1-2

「ねえ。ねえ、君! もうひるですよ。いい加減、起きてはいかがですか?」

 どこか暢気のんきな声が聞こえ、それまで深く沈んでいた青嵐せいらんの意識は、ゆっくりと現実うつつへと浮上し始めた。

 ん、と、ちいさく呻く。まるで寝坊した小童こどもを揺り起こすような手つきで身体を揺すられて、青嵐は、思わず顔をしかめていた。

 なんだ、鬱陶うっとうしい、と、思う。自分の身にかけられた手指をいっそ払い退けてしまいたい衝動に駆られ、実際、青嵐は衝動のままにそう動こうとした。

 だが、おかしい。

 身体がうまく動かせない。

 なぜだ、と、思った刹那、青嵐はハッと覚醒した。

「おや。ようやくお目覚めですか」

 目の前で、ふ、と、笑う青年がいる。その姿を視野に留めた瞬間、青嵐は、き、と、表情を険しくしていた。反射的に相手に攻撃をしかけようとする――……が、これもやはり、先程と同じようにかなわない。身体は、まるで、見えない縛縄でもかけられているかのようにかたまっていた。

 否、それは、見えない縄などではない。

「……なっ!」

 状況に驚いて、青嵐は思わず、頓狂とんきょうな声を上げていた。

 自分はいま、見知らぬ房間へやの、隅に据えられた臥牀がしょう――寝台――の上に、横たわらされている。それは百歩譲っていいとして、だが、ちっともいただけないのは、こちらの手足が縄によって臥牀にしっかとくくり付けられ、身動きが取れない状態にされていることだった。

 すなわち、身体が思うように動かせなかったのは、この縄目のせいだったわけである。

「ああ、すみません。またやいばを向けられても面倒ですし、縛らせていただきました。昨夜ゆうべはあなたに喉を斬られて、とても痛かったので」

 臥牀の端に腰掛け、こちらを見下ろしている青年が、ふ、と、薄いくちびるをゆるい弧のかたちに引き上げた。

 彼はいま、その白くしなやかな手指で己の喉頸に触れている。だが、そこには傷ひとつない、ごくなめらかな膚が見えているだけだった。

 たしかに青嵐が切り裂いたはずの箇所なのに、そんなことはまるでゆめまぼろしででもあったかのごとく、青年は何事もなく静かに微笑をたたえているのだ。

天涯てんがい山主さんしゅ……!」

 苦々しく呟く青嵐は、己が任務をしくじって、かつ、標的の手に落ちさえしてしまっったことを悟っていた。

 無論、守護呪符まで持たされた王命の任務であったわりに、あまりにもことが容易たやすすぎるとは思っていた。それが不気味ですらあるという感触だって、あった。油断したつもりはなかったが、と、青嵐は歯噛みする。

 あるいは自分は、相手の罠にまんまとまってしまったのかもしれない。昨夜あたかも青嵐の手にかかったかのように見えた天涯山主は、もしかすると、何らかの呪術まじないで作り出された形代かたしろだった可能性も考えられた。

「くそったれ……!」

 青嵐が悔し紛れに悪態あくたいくと、相手はそんな青嵐を見下ろしながら、おやまあ、と、でもいうふうに、すぅ、と、目をすがめた。そのまま、くすくす、と、声を立てて、可笑しそうに笑う。

 そんな相手のひとみは、ごく薄い灰色だった。端正に整った容貌もあいってか、青嵐の目には、彼がひどく浮き世離れしたものに見える。

 それにしても、天涯山主はかなり若かった。

 昨夜ゆうべ、頼りない星明かりの下に夜目で見た印象よりも、相手は更に年若のように思われる。青嵐よりはいくらか年長ではあるだろうが、それでも、そういくつも離れていないのではないだろうか。

 まとうのは、長いすそ、たっぷりとした袖の、きよらに白い道袍きものである。烏羽玉ぬばたまのような黒髪は、一部分を結い上げてぎょくかんざしし、残りを背に流していた。

 その直ぐの髪が、相手が青嵐を覗き込むように身体を傾けたのにあわせて、かすかに揺れる。

「君は」

 山主の手指が伸びてきて、青嵐の喉元をぐっと押さえ込んだ。

「いったい、何者ですか? どうやって、この天涯山に侵入したのです? この山には私の術……這入り込もうとするものを阻む迷陣が、隙間なく張り巡らされているというのに」

 どのようにその陣を破ったのだ、と、ぐぅ、と、喉頸のどくびに重みを掛けながら問い詰められて、青嵐は苦痛と息苦しさに顔を歪めた。

「……陣なんか、知るかよ」

 それでも、苦しい呼吸いきの中で、そう言う。

 が、これは何も強がったわけではなくて、真実、青嵐は陣のことなどわからりはしなかった。むしろ敵の侵入をはばむための仕掛からくりのひとつもないここの手薄さに、驚いたくらいだ。

「もしかして、破ったのではなく、り抜けた……?」

 矢継ぎ早に問いを投げておいてこちらの見せる反応をうかがっていたらしい天涯山主は、青嵐の声音こわねや表情から、どうもこちらが嘘を言っているわけではないと判断したらしい。それまでこちらの首を押さえつけていた手を離すと、ふう、と、大きな溜め息を吐いた。

まれに……といっても、何十年とか百年とかに一度の頻度ですが、間違って陣の奥深くまで迷い込み、出られなくなる人間なら、これまでにもいましたが。私の迷陣を、まるで無いもののように擦り抜けたのは、君が初めてですよ」

 どこか呆れるふうに言うと、改めて、灰色の眼差しを青嵐に向けた。

「で。結局、君は何者なんですか? その恰好かっこうからして、どこぞの黒幇こくぼうの人間でしょう? 名は?」

「はっ! 誰がおとなしく名乗ったりするかよ!」

 青嵐が鼻で笑うと、まあそうですよね、と、山主は暢気のんきに言って、くすん、と、肩をすくめた。

「ああ、そういえば」

 その後で、何かを思い出したかのように軽く手を打つと、そのまま己の白い道袍きものたもとを探り始める。

「これ、君のふところに大事そうに仕舞われていたのを見つけました。何かのおりには、もしかして交換条件として使えるかなと思いまして、一応、ってみたのですが」

 こと、と、小首を傾げ、山主は実にうるわしく、莞爾にこりと笑う。青嵐は天涯山主の青年が手に持ったものを目にして、思わず、ひゅ、と、息を呑んでいた。

 それはちいさな玉飾りのついた、てのひらに載る大きさの錦の袋だ。呼び出されて病床の国王の枕元へと駆けつけた際、王から手渡されたものだった。

「っ、返せ!」

 叫ぶように言っている。縛られて不自由な手足を、それでも、じたばたともがかせた。

 そんなこちらの態度を見た山主は、くちびるに薄ら笑みを浮かべ、すぅ、と――厭な感じに――目をすがめる。

「おや、やはり、大切なものでしたか。返して差し上げたいのはやまやまですが……どうしましょうかね」

「ふざけるな!」

「そう言われましても、こちらも、無償ただで返すというのは割に合いませんからね。――ところで、ねえ、君。君の、名は?」

 天涯山主は殊更ことさらゆっくりと先程の問いを繰り返した。名乗りさえすれば返す、と、続けてそう言って、口許くちもとをゆるい弧の形にする。

 青嵐は眉を寄せ、ぐ、と、言葉を詰まらせた。余裕の表情で微笑む相手を、憎々しさをいっぱいに込めてめつける。

「――……青嵐」

 ついに、消え入るような小声で答えた。

「〈青嵐〉」

 天涯山主が、たしかめるように、復唱した。

 その刹那、ひゅん、と、心の臓に何かが音もなく絡みつくような感覚に襲われ、青嵐は身をすくませた。錯覚だろうか。

 肉体からだに――いま実際にそうされているように――直接縄目なわめを受けるのとは、まるで違う。それは、精神こころを無理に束縛されたかのような奇妙な感覚だ。身体がふいに根雪にうずまってしまったような重たい息苦しさに耐えかねて、はぁ、と、我知らず荒い呼吸いきを吐き出していた。

「なにを、した……?」

 青嵐が相手をめつけるようにして問うと、ふ、と、天涯山主はわらう。

莫迦ばかですねえ。〈名〉は、最も原始的で根元的な、それだけに強いしゅです。そう簡単に、他者に明かすものではありませんよ」

 皮肉っぽく言われて、青嵐はくちびるを噛んだ。

「アンタが、名乗れって、言ったんだろうがっ!」

 そう文句を垂れるが、それにしても、相手の言うとおりではあった。現に、だからこそ、国王や王族、貴族、あるいは神官や術師などの真名まなは――すくなくとも、その生前には――決して外へ漏らされることがないのではないか。そう思えば、たまわりものの錦袋を取り戻さんがためとはいえ、迂闊うかつにも名を告げてしまった己の軽率さが悔やまれた。

「くそっ」

 どくいてはみるが、覆水はもはや盆に返るものではない。

「お前も名乗れよっ!」

 悔し紛れに叫んだものの、相手はちいさく肩を竦めて、ふう、と、小莫迦こばかにするような溜め息を吐いた。

「私は天涯山主ですよ。人にみだりに我が名を教えるはずがないでしょうが」

 呆れたように言って、灰色の眸で再び青嵐を見下ろす。 

「そう……君は、青嵐というのですね」

 こちらの頬に手指を伸べ、いやにやさしくそこ撫でながら、天涯山主は改めて青嵐の名を口にした。

「では、〈青嵐〉……教えてください。君は誰の命令めいでここへ来たのですか?」

 直截ちょくさいに核心を問われて、答えるものか、と、おもう。けれどもうらはらに、青嵐は口を開いていた。これが呪の力なのだろう。

「……凌、国王」

 意志に反して、言葉はくちびるから漏れ出ていた。天涯山主は満足そうに、そう、と、ひとつ頷いた。

「凌国……ということは、君はあの国の闇組織、たしか蜘蛛とかいいましたか。その一員かなにかでしょうかね。そういえば、凌王は長らく不老不死にご執心との風聞ですし……なるほど、私の護る龍玉には不死をも与える霊力が宿る、と、巷間ちまたではそう噂されているようですからね。私を殺して、それを奪えとでも命じられてきたわけですか」

 山主にほぼすっかり言い当てられて、青嵐としては、後はただ黙すよりほかはなかった。

 天涯山主は、ふう、と、息を吐く。

「不老不死など、いうほど、良いものではないというのに」

 切なげに目を眇めて、ぽつり、と、まるで独白ひとりごとのようにつぶやく。その相手の白い頬に、なぜか、どこか自嘲でもするかのような笑みが浮かんだ気がした。

 だが、そんな表情を一瞬で掻き消すと、山主は不意に傍のつくえに置かれてあった、すらりと長い剣に手を伸べる。そのまますぅっとさやを払う動作が目に入って、青嵐はぎょっとした。

 白銀に輝く剣身がこちらに迫る。山主が抜き身の刃を青嵐に近づけたときには、万事休すか、と、さすがに最期を覚悟した。

 だが、天涯山主が青嵐にその剣を突き立てることはなかった。

「そうおびえずとも、無駄で無益むえき殺生せっしょうなどしませんよ。それにね、私は基本的に、約したことは守る主義です」

 そうどこか皮肉っぽく言うと、相手は青嵐の両手両足をいましめていた縄をぷつりと躊躇ためらいなく断ち切った。

 身体が自由を取り戻す。ほう、と、深く息を吐いた青嵐に、山主はあっさりと錦袋を返してくれた。

「帰りなさい。龍玉には、巷間で囁かれる風聞のような力はありません。――むしろ龍玉に宿る霊力は、中原に出れば、ただただ災いをなすだけのもの」

 天涯山主は嘆息しながらそう言う。

 だが、青嵐としては、ここで、はいそうですか、と、穏和おとなしく引き下がれるはずもなかった。

 こちらにも、凌王に対しては目を掛けて貰った恩もあるのだし、また、王直属の刺客としての矜持きょうじだってあるのである。天涯山主を殺せ、と、それが我が君よりたまわった勅命である以上、それを果たさぬままに、すごすごと帰れるわけがない。

 返して貰った錦の袋を再びふところに仕舞いながら、かわりに、素早く身に隠していた匕首ひしゅを取り出し、逆手に構えた。

「はっ! 帰れと言われておとなしく帰る莫迦ばかがあるかよ!」

 言うなり相手に襲いかかる。手にした匕首で天涯山主に斬りつけたが、寸でのところで相手には身をかわされた。

 だが、もちろん、一撃で諦めるはずもない。青嵐はくるりと身軽に身体を反転させると、第二撃を容赦ようしゃなく打ち込んだ。山主は今度は、手にした剣の腹で、いったんこちらの攻撃を受けとめる。それから、身をひねるように動いて、青嵐の攻撃の勢いを実にたくみに受け流した。

 第三撃、第四撃は、刃で受けてから、はじく。キン、キィン、と、金属の打ち合う不似合いに澄んだ音が房間へやに響いた。

「まだまだ荒削りなのは、若さゆえでしょうかね。でも、なかなかいい動きです。さすがは蜘蛛というべきか」

 そんな独白めいた言葉とともにこぼされる相手の余裕の感嘆に、青嵐はむしろ苛立った。だが、向こうが相当な手練てだれであることは、いまわずかに剣を交えただけでも、痛いほどに理解される。青嵐のほうが間違いなく劣勢であることは、無論、天涯山主にもよくよくわかっているはずだった。

 だからこそ、相手はずっと薄らと笑んだままで青嵐と対峙たいじしているのだろう。

「ですが、残念ながら……剣を手にした私に、いまの君の腕では、到底及ばない!」

 きっぱりと言われて、青嵐は、ち、と、舌打ちした。ゆかる。飛び上がって中空で身をひねり、そのまま、渾身こんしんの一撃を繰り出した。

「そんな、の……やってみなけりゃ、わかんねぇだろっ! 俺は……アンタを殺せって、王から命じられてるんだ、よっ!」

 だからどうしたってアンタの命は貰う、と、青嵐が言ったとき、ふと、それまで流水のごとくなめらかだった相手の動きが、わずかによどんだような気がした。

 入り込む隙ひとつなかった間合いが、奇妙にゆるむ。青嵐はそれを見逃さず、ひと息にそこへと飛び込んだ。

 どん、と、鈍い音がする。青嵐が天涯山主の身体を壁へと押しつけた音だった。

 刃が肉を裂いた確かな感触がある。そのままぐっと力を込めて、青嵐は相手を壁に縫い止めるかのように、更に深々と山主の心臓を貫いた。

 とどめに匕首をひねる。ぐじゅ、と、肉をえぐるなんともいやな感じが手に伝わってきた。

 白い道袍きものに鮮血がじわりとにじんでくるのを確かめ、青嵐は、ふう、と、息を吐いた。

 匕首を一気に抜き取る。相手の傷口から血が吹き出す。

 だがその瞬間、青嵐は――昨夜と同じく――ぞっと背筋を凍らせた。

 苦悶くもんに眉をひそめながらも、天涯山主はわずかに口の端を持ち上げている。

「だから……痛いんですよね」

 軽い溜め息まじりに言う声に、そんな莫迦ばかな、と、青嵐は息を呑んで瞠目する――……間違いなく、心臓をひと突きにしたはずだ。それなのになぜ、この男は生きているのか。

 ありえない、と、青嵐は思わずわななき、匕首を取り落としてしまった。

「……ばけ、もの」

 信じられない光景を前に目を見開くこちらに、口の端から血をこぼしつつも、いまやもう平然と――あるいはいっそ凄絶せいぜつに――微笑んでいる山主が、軽く肩をすくめてみせた。

「ひどい言われ様ですねえ。これでも、出自は人間ひとのようですよ。――とはいえ、昔のこと過ぎて、私自身、もうよく覚えていないほどですから……似たようなものかもしれませんね」

 ばけものか、と、彼は自嘲するようにそうこぼした。

 それから、青嵐の取り落とした匕首を拾い上げ、血で汚れた刃をそでで無造作にぬぐう。

「言ったでしょう? ――不老不死など、さして良いものではない、と」

 こちらにそれを差し出しながら、言う。

「それにしても、君のせいで、昨夜ゆうべ道袍きものが一枚血だらけになったというのに……今日はまして、穴まで空いてしまって」

 困ったものです、と、血まみれになっている己の恰好かっこうを見ながら、場違いに暢気にのたまう。

「ねえ、〈青嵐〉……これ、責任を持って、君が洗濯して、つくろってくれますか?」

 そう言った相手が指し示すのは、自らの左胸のあたりだ。青嵐の繰り出した匕首に貫かれ、道袍きものは無惨に破れて血で真っ赤に染まっていた。

「不老不死など……」

 衝撃に立ち竦んだまま動けず、また、答える言葉も持てないでいる青嵐に、天涯山主は苦笑する。

「そんなものはね、いっそ、呪いのごとしですよ」

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