一章 天涯の剣

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「私怨はないが、勅命だからな……悪いがアンタには死んでもらう」

 天涯てんがい山主さんしゅなどという仰々ぎょうぎょうしい呼称のためか、ここへ来て実際に相手を目にするまでの青嵐せいらんは、今度の標的を、老境も近づく壮年の男として想像していた。だが、いま青嵐が後ろから羽交はがめにするのは、己とさほど変わらない年齢としのように見える青年だ。

 意外な思いはしたものの、かといって、それで手を止めるものでもない。青嵐は相手の喉頸のどくびに、鈍く輝く匕首ひしゅ――つばのない、ごく短い刀――のやいばを押し当てると、そのまま、間髪入れずに横に引いた。

 やわはだを切り裂くいやな感触があり、飛沫しぶきが辺りに散る。匕首を掴んだ右手の甲に、ぴち、ぴち、と、いくらか、生温かい飛沫を浴びた。

 すぐに、くた、と、突っ張っていた相手の身体から力が抜ける。それを確認した青嵐は、それまで青年の身を抱え込んでその動きを押さえていた左腕を静かにゆるめた。

 支えを失った相手の身体は、まるで糸の切れた傀儡あやつりにんぎょうのように、その場にくずれる。庭院にわに敷かれた石畳いしだたみに血溜まりが広がるのを、青嵐はなんとも複雑なきもちで見詰めていた。

 青嵐の属する蜘蛛ちしゅという組織、その生業なりわいにするところは、こうした暗殺であったり、あるいは情報収集や裏工作などであったりする。

 天・地・人の三世界のうち、人間ひとの住まう中原には、複数の国が存在していた。そして、国々は、時に結び、時にあい争う関係なのだ。そうであれば、どの国の王であっても、大抵は――時には、その存在すらおおやけになることのないような――闇の部隊をようしているのが普通だった。

 夜にまぎれ、闇にうごめく彼らの職務は、たとえば敵国の要人の抹殺まっさつ、自国の反乱分子の密かなる粛清しゅくせい、あるいは種々の諜報活動や離間工作などといった、表に出ない暗部の仕事をこなすことである。裏世界、闇組織などは、俗に黒幇こくぼうとも総称されたが、りょう国においてのそれが、蜘蛛と呼ばれる、王直属の組織なのだった。

 青嵐はどうも孤児だったらしい。自分でもあまり覚えてはいないが、幼い頃、いまの凌国の王に拾われたようだった。その後、蜘蛛のかしらに預けられて、その組織の中で生い立った。

 知識を学び、身体を鍛えて武芸を身につけ、長じてからは自らも蜘蛛の一員となっている。それでも、まだ十八歳せいじんになって間もないというのもあって、蜘蛛としてさほど多くの仕事をしてきたわけではなかった。

 今回の任務が、初めて、単独ひとりでこなすものである。

「天涯山主を殺せ、か……」

 青嵐は、病の床に伏した国王から直接受けた命令を思い出して、ちいさくそうつぶやいた。国王は青嵐にとって、主であり、恩人でもある人物だ。その言は絶対といってよかった。

 凌国は、中原において、中央よりやや南に位置する国である。その国都から北のて、雲上天との境だとされる天涯山までやってくるのに、およそひと月半ほどを要していた。だが、そこからは、いっそ気味が悪いくらいに、事は容易に進んでいた。

 天涯山の、天を突くがことき偉容いようには、さすがに圧倒されはした。だが、かといって、その山への侵入には、想像したのとは違い、さしたる苦労もありはしなかった。それは、山の中腹にあった、山主のむと思わしき屋敷へ這入はいり込むことにおいても、また同様である。

 深山にいだかれたうつくしい山荘は、天涯てんがい山荘さんそうとの扁額がくを掲げた南門を越えると、中央には中庭があり、これを囲むように北に正房、東西に廂房しょうぼう、南に倒座とうざを配した立派なものだった。けれども、本来ならばいておかしくない護衛や下僕の気配を、まるで感じることがなかった。

 だから、何にはばまれることもなく、驚くほど呆気なく、青嵐は天涯山主に近づき得たわけである。

 酒瓶さかがめを手に、ふら、と、無防備に中庭に出てきた彼の後ろを容易たやすく取ると、その首を掻き斬った――……すなわち、見事に、王命を果たしたのだ。

 今宵のそらには月もない。星がまばらにまたたくばかりの、闇の濃い夜の下だったが、生まれつき夜目の効く青嵐には、いま自らが手を下したために事切れて地に倒れ伏した青年の姿が、ありありと見えていた。

 ほう、と、ひとつ息をく。

 事が順調に運び過ぎて、かえって胸のざわつきを覚えないではなかった。だが、とにかくも、命じられたことは成し遂げたのだ。後は、天涯山主が護るという――そして、人に不老長生をもたらすという――龍玉を探し出して、凌国王のもとへと持ち帰ればいい。

 自分にそう言い聞かせるようにしてひとつ頷くと、青嵐は黒い眸を、天涯山主の遺骸から正房おもやのほうへと巡らせた。

 その瞬間、バサ、と、鳥か何かが飛び立つ羽音が聞こえてくる。

 同時に、さぁあぁん、と、こずえを吹き渡ってきた風が青嵐の短い髪や、まだわずかに少年めいた面影を残した頬を撫でた。

 そのときだ。

 なぜか、ぞ、と、背筋が凍った。

 はだあわ立つ。

 奇妙な気配を背中に感じて、思わず振り向いた青嵐は、そこに、信じ難い光景を見た――……先程、己の手でたしかに絶命させたはずの青年の身体が、ゆら、と、立ち上がりかけている。

 だが、青嵐が息を呑み、目をみはった刹那には、相手の姿は視界からき消えていた。否、真実、消えたわけではない。目にも留まらぬ速さで、彼は動いたのだ。

 長い烏羽玉ぬばたまの黒髪が、まるで蛇のように妖しくうねる。相手のまとう白い道袍きものの大きな袖が、ふわ、と、風をはらんでふくらんだ。

 あ、と、思う間にも、相手は青嵐のふところに飛び込んできていた。

 青嵐は匕首たんとうを構える。が、わずかに応戦は間に合わない。

 ならば、と、後ろへ飛び退すさろうとするが、それよりもさきに、伸びてきたしなやかな指に、とん、と、肩のあたりの経穴を突かれていた。

 経脈を流れる気血を封じられ、気が遠く失せていく。

 かすみゆく意識がふつりと途切れてしまう刹那まで、青嵐は、自分が殺し損ねたらしい相手を――長い黒髪を夜風になびかせ、なぎのように静かで感情の読めない灰色の眸をこちらに向けつつ、平然と立っている天涯山主を――信じられない思いで見詰めていた。

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