1-5

 しるものを作り直した青嵐せいらんが、わんについだそれを持ってくりやを出ると、そのとき、天涯てんがい山主さんしゅは中庭にいた。石案せきあん――石で出来た卓――の前に椅子いしをふたつ据え、ひとり、酒をんでいるものらしい。

 この時刻ともなれば、細い月はすでに西の地平に沈んだと見えて、今宵も空にそれはない。世界の北のての星々が、青く、あるいは白く、赤く、それぞれに紺青こんじょうの天で燃えているばかりだった。

 澄み渡った空気の中に、チィン、と、金属がこすれるかすかな音が響いてくる。どうやら山主の持つ酒杯が立てたもののようだ。

 石案には、酒瓶さかがめがひとつと、三つ足の酒杯がふたつ。ひとつは天涯山主が酌むためのそれだが、では、あとひとつは、では、誰のために用意されたものなのだろうか――……天涯山主が酌み交わそうとする相手が青嵐でないのは、考えるまでもないことだった。

 山主は、中午ひるにそうしていたのと同じく、どうも門のほうへと視線をやるようである。

「誰か……待ち人でも、いるのか?」

 天涯山主のかたわらまで歩み寄った青嵐は、石案にしるものわんと、それからさじとを置いてやりつつ、意図せずそんなことを訊ねていた。

 相手が驚いたように顔を上げる。

「足音がしないので、気づきませんでした。さすがは蜘蛛ちしゅですね」

 天涯山主は笑ったが、いま青嵐は別に気配を忍んだわけでもなんでもない。だから、俺に気づかなかったのはアンタがぼんやりしてた所為せいだろうが、と、そんなことを青嵐は思った。

 だが、そうは言わず、熱いうちに食え、と、すすめてやる。

「ありがとう……いただきますね」

 山主は言って、青嵐が用意した椀を手に取った。匙を使って、今度こそ毒入りでない、まともなしるものを、ひと口、ふた口、と、口に運ぶ。そのたびに相手が、むような、さも嬉しそうな表情を見せるのが、青嵐をかえってまり悪いきもちにさせた。

「おいしい……ありがとうございます」

 ほう、と、満足の吐息とともに、灰色の目を眇めて礼を言われ、青嵐は、ふん、と、鼻を鳴らした。

 石案の前の椅子はふたつ――……だが、いま空いているほうのそれに掛けようとは、なぜだか、思えない。そこは自分のために用意された場所ではない、と、直感でそう思うから、青嵐は行儀悪く、石案の縁に体重を預けるように腰を下ろした。

 やがて椀の中味を平らげた相手が、再び、ほう、と、満足の息を吐く。そのまま天涯山主は酒杯を取った。瀟洒しょうしゃな杯に口をつけ、こく、と、彼が酒を呑み下すのを、青嵐は黙って見詰めていた。

 ちらりと見下ろすと、彼の向かい、いまは空席になっているその前の酒杯にも、酒はなみなみと満たされている。

「――……誰と呑んでたんだ?」

 自分でも思いがけないことに、青嵐はそんなことを訊ねていた。

「え?」

 山主は不思議そうに目をまたたく。その表情を見て、いったい愚かにも何を訊いているんだ自分は、と、青嵐は我ながら戸惑って、しどろもどろになった。

「いや、その……なんか、アンタ……誰かを待ってるのかと思って」

 青嵐が言うと、天涯山主は驚いたように瞠目し、しばらく黙した。

 それからやがて、ふぅ、と、長くしずかに息を吐き出す。

「意外と鋭いんですね。――……知己ともと」

 自分で問うておいて、けれども、相手からいらえがあったのが青嵐にとっては意想外のことだった。この素直は、あるいは、目の前の相手がいま酒精をふくんでいるためなのだろうか。もしくは青嵐が彼に料理を供したという、その事実によって起きた変化だったのだろうか。

 青嵐は相手の答えを受けて、天涯山主の顔をじっとうかがう。夜目にも白い相手の頬には、苦笑とも、自嘲ともつかぬ、かすかな笑みが浮かんでいた。

朋友ともと……呑んでいました。この百年で、ただひとり、私が名を教えた相手です」

 すぅっと目を細めると、天をあおぐようにして天涯山主は言う。

 名は、しゅだ。雲上天と中原とを分かつ天涯山の守護者が、そうやすやすと、他者に漏らしてよいものではなかった。それでもなお山主が相手に名を告げたというのならば、つまりそれだけ、山主にとってのその相手が、特別な信頼を寄せる者だったということなのだろう。

 さぁあぁん、と、風が吹いてきて、山主の烏羽玉ぬばたまの髪をふわりともてあそぶように舞い上げた。道袍ころもの大きな袖も風をはらむ。

 星空の下、彼はまた、ほう、と、しずかな吐息を漏らした。

「ここで、彼とふたり、たのしくんだのは……もう何十年前になるでしょうかね」

 言いながら、天涯山主は酒杯を持つと、石案の上に置かれた酒杯に軽くそれを当ててみせる。チィィン、と、高く澄んだ音がかすかに響いた。それがいやにさびしく聞こえるのは、山主がいま見せている表情のためだろうか。

 何十年も前だというなら、相手はあるいは、すでに黄泉こうせんへと旅立った、鬼籍きせきの人となっているのかもしれない。それゆえの山主の表情かおに滲む寂寥せきりょうなのだろうか。しかし、それにしては、天涯山主がいまだに誰かを待ちわびるふうなのも、青嵐には気にかかった。

「俺の前に、ここに迷い込んできたやつ……とか?」

 言ってみたら、ちら、と、苦笑をもって相手は答える。その表情を見るに、いまのこちらの当てずっぽうは、どうも大きく的を外してはいなかったようだった。

「天涯山の陣の中で迷っているのを保護したんです。あの時ときの彼は、ちょうど、いまのあなたと同じくらいの年齢としだったでしょうか……しばらくの間ここで過ごして、やがて人の世界へと帰って行きました。以後はきっと、あるべき場所で、しかるべく生きたことでしょう」

「それから会ってないのか? 一度も?」

「ええ。――私は、積極的には、人間ひとと交わりませんから」

「なんでだ?」

「だって……気味が悪いでしょう? 不死の人間なんて」

 君だって私をばけものと呼んだではないですか、と、今日の上午ひる、目覚めてすぐの出来事をそんなふうに当てこすられた。それは、と、青嵐が口籠もると、天涯山主は、どこか昔日をしのぶむかのように、灰色の眸をわずかにすがめる。

「彼は……君に、すこし似ていたかも」

「あ?」

「そう、なんというか、妙におひとよしで……ひとたび知己ちきを得れば不老不死の我が身はのろいだ、と、知己と共に老いることもかなわない、まして、やがてひとり死におくれ、永久とこしえに取り残されることになるとわかっている我が身が呪わしい、と、そう私が嘆いたら……」

「嘆いたら……?」

「いつか必ず自分がなんとかしてやるから、と、そう約してくれましたよ」

 ね、おひとよしでしょう、と、天涯山主は静かに微笑む。どう答えたものか言葉を探しあぐね、青嵐は黙っていた。

 しん、と、場に沈黙もだが落ちる。

 そこへまた、さぁん、と、すこしだけ強く風が吹く。

 山主は門のほうへと――あるいは、もっと遠く、その先へと――視線を投げていた。

 いったい、彼は、かつて知己ともの背を見送った遠い日を思い起こしているのだろうか。それとも、いつか再びこの地を踏むと約した相手が戻ってきた、そんなまぼろしの姿を見ているのだろうか。

 がらにもない感傷が浮かんできて、青嵐はそれを追い払おうと、ふるふるとかぶりを振った。

「――君の、大切な人は」

 そのとき、ふと、天涯山主がこぼした。

「あの錦の袋……あれを君に渡したのは、誰なんですか? 大事な相手なのでしょう? ご両親? それとも、ご兄弟? ああ、もしかして恋人とか?」

 私が話したのだから君も、と、山主はすこし悪戯っぽい視線をこちらに向けながら、矢継やつばやに言葉を重ねる。だが、もちろん、青嵐には話してやる義理などなかった。

 別に、黙っていればいいのだ。それに、本気で聞き出したいのだったら、向こうとしてもまた、青嵐の名を――しゅとして――呼んだ上で、言え、と、命じれば良いだけのことである。そうしないところを見るに、相手がそんな問いを投げたのは、単なる気紛れか、話の流れでそうしただけのことだったのだろう。

 だから、なにも、敢えて明かしてやる必要はない。

 そう思うのに、なぜか青嵐は、ふう、と、息を吐くと、ふところからぎょく飾りのついた錦の袋を取り出していた。

君上くんじょう……りょう王だ」

 そう、正直に答えている。

「孤児で、野垂のたれ死にしかかってた俺は、たまたま南部へ僥倖ぎょうこうしてた、いまの凌王に拾われた。その、恩があるんだ。だから俺は……あの人の望みは、なにがなんでも叶えてやりたいと思う」

 青嵐はてのひらの中の錦袋を、強く握り締めた。

「アンタに、私怨はない。でも、君上が望んだ以上、俺はアンタを殺して、龍玉を持ち帰らなきゃならないんだ」

 そう命じられたのだから、蜘蛛ちしゅの一員として、あるいは個人的に王に恩を感じる者として、青嵐はそれを果たさねばならなかった。

 勅命だ。自分にとっては何よりも重いもの、と、なぜだか己に言い聞かせるようにつぶやきつつ、眉をひそめて、この任務を受けた際に王からたまわった袋を見詰めた。

「――……龍玉は、渡せません」

 不意に、相手のしんとした声音が夜の中に響いた。

 はっとした青嵐が反射的に相手を見ると、真摯しんしな色を宿した灰色の眸が、真っ直ぐにこちらに向けられている。

「中原でどんな風聞があるのか、詳細までは知りません。が、龍玉と呼ばれるものはおそらく、雲上天の廃棄物のようなもの……天にあってすら手に負えぬ代物しろものです。それを、うかうかと中原に出すわけにはいきません……天涯山主として」

 言われて、青嵐はくちびるを引き結んだ。

 掛けていた石案から下り、山主を睨む。

「はっ……アンタがどう言おうが、命令を受けた以上、俺はそれを果たすだけだ」

 言うなり、ひゅん、と、手刀を繰り出した。天涯山主は表情ひとつ変えず、けれど、青嵐の手を我が手で軽々と受けとめてなしてみせる。

 お互いに睨み合い、何合か手合わせをする。が、どうしてか、それはたわむれみたいなものにしかならなかった。

 ち、と、舌打ちをして、やがて青嵐は手を引いた。

 石案の上の酒瓶さかがめを取って、自棄やけを起こしたように、あおのいて豪快にあおる。中味をすっかりけてしまってから、とん、と、音を立てて瓶を戻した。

 口の端からこぼれた酒を黒衣の筒袖で乱暴にぬぐって、据わった目つきで山主を見る。

「安心しろよ、天涯山主。たとえアンタの知己ともだちがアンタとの約束を違えたままだとしても、大丈夫だ。アンタのことは俺が殺すからな。――俺は、王命を違えたりはしない」

 そう言いおくと、相手の返答を待たにままに、青嵐はきびすを返した。

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