出てくることだって、あるのだろう。とはいえ、一介の刺客でしかない青嵐には、沙沙下地の者に付け
「さて、ね……私も出自は
天涯山主は青嵐が思わず口にした疑問に応じるともなく答えつつ、灰色の視線を鋭くして、鬼面の男たちに向けた。
「なんにせよ、この
わかっていてのことならば容赦はしない、と、山主は男たちをそう
ひゅん、と、鋭い風切り音がした。山主が軽く剣を振ったのだ。一拍遅れて、鬼面の男のうちの何人かが、再び後ろへと思い切り吹き飛ばされた。
青嵐には何が起きたのかわからない。息を
白い
あっという間の出来事だった。
そのときだ。
ゴォオォン――……。
どこからか――否、あたかも天から降ってきでもしたかのように――深山に低く鐘の
「……
山主は足を止め、
その言葉に、青嵐ははっとした。中原の国王の崩御に際しては、天が鐘の
国主の崩御――……真っ先に思い浮かぶのは、我が主のことである。
「
青嵐は意味もなく呆然とそうこぼした。ゴォン、ゴオォン、と、天からの鐘の音は続いている。
が、その哀切の調べによって一瞬できた隙を突くように、倒れて呻いていた鬼面の者たちが動いた。
といっても、再びこちらに攻撃を仕掛けてきたわけではない。彼らはそれぞれに
黒い
「ああ……逃げられてしまいましたね」
鬼面たちが
「まあ、いいですが」
そう言って、改めて青嵐のほうへと向き直る。
「訊きたいことがあります、青嵐。なぜ、君は……私の〈名〉を知っている?」
山主は柳眉を寄せ、くちびるを引き結んで、青嵐を真っ直ぐに見据えていた。
「……亜深」
青嵐は思わず呟く。
すると天涯山主は、ひく、と、不愉快そうに片眉を持ち上げた。
「亜深」
「そう何度も、気安く呼ばないでください。言ったでしょう……〈名〉とは、最も原始的で根元的な、ゆえに強力な
天涯山主はすこしばかり強い口調で青嵐に迫る。不快の中に警戒も不審も入り混じった灰色の
「アンタは……亜深と言うのか」
天涯山主の名を呼んだつもりなどなかった青嵐は、ただ呆然とするばかりだ。
「だから……それを誰から訊いたのです?」
天涯山主が――亜深という真名を持つらしい相手が――また不愉快そうに問うた。
その後で、彼はきゅっと柳眉を顰める。
「いえ……私が名を教えた相手など、数えるほど……ここ百年に限っては、ひとりだけです」
亜深はまるで独白でもするかのように言った。
まだ戸惑うばかりの青嵐は、己の手の中にある、出立に際して国王から
「俺はただ……王からもらった
「王……
訊ねられ、青嵐は頷く。そして改めて、さっと血の気が引くような想いを味わった。
「君上……!」
いつしか、亜深が弔鐘と呼んだ鐘の
もしも先程の鐘が、中原のいずれかの国の王の死を教えるものだと言うのなら、旅立つ前の病状から
間に合わなかった――……背を丸めるようにうずくまり、青嵐は思い切り地面を叩く。くそっ、と、
そのとき、ふと、亜深が問うともなくこぼす声が聞こえてくる。
「凌王の、
普通、国王ともなれば、その名は秘され、外に漏れることはない。亜深自身が口にしていた通り、〈名〉とはそのまま、
が、それにしても、と、青嵐は
「こんなときになんなんだよっ!?」
人が傷心のときになんだ、と、そんな気分だった。
「それ知ってどうするってんだ! っつうか、俺だって知らないっ!」
声を
やがて、ふと、相手が青嵐を振り返った。
「……
ぽつ、と、亜深はこぼす。
「え……?」
青嵐はぽかんとした。
「君の王の名は、景明……この百年で唯一、私が名を教えた相手……私の、
亜深の灰色の眸が、ゆら、ゆらり、と、
「景明……」
――……亜深。
幻のように浮かび上がったのは、青嵐の主、凌国王の姿である。青嵐ははっと息を呑んだ。
だからこそ、おそらくはすでに
だが、老王の目は、自らが遣わした刺客の青嵐ではなく、真っ直ぐに天涯山主へと向けられていた――……その殺害を命じたのとはまるでうらはらに、やさしく、さびしく、かなしげな
――亜深。
呼びかけられた天涯山主の灰色の眸は、驚愕のためか、わずかに見開かれている。
「景明……どうして」
亜深はふるえる声で言った。凌王はかすかに苦笑するような表情を見せる。
――約束したろう。いつか必ずお前を不死から解放してやる、と。その
王は、ふう、と、切なげな息を
――あらゆる方法を探し求めた。だが、結局は、掴んだのはわずかな手がかりばかり。それだけで、我が寿命は尽きてしまった。すまない、亜深。約束を果たす前に、お前をひとりおいて
静かに言って、王は亜深のほうへと手を伸べる。
亜深は柳眉を
そのまま深く
ああ、そうか、と、目の前の光景を呆然と見やりながら、青嵐は得心する。
凌王は不死に
だが、王はなにも、自ら不老不死にならんとして、その
そうではなく――……
天涯山主を殺せ、必ず、と、王は青嵐に命を下した。けれども、あれは祈りのようなものだったのだ。人界の摂理に従って己の寿命がまさに尽きようとしているそのときに、凌王は、己自身では果たすことの叶わなかった
「……なぜ、青嵐をここへ……?」
王に抱かれたまま、ふるえる声で亜深が問うた。ん、と、老王はちいさく応じると、その後で、
――なに、これは……若い頃の俺に、ちょっと似ている気がしてな。それならお前も心を開くかと思ったんだ。
言われた天涯山主が驚いたように顔を上げ、それから、ふ、と、軽く笑った。
「まさかでしょう……あなたのほうが、ずっと、ずっと、素直で可愛かったですよ」
――ははっ、そうか……そうだったかな。しかし、もう、随分と昔のことだ。
「……ええ」
――……亜深。
「……なんですか、景明」
――うん。俺はな、お前を
「……ええ」
――
「いえ……いいえ、景明。あなたはちゃんと果たしてくれます。だって、青嵐を、私のところへ寄越してくれたではないですか。だから……いつかきっと、私の願いは叶うでしょう。あなたが、叶えてくれるんです」
亜深は泣き笑うような表情をする。
「ずっと……ずっと、あなたを待っていました。待ち
それだけで十分です、心から感謝します、と、そう言った天涯山主の頬を、つう、と、透明な滴が伝い落ちる。
――
当然だろう、と、呟くように言う。
それから、王は晴れやかに笑った。
――遅くなって……長く待たせて、悪かった。生涯をかけて、ようやく掴んだ手掛かりが、これだ。お前に、託したい。
そう語った老王は目を眇め、青嵐のほうを見た。それにつられるように、亜深の視線も青嵐のほうを向く。
どういうことかわからず、青嵐は黒眸を瞬いた。亜深もまた、よくわからない、と、そんな表情をしているが、老王だけがひとりゆったりと笑んだまま、また自らの朋友のほうへと視線を戻した。
――亜深……お前を不老不死たらしめているのは、龍玉の霊力。
老王の問いに対し、亜深は一瞬、目を瞠った。それから、ふと、俯くようにして黙りこくる。それはほんの刹那のようでありながら、長い長い沈黙にも感じられた。
やがて顔を上げた亜深が、ちら、と、眉根を寄せる。
「気づかれるとは、ね……ちがいません」
ほう、と、諦念の吐息でもこぼすように、彼はしずかにそう答えた。
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