1-6

 明くるあしたのことである。房間へやの隅の壁に背を預け、立てた片足を抱えるようにして短く微睡まどろんだ青嵐せいらんは、習い性もあって、曙光しょこうが射す頃にはもう覚醒していた。

 天涯てんがい山主さんしゅに対しては昨夜ゆうべ、必ず殺す、と、そう宣言していた。だが、いまの青嵐に、具体策はまるでない。なにしろ相手は、やいばかねば毒殺もかなわない肉体の持ち主だった。

 あるいは、龍玉を奪うのならば、いっそ彼の殺害は諦めてその身を鎖か何かで拘束してしまうほうが現実的なのではないだろうか。そうも考えたが、とはいえ、昨日り合った限りにおいて、おそらく山主はかなりの手練てだれだ。そうやすやすと青嵐に身の自由を奪わせるとも思えなかった。

 それよりも、なによりも――……なにか、そうするのは違うような気がしてしまっている。それでほんとうにいいのか、と、忸怩たる思いを噛むような想いで自問してしまっている己を、青嵐は自覚していた。

 龍玉を得てここを去るならば、それは、天涯山主の命をついえさせたうえのことでなければ、なんとなく申し訳がたたないように思うのだ。奇妙に胸がざわつくのを覚えながら、青嵐はふところに仕舞ってある錦袋に袍衣きものの上から触れつつ眉根を寄せた。

 時間がない。

 わかっているから、あせりがつのる。

 黒幇うらせかいに生きる自分にとって、本来、正しさなどというものは縁遠いものであるはずだ。それは重々承知のうえで、それでも、いま何をどうするのが正しいのだろう、と、青嵐はそんなことを考えていた。

 せめて時だけでもあったならば、もっと違う選択肢が見えてくるのかもしれない。けれども、国都を離れる際、すでにりょう王は余命幾ばくもなさそうな有様で伏せっていた。刻限かぎりはすでに迫っている。

 どうすればいい、と、匕首たんとうを取り出して、鈍くきらめくやいばをじっと見詰めた。

 そのときだった。

「――青嵐……起きていますか?」

 扉の向こうから落ち着いた静かな声が聞こえてきた。訊ねておいて、けれどもこちらの返事も待たずに扉を押し開け、天涯山主が姿を見せる。

 あの後、いったい彼は眠ったのか、それともそのまま夜明かしをしたのか。あるいは、そも、彼に眠りは必要なのかどうか、と、不死の身の上をあまりにも静かに、諦めるかのように嘆いてみせた昨夜ゆうべの山主の表情を思い出しつつ、青嵐はそんなことを考えた。

 昨日と変わらぬ白い道袍きもの姿の青年は、壁際かべぎわに座り込んで黙って山主へと視線を送っている青嵐の姿を目のはしにとめると、ふ、と、灰色の目を眇める。そのまま房間へやへと足を踏み入れると、たもとを探る仕草を見せた。

「〈青嵐〉、こちらへ」

 呼ばれて、青嵐は、ち、と、舌打ちした。身体が勝手に動くというほどではないものの、あらがいがたい何かを感じる。ちからくというほど乱暴ではないくせに有無を言わせぬ言葉ほど、かえって、腹が立つものだった。

「なんだよ」

 せめてもの抵抗に、不機嫌をよそおって言う。

「これを」

 天涯山主が差し出したのは、てのひらにすっかり収まる大きさのちいさな瓶だった。

「天涯山に湧く霊泉れいせんんだ水です。怪我にも万病まんびょうにも効く霊薬で……たとえ天寿が迫っていようとも、これをめば、一、二年は寿命をべてくれるはず。君の王に、持って行ってやりなさい」

 そして人の世へ戻りなさい、と、かすかな微笑とともに手渡されて、青嵐は目をみはった。

「なん、で……」

「不老不死、あるいは不老長生を求める者の気持ちは、私には、わかりかねます。けれども……大切な者がいて、その人に尽くしたいという君のきもちは、なんとなくわかる気がする。それでも私は、天涯山主として、龍玉をあなたに渡すことはできません。――だから、せめてこれを」

 昨日一日の天涯山荘ここでの労働の対価ですよ、と、相手は――あるいはいてなのか――肩をすくめつつ、冗談かるくちめかして言った。

「行きなさい、〈青嵐〉。――……君の慕う相手ならば、たとえ君が私を殺し損ねて戻ったのだとしても、無碍むげに君を非道ひどい目に遭わせることはないと信じます」

 その言葉に、青嵐ははっとした。

 こちらを灰色の眸で見つめて薄っらと微笑む山主をじっと見返しつつ、手の中の小瓶を握り締める。この霊薬は、王命を遂行できずに帰還せざるを得ない青嵐の身命しんめいの無事を担保するための、山主からのはなむけなのだ。

「っ、君上にこれを届けたら、俺は必ずここへ戻る……!」

 気付けば青嵐はそんなことをのたまっていた。

 天涯山主が、青嵐の発言に驚いたように目を丸くする。

 けれども、一拍の後、彼は微笑してちいさくかぶりを振った。

「戻らなくていい。ここを去って、君は、大切な人の傍らで、かなう限りの時を共にしなさい。――……だいたい、戻る義理など、君にはないでしょうが」

 最後、山主は、くすくす、と、声を立てて笑う。

「っ、でも……!」

「戻る必要はありません。私のことは気にせず、君の心のままに、君の王に……君の大切な相手に、最期のそのときまで、お仕えすればいいのです」

「っ、その、王が! アンタを殺せって命じたんだ! 俺に! だったら俺は、それを果たす! 何が何でも…………アンタの、ためにも……」

 そんなふうに途切れ途切れに言葉をつむいだとき、青嵐は自分でも驚き、はっと息をんだ。

 思わず正面に立つ天涯山主の顔をまじまじと見ている。灰色の眸を、はたはた、と、こちらも驚いたようにまたたいた相手は、それから、まるで淡々しい曙光の中に溶け込んでしまいそうな、やわらかで透明な笑みをたたえた。

「ありがとう。でも、君はもう行きなさい。そして、戻らなくてかまいませんよ……〈青嵐〉」

 有無を言わさぬ言葉を置いて、天涯山主はきびすを返した。

 名も知らぬ相手の白く細い背中を、青嵐は忸怩じくじたる想いで見詰める。なんとも釈然としない、もやのような思いが、胸に湧き起こっていた。

 それでも、名を呼ぶ声に込められた呪の力が、こちらの意思とはうらはらに身体を動かす。青嵐は、くそ、と、毒づき、くちびるを噛みしめて、天涯山荘を後にせざるを得なかった。



 その青嵐せいらんが異変に気づいたのは、胸にどうしようもないわだかまりを抱えつつも、天涯山をふもとまで降りてきた辺りでのことだった。カサ、と、ごくかすかだが、下草を踏むような音を、鍛えた耳が捕らえたのだ。

 けものではない、と、青嵐の本能が教えた。

 その途端、もやもやとふたがっていた我が気分が、あたかも冬の夜の空気のようにすぅっとまされていく。危難に対峙しての、反射的な反応だ。

 青嵐は音のしたほうへと意識を傾けた。

 誰かいる。おそらくは、複数だ。

 こちらは誰かを付けねらいこそすれ、付け狙われる覚えはない、と、そうも言い切れないのは、青嵐が国の暗部組織である蜘蛛ちしゅに属しているからだった。黒幇うらせかいの人間など、いつ、どこで、何人のかたきを作っているか、心当たりが多すぎて逆にわからないのがいっそ普通のことだった。青嵐自身の所業によるものでなくとも、組織自体を恨む者だっていることだろう。

 青嵐は我が得物である匕首ひしゅを逆手に持って構えた。油断なく辺りに気を配る。相手は誰だ、目的は何だ、と、思考を巡らせつつ、無意識にふところに触れていた。

 そこには天涯山主がれた霊泉の小瓶がある。この霊薬だけはなんとしても国都の王の元へ届けなければ、と、そう思った。

 そして、ふと、考える。あるいはこの水こそが、相手の狙いなのかもしれなかった。普通ならば人間が足を踏み入れることのかなわぬ秘境、天涯山。そこに湧く霊泉の、万病に効くという水が、いま青嵐の手に在るのだ。

 き、と、青嵐が視線を鋭くした刹那だった。木陰こかげから何者かが飛びかかってきた。

 相手の得物は湾刀わんとうだ。身を低くして匕首で受け、応戦しながらも、かかってきた相手の異様な姿に青嵐は息をんでいた。

 相手が纏うのは、黒地を基調に、えりそでの部分に臙脂えんじ色の布を継いだ長袍きものだ。胸やすそには猩々緋しょうじょうひの糸でぬいとりがされている。えがかれているのは、猛々しいほむら禍々まがまがしい羅刹らせつだった。それだけでなく、相手はその顔に、醜悪しゅうあくな悪鬼のめんをすら付けている。

 正面から受けた刃を力任せに弾き返し、青嵐はそのまま地を蹴って飛び上がった。木の幹を足場に方向を変え、斜め上から匕首を振り下ろす。これはかわされたが、返す刀で斬り結んだ。そうこうする間に、同じような恰好かっこう――鬼面と赤黒せきこくの装束――をした相手に周りを取り囲まれていた。

 三十六計逃ぐるにかずとはいうものの、こうなれば、もはやそれすら難しい状況だ。くそ、と、青嵐はくちびるを噛んだ。

 ぐる、ぐぅるる、と、仮面の下で奇妙なうなり声をあげながら、男たちが間合いを詰めてくる。下がることも進むこともかなわず、じりじりとせばまる包囲網の中で、青嵐は反撃の隙を窺って、意識を研ぎ澄ませていた。

 ふところに手を入れる。手指が陶器のなめらかな感触に触れる。もしも相手の狙いがこの霊薬の小瓶ならば、あるいは、これを投げてみれば、たとえ刹那でも間隙すきをつくることが出来るだろうか。

 そう考えて、けれども、首を振る。たとえばそれでこの包囲から抜け出せたとして、貴重な霊泉の水を失ってしまえば、凌王にも、そしてこれを与えてくれた天涯山主にも、申し訳がたたない。会わせる顔がない。

 手放せない――……だが、それなら、どうすればいい。

 そのとき青嵐の指は、ふと、もうひとつの感触に触れていた。

 錦だ。それで、王からたまわった守護呪符のことを思い出した。危機に際したら唱えるように、と、そう教えられたしゅがあったのだった。

 青嵐は錦袋を掴み、中からのような呪符を取り出した。鬼面の男たちが一斉に飛びかかってきたその刹那、手にしたそれを虚空くうへと高く放り投げる。

 唱えよ、と、教えられていた呪文はごく短い。青嵐はすぅっと息を吸うと、力を籠めて口にした。

「――……亜深あしん……!」

 虚空へと高く投げあげられた呪符が、透き通るような蒼白いほむらをあげて燃え立つ。そして、その瞬間、青嵐は、月光のようにえ冴えとた輝きを宿す剣が、自分の周りを取り囲んでいた敵を一気にぎ倒したのを目撃した。

 白い焔の中から立ち現れ、見事な剣を振るった者――……それは、先程別れたばかりの、天涯山主その人だった。

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