第18話 最初の夜

「もう、寝ようか」

 しばしの沈黙の後、駆は言った。


 先程の気まずさも吹き飛ぶほどの、現在進行形で起きている異常事態に、あまり深刻に考えてもいいことは何もない。そう思ったからだ。

 不安も、焦りも、恐れも、すべて寝て一度リセットしたかった。

「正直、色々あり過ぎだよ。俺にはキャパオーバーだ」

 駆は素直な気持ちを吐露した。


「私もだよ、キャパオーバー」

 日向も正面の暗い虚空を見つめ返した。


 家族が気になる。

 友達が気になる。

 東京が気になる。

 明日が気になる。

 気になることを挙げたら、切りがない。


「そんな時は、寝るに限る」

「……だね」

 駆が力なく微笑むと、日向も無理して笑顔を作った。

「俺、床に寝るから。このベッドは自由に使って」

 日向は驚いた様子で駆を見た。

「えっ、ダメだよ! そんなんじゃ疲れ取れないよ」

「でも、ここにふたりで寝るのは、さすがに――」

 駆の言葉を遮るように日向が発した言葉に、駆はひどく動揺した。


「――私はいいよ。私は、構わないよ」

 

 闇に包まれている。

 特に音もない。静かだ。

 狭いシングルベッドに、駆と日向は互いに背を向け横たわっていた。

 少しでも寝返りを打てば、触れてしまうほど近くに日向がいる。

 先程から駆の鼓動は速まったまま。目はむしろ冴えてきてしまった。


 ダメだ、眠れない。

 仕方なく、闇に目を慣らすように壁を見た。

 なるべく、日向を意識しないように壁を見た。

 ゆっくり呼吸する。意味もなく数を数える。

 そんな無駄な試行錯誤を繰り返したが、眠気は訪れなかった。

 相変わらず音はない。静まり返って物音ひとつしない。

 日向はもう寝ただろうか?

 この静けさなら、彼女の寝息も聞こえるにちがいない。

 駆は両耳に意識を集中した。ちょうど、その時。


「駆くん」


 囁くような声が聞こえ、飛び起きそうになった。

「まだ、起きてる?」

 動揺を悟られぬよう、できるだけ冷静に返す。

「起きてる」

 でも、鼓動は速まるばかりだった。

「なんかね」

「うん」

「眠れないんだ」

 なんだ、そうか。日向も同じだったのか。

 少しほっとした気分になると、本音が滑り落ちた。

「俺も」

「駆くんも?」

「あっ、えっと……」

「やっぱり?」

 観念した。本音でいこう。

「あぁ、眠れない。俺も」

 が、次の言葉は予想外だった。


「あのね。手、つないでも、いいかな?」


 えっ、今なんて?

 すると、背中に何かが触れた! 反射的にのけぞった。

「ご、ごめん!」

 どうやら、日向の体の一部が駆の背中に触れたようだ。

「い、いや、大丈夫」

 駆はそう言い終えると、今の自分と日向の位置関係を確認しようと考え、日向に触れぬよう細心の注意を払いながら体勢を仰向けに変えた。

 天井が見えた。

 気のせいだろうか、日向の側の体がほんのり温かい。

 駆は、さらに慎重に頭だけ日向側に倒してみた。

 想像していたより近くに、日向の顔がぼんやり見えた。

 暗がりの中、日向は駆側に体を向け横になっていた。

 ただ、その表情は虚ろで不安気だった。


「なんかね、怖くて」


 そして、まもなく駆の左手が何か柔らかいものに触れた。

 日向の手だった。とても、柔らかく華奢な手。途端に、また鼓動が速くなる。

「ちょっとだけ、いいかな?」

 そう語る日向の顔がシリアスだったから、駆は何も言わずに握り返した。

「ありがとう」

「寝られそう、かな?」

「うん」

「なら、よかった」

 冷静を装い返したが、駆の鼓動は収まらない。

 左手に意識が集中する。

 手汗をかいてないだろうか? 無駄に力が入っていないだろうか?

 あるいは、この鼓動が脈を通じて日向に伝わっていないだろうか?

 参った。

 しかし、まもなく左耳になんと微かな寝息が聞こえ始めた。


 えっ、寝た⁉

 まさかと思いつつ、駆はしばらく後、小声で話しかけてみた。

「もう、寝た?」

 返事はなく、一定した静かな寝息だけが繰り返している。

 まったく、人の気も知らないで。


 駆は、頭を日向側に静かに向けてみた。

 幼馴染の穏やかな寝顔があった。

 幸せそうな、柔らかな、きれいな寝顔。その寝顔は昔と変わっていない気もした。

 無防備な寝顔は「信じてるよ」という無言のメッセージにも見えた。

 まったく、人の気も知らないで。改めて思う。

 少し懐かしい気持ちが込み上げた駆は、まだ眠れそうになかったので、しばし日向との懐かしい日々に思いを馳せた。

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