1-2
「ねえ。ねえ、君! もう
どこか
ん、と、ちいさく呻く。まるで寝坊した
なんだ、
だが、おかしい。
身体がうまく動かせない。
なぜだ、と、思った刹那、青嵐はハッと覚醒した。
「おや。ようやくお目覚めですか」
目の前で、ふ、と、笑う青年がいる。その姿を視野に留めた瞬間、青嵐は、き、と、表情を険しくしていた。反射的に相手に攻撃をしかけようとする――……が、これもやはり、先程と同じようにかなわない。身体は、まるで、見えない縛縄でもかけられているかのようにかたまっていた。
否、それは、見えない縄などではない。
「……なっ!」
状況に驚いて、青嵐は思わず、
自分はいま、見知らぬ
すなわち、身体が思うように動かせなかったのは、この縄目のせいだったわけである。
「ああ、すみません。また
臥牀の端に腰掛け、こちらを見下ろしている青年が、ふ、と、薄いくちびるをゆるい弧のかたちに引き上げた。
彼はいま、その白くしなやかな手指で己の喉頸に触れている。だが、そこには傷ひとつない、ごくなめらかな膚が見えているだけだった。
たしかに青嵐が切り裂いたはずの箇所なのに、そんなことはまるで
「
苦々しく呟く青嵐は、己が任務をしくじって、かつ、標的の手に落ちさえしてしまっったことを悟っていた。
無論、守護呪符まで持たされた王命の任務であったわりに、あまりにもことが
あるいは自分は、相手の罠にまんまとまってしまったのかもしれない。昨夜あたかも青嵐の手にかかったかのように見えた天涯山主は、もしかすると、何らかの
「くそったれ……!」
青嵐が悔し紛れに
そんな相手の
それにしても、天涯山主はかなり若かった。
その直ぐの髪が、相手が青嵐を覗き込むように身体を傾けたのにあわせて、かすかに揺れる。
「君は」
山主の手指が伸びてきて、青嵐の喉元をぐっと押さえ込んだ。
「いったい、何者ですか? どうやって、この天涯山に侵入したのです? この山には私の術……這入り込もうとするものを阻む迷陣が、隙間なく張り巡らされているというのに」
どのようにその陣を破ったのだ、と、ぐぅ、と、
「……陣なんか、知るかよ」
それでも、苦しい
が、これは何も強がったわけではなくて、真実、青嵐は陣のことなどわからりはしなかった。むしろ敵の侵入を
「もしかして、破ったのではなく、
矢継ぎ早に問いを投げておいてこちらの見せる反応を
「
どこか呆れるふうに言うと、改めて、灰色の眼差しを青嵐に向けた。
「で。結局、君は何者なんですか? その
「はっ! 誰がおとなしく名乗ったりするかよ!」
青嵐が鼻で笑うと、まあそうですよね、と、山主は
「ああ、そういえば」
その後で、何かを思い出したかのように軽く手を打つと、そのまま己の白い
「これ、君の
こと、と、小首を傾げ、山主は実にうるわしく、
それはちいさな玉飾りのついた、てのひらに載る大きさの錦の袋だ。呼び出されて病床の国王の枕元へと駆けつけた際、王から手渡されたものだった。
「っ、返せ!」
叫ぶように言っている。縛られて不自由な手足を、それでも、じたばたともがかせた。
そんなこちらの態度を見た山主は、くちびるに薄ら笑みを浮かべ、すぅ、と――厭な感じに――目を
「おや、やはり、大切なものでしたか。返して差し上げたいのはやまやまですが……どうしましょうかね」
「ふざけるな!」
「そう言われましても、こちらも、
天涯山主は
青嵐は眉を寄せ、ぐ、と、言葉を詰まらせた。余裕の表情で微笑む相手を、憎々しさをいっぱいに込めて
「――……青嵐」
「〈青嵐〉」
天涯山主が、たしかめるように、復唱した。
その刹那、ひゅん、と、心の臓に何かが音もなく絡みつくような感覚に襲われ、青嵐は身を
「なにを、した……?」
青嵐が相手を
「
皮肉っぽく言われて、青嵐はくちびるを噛んだ。
「アンタが、名乗れって、言ったんだろうがっ!」
そう文句を垂れるが、それにしても、相手の言うとおりではあった。現に、だからこそ、国王や王族、貴族、あるいは神官や術師などの
「くそっ」
「お前も名乗れよっ!」
悔し紛れに叫んだものの、相手はちいさく肩を竦めて、ふう、と、
「私は天涯山主ですよ。人に
呆れたように言って、灰色の眸で再び青嵐を見下ろす。
「そう……君は、青嵐というのですね」
こちらの頬に手指を伸べ、いやにやさしくそこ撫でながら、天涯山主は改めて青嵐の名を口にした。
「では、〈青嵐〉……教えてください。君は誰の
「……凌、国王」
意志に反して、言葉はくちびるから漏れ出ていた。天涯山主は満足そうに、そう、と、ひとつ頷いた。
「凌国……ということは、君はあの国の闇組織、たしか蜘蛛とかいいましたか。その一員かなにかでしょうかね。そういえば、凌王は長らく不老不死にご執心との風聞ですし……なるほど、私の護る龍玉には不死をも与える霊力が宿る、と、
山主にほぼすっかり言い当てられて、青嵐としては、後はただ黙すより
天涯山主は、ふう、と、息を吐く。
「不老不死など、いうほど、良いものではないというのに」
切なげに目を眇めて、ぽつり、と、まるで
だが、そんな表情を一瞬で掻き消すと、山主は不意に傍の
白銀に輝く剣身がこちらに迫る。山主が抜き身の刃を青嵐に近づけたときには、万事休すか、と、さすがに最期を覚悟した。
だが、天涯山主が青嵐にその剣を突き立てることはなかった。
「そう
そうどこか皮肉っぽく言うと、相手は青嵐の両手両足を
身体が自由を取り戻す。ほう、と、深く息を吐いた青嵐に、山主はあっさりと錦袋を返してくれた。
「帰りなさい。龍玉には、巷間で囁かれる風聞のような力はありません。――むしろ龍玉に宿る霊力は、中原に出れば、ただただ災いをなすだけのもの」
天涯山主は嘆息しながらそう言う。
だが、青嵐としては、ここで、はいそうですか、と、
こちらにも、凌王に対しては目を掛けて貰った恩もあるのだし、また、王直属の刺客としての
返して貰った錦の袋を再び
「はっ! 帰れと言われておとなしく帰る
言うなり相手に襲いかかる。手にした匕首で天涯山主に斬りつけたが、寸でのところで相手には身を
だが、もちろん、一撃で諦めるはずもない。青嵐はくるりと身軽に身体を反転させると、第二撃を
第三撃、第四撃は、刃で受けてから、
「まだまだ荒削りなのは、若さゆえでしょうかね。でも、なかなかいい動きです。さすがは蜘蛛というべきか」
そんな独白めいた言葉とともにこぼされる相手の余裕の感嘆に、青嵐はむしろ苛立った。だが、向こうが相当な
だからこそ、相手はずっと薄らと笑んだままで青嵐と
「ですが、残念ながら……剣を手にした私に、いまの君の腕では、到底及ばない!」
きっぱりと言われて、青嵐は、ち、と、舌打ちした。
「そんな、の……やってみなけりゃ、わかんねぇだろっ! 俺は……アンタを殺せって、王から命じられてるんだ、よっ!」
だからどうしたってアンタの命は貰う、と、青嵐が言ったとき、ふと、それまで流水のごとく
入り込む隙ひとつなかった間合いが、奇妙に
どん、と、鈍い音がする。青嵐が天涯山主の身体を壁へと押しつけた音だった。
刃が肉を裂いた確かな感触がある。そのままぐっと力を込めて、青嵐は相手を壁に縫い止めるかのように、更に深々と山主の心臓を貫いた。
白い
匕首を一気に抜き取る。相手の傷口から血が吹き出す。
だがその瞬間、青嵐は――昨夜と同じく――ぞっと背筋を凍らせた。
「だから……痛いんですよね」
軽い溜め息まじりに言う声に、そんな
ありえない、と、青嵐は思わずわななき、匕首を取り落としてしまった。
「……ばけ、もの」
信じられない光景を前に目を見開くこちらに、口の端から血をこぼしつつも、いまやもう平然と――あるいはいっそ
「ひどい言われ様ですねえ。これでも、出自は
ばけものか、と、彼は自嘲するようにそうこぼした。
それから、青嵐の取り落とした匕首を拾い上げ、血で汚れた刃を
「言ったでしょう? ――不老不死など、さして良いものではない、と」
こちらにそれを差し出しながら、言う。
「それにしても、君のせいで、
困ったものです、と、血
「ねえ、〈青嵐〉……これ、責任を持って、君が洗濯して、
そう言った相手が指し示すのは、自らの左胸のあたりだ。青嵐の繰り出した匕首に貫かれ、
「不老不死など……」
衝撃に立ち竦んだまま動けず、また、答える言葉も持てないでいる青嵐に、天涯山主は苦笑する。
「そんなものはね、いっそ、呪いのごとしですよ」
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