1-5
この時刻ともなれば、細い月はすでに西の地平に沈んだと見えて、今宵も空にそれはない。世界の北の
澄み渡った空気の中に、チィン、と、金属が
石案には、
山主は、
「誰か……待ち人でも、いるのか?」
天涯山主の
相手が驚いたように顔を上げる。
「足音がしないので、気づきませんでした。さすがは
天涯山主は笑ったが、いま青嵐は別に気配を忍んだわけでもなんでもない。だから、俺に気づかなかったのはアンタがぼんやりしてた
だが、そうは言わず、熱いうちに食え、と、すすめてやる。
「ありがとう……いただきますね」
山主は言って、青嵐が用意した椀を手に取った。匙を使って、今度こそ毒入りでない、まともな
「おいしい……ありがとうございます」
ほう、と、満足の吐息とともに、灰色の目を眇めて礼を言われ、青嵐は、ふん、と、鼻を鳴らした。
石案の前の椅子はふたつ――……だが、いま空いているほうのそれに掛けようとは、なぜだか、思えない。そこは自分のために用意された場所ではない、と、直感でそう思うから、青嵐は行儀悪く、石案の縁に体重を預けるように腰を下ろした。
やがて椀の中味を平らげた相手が、再び、ほう、と、満足の息を吐く。そのまま天涯山主は酒杯を取った。
ちらりと見下ろすと、彼の向かい、いまは空席になっているその前の酒杯にも、酒はなみなみと満たされている。
「――……誰と呑んでたんだ?」
自分でも思いがけないことに、青嵐はそんなことを訊ねていた。
「え?」
山主は不思議そうに目を
「いや、その……なんか、アンタ……誰かを待ってるのかと思って」
青嵐が言うと、天涯山主は驚いたように瞠目し、しばらく黙した。
それからやがて、ふぅ、と、長くしずかに息を吐き出す。
「意外と鋭いんですね。――……
自分で問うておいて、けれども、相手から
青嵐は相手の答えを受けて、天涯山主の顔をじっと
「
すぅっと目を細めると、天を
名は、
さぁあぁん、と、風が吹いてきて、山主の
星空の下、彼はまた、ほう、と、しずかな吐息を漏らした。
「ここで、彼とふたり、
言いながら、天涯山主は酒杯を持つと、石案の上に置かれた酒杯に軽くそれを当ててみせる。チィィン、と、高く澄んだ音がかすかに響いた。それがいやにさびしく聞こえるのは、山主がいま見せている表情のためだろうか。
何十年も前だというなら、相手はあるいは、すでに
「俺の前に、ここに迷い込んできたやつ……とか?」
言ってみたら、ちら、と、苦笑を
「天涯山の陣の中で迷っているのを保護したんです。あの時ときの彼は、ちょうど、いまのあなたと同じくらいの
「それから会ってないのか? 一度も?」
「ええ。――私は、積極的には、
「なんでだ?」
「だって……気味が悪いでしょう? 不死の人間なんて」
君だって私をばけものと呼んだではないですか、と、今日の
「彼は……君に、すこし似ていたかも」
「あ?」
「そう、なんというか、妙におひとよしで……ひとたび
「嘆いたら……?」
「いつか必ず自分がなんとかしてやるから、と、そう約してくれましたよ」
ね、おひとよしでしょう、と、天涯山主は静かに微笑む。どう答えたものか言葉を探し
しん、と、場に
そこへまた、さぁん、と、すこしだけ強く風が吹く。
山主は門のほうへと――あるいは、もっと遠く、その先へと――視線を投げていた。
いったい、彼は、かつて
「――君の、大切な人は」
そのとき、ふと、天涯山主がこぼした。
「あの錦の袋……あれを君に渡したのは、誰なんですか? 大事な相手なのでしょう? ご両親? それとも、ご兄弟? ああ、もしかして恋人とか?」
私が話したのだから君も、と、山主はすこし悪戯っぽい視線をこちらに向けながら、
別に、黙っていればいいのだ。それに、本気で聞き出したいのだったら、向こうとしてもまた、青嵐の名を――
だから、なにも、敢えて明かしてやる必要はない。
そう思うのに、なぜか青嵐は、ふう、と、息を吐くと、
「
そう、正直に答えている。
「孤児で、
青嵐はてのひらの中の錦袋を、強く握り締めた。
「アンタに、私怨はない。でも、君上が望んだ以上、俺はアンタを殺して、龍玉を持ち帰らなきゃならないんだ」
そう命じられたのだから、
勅命だ。自分にとっては何よりも重いもの、と、なぜだか己に言い聞かせるように
「――……龍玉は、渡せません」
不意に、相手のしんとした声音が夜の中に響いた。
はっとした青嵐が反射的に相手を見ると、
「中原でどんな風聞があるのか、詳細までは知りません。が、龍玉と呼ばれるものはおそらく、雲上天の廃棄物のようなもの……天にあってすら手に負えぬ
言われて、青嵐はくちびるを引き結んだ。
掛けていた石案から下り、山主を睨む。
「はっ……アンタがどう言おうが、命令を受けた以上、俺はそれを果たすだけだ」
言うなり、ひゅん、と、手刀を繰り出した。天涯山主は表情ひとつ変えず、けれど、青嵐の手を我が手で軽々と受けとめて
お互いに睨み合い、何合か手合わせをする。が、どうしてか、それは
ち、と、舌打ちをして、やがて青嵐は手を引いた。
石案の上の
口の端からこぼれた酒を黒衣の筒袖で乱暴に
「安心しろよ、天涯山主。たとえアンタの
そう言いおくと、相手の返答を待たにままに、青嵐は
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