第8話 逃避行

「また、あの人が、いる」


 やはり、そうか。ストーカー男が再来したのだ。

 そっと振り返る。人だかりの中に「ヤツ」がいた。


 まさか、先回りしたていたのか? ならば自宅も知っていたということか。

 中途半端に逃げる程度では、許してくれない相手のようだ。

 それに逃げ込もうとしていた家も、今、目の前で燃えている。


 ならば戦うか? 

 いや、まともにやったら体格差で勝てないだろう。

 警察に駆け込むか? 

 いや、街がこんな状態じゃ取り合ってもらえるかもあやしい。 

 では、どうする?

 なぜか脳裏に、先程の一文が浮かんだ。

 

 ――逃げろ、できるだけ遠くへ。


 駆もよく知る日向の父、太郎に直接そう言われた気がした。

  もはや、帰るべき場所はない。

 だったら、逃げるしかないんじゃないか?

 

 ここじゃない、どこかへ。それも、できるだけ遠くへ。

 

 もしかすると、太郎が何らかの情報をつかんでメッセージを送った可能性だってある。

 ならば、なおさら逃げるしかない。ここから。そして、ヤツから。


 方針は決まった。やることはシンプルだ。

 日向を連れて逃げる。できるだけ遠くへ。それだけ。

 そのために、まず何をすべきか?

 素早く目を動かし、まわりの状況を確かめる。


 !


 あれは、使えるかもしれない。

 駆は思いついた策を、日向に耳打ちした。

 日向は一瞬驚いたが、すぐにうなずいた。


 駆は鞄からノートを取り出すと短い言葉を書きなぐり、書いた一枚だけを素早く破った。

 それをポケットに突っ込むと、前方を改めて見る。


 非常線の向こうでは、消防士たちによる消火活動が続いていた。

 しかし、消防車が一台のみのせいか、火の勢いは衰えていないように見えた。

 火災が多発しているのか、応援の消防車が駆けつける気配もない。

 そのせいか、非常線を見張る人間は誰もいなかった。

 

 好都合だ。日向に目で合図する。行動開始だ。

 ふたりは素早く移動すると、非常線の下をくぐった。

 そのまま姿勢を低くし、駆け足で進む。

 必死の消防士たちは、ふたりの動きに気づかない。

 

 一瞬、もと来た方向を振り返った。

 こちらに気づいたか「ヤツ」の表情が変わる。

 人混みをかきわけ、非常線の方へと動き出した。

 バレたか。再び前を向き、先を急ぐ。

 

 マンション横の駐輪場、それが目指す場所だった。

 正確には、そこに停められた太郎の原付きバイクこそが目標だった。

 すぐに原付きの前にたどり着く。

 そして、その奥の植木鉢を急いでずらした。

 

 あった。やはり、あった。

 

 太郎は、原付きのスペアキーを植木鉢の下にひそかに隠していた。その様子を、駆は日向と昔からよく見ていた。

 キーを取ると、代わりに先程書いたノートの切れ端を地面に置き、植木鉢を重しに固定した。原付きにまたがり、キーを差し込む。その間に、日向が後部にまたがるのを感じた。

 

 キーをひねり、スタータースイッチを押す。

 ん? エンジンがかからない。

 

 焦りが広がる。

 そのタイミングで消防士のひとりに気づかれた。

「何をしている! 離れなさい‼」

 振り返ると、ヤツが非常線をまさに越えていた。

 再び、スイッチを押す。

 やはり、エンジンがかからない。

 どうして! 焦りが加速する。

 と、背後の日向の手がぐっと伸び、左のブレーキを握った。


「これでスイッチを押して!」


 言われるまま、スイッチを押す。

 エンジンがかかった!


 左から消防士、背後からヤツが近づいてくる。

 迷わず、スロットルを回す。

 原付きが動き出す。

 日向の手が腰に回されるのを確認すると、駆はさらにスロットルを回す。


 加速。

 高いエンジン音がうなる。

 数秒後、原付きは非常線を裂き、車道へと出た!


 まもなく、消防士もストーカーもバックミラーから消えた。

 それでも、駆は原付きを走らせ続けた。できるだけ遠くへ逃げるために。


 二人が去った後には、植木鉢に固定されたノートの切れ端のみが残った。

 そこには、こう書かれていた。


 ――生きてます。逃げます。駆、日向

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