第4話 追跡者の影

 振り返らず、走り続けた。


 駆も日向もすでに息は上がっていた。

 何度か細い路地を折れると、骨董通りに出る。

 ようやく振り返った。追ってくる影は、ない。


 駆は徐々に速度を緩め、最終的に速歩き程度のスピードで一定させた。

 富士フィルムの本社がある、高樹町の交差点方向に進む。

 骨董通りでも車線はやはり渋滞しており、断続的なクラクションが鳴り響いていた。

 信号を見ると、やはり光は灯っていない。一帯の停電はまだ続いているようだ。

 ただ青山通りに比べると、まだ歩道の人通りは少ない。

 もう一度、振り返る。追ってくるような人影は、やはりない。


「もう大丈夫、だと思う」

 駆が言うと、日向も後を振り返った。ようやく少し安堵した表情が浮かぶ。

「いきなり走りだすから、びっくりしたよ……それに……」

 そこで駆は、いまだ彼女の手を握ったままだったと気づいた。

「ご、ごめん!」

 急いで手を離す。

 少し汗ばんだ手の感触が妙に生々しかった。

 ふたりの間に、また微妙な空気が流れる。


「その、ストーカーって……」

 空気を変えたくて、駆は尋ねた。

「読モを始めた頃からかね、時々同じ人に後をつけられていることに気づいて。最初は気のせいかなって思ったんだけど。あまりに続くから、警察にも相談したの」

 日向と疎遠になったこの一年で、そんなことがあったのか。駆に少し後悔の念が芽生えた。

 何ができたかわからないが、知っていれば何か力になれたかもしれない……。

「ここ最近はね、見てなかったの。ほっとしてたんだけど……」

 日向は、力なく笑った。


 高樹町の交差点にたどり着いた。

 骨董通りは、ここで渋谷と六本木を繋ぐ六本木通りと交差する。六本木通りもやはり渋滞していた。それも、ひどい渋滞だ。歩道には、サラリーマンやOL風の人々も増え始めている。近隣のオフィスに務める人々だろうか。その表情には一様に戸惑いが見えた。

 高樹町の交差点には、六本木通りを横断する横断歩道はない。代わりに地下横断歩道がある。

 駆たちは、その入口に向かった。

 と、日向に袖を引っ張られた。


「また、あの人」


 日向を見ると、顔が青ざめている。

 まったくこんな日に、なんてヤツだ! 

 再び日向の手を取ると、駆は走り出した。

 地下横断歩道の入口に入ると、急いで階段を駆け下りる。

 途中、日向がつまずきバランスを崩した!

 駆は、とっさに階段下にまわると日向の体を受け止め踏ん張った。

 グキ。右足をひねった感覚があった。鋭い痛みが走る。が、なんとか堪えた。

 刹那、階段を駆け降りてくる男と目が合った。


 ヤツか!


 年齢は若そうに見えた。二十代前半くらいだろうか。

 髪は短髪で、体格もガッシリしている。背も駆より明らかに高い。

 まともにやりあったら、勝てそうにない。直感で思った。

 だから、足首の痛みを無視し、日向と再び駆けだす。

「大丈夫なの?」

 日向が荒い息で尋ねる。

「あぁ、急ごう!」

 無理やり笑顔で答える。走れなくはないが、走る度、鋭い痛みを感じた。

 地下道には、意外なほど人が多くいた。その人々を縫うようにして進む。進みづらいが、幸いだと思った。この衆人環視の状況では、ヤツもめったな動きはできないだろう。


 それでも速度を緩めず、どんどん進む。

 何人かと肩がぶつかったが、謝る余裕はなかった。

 振り返ると、体の大きな男は人波に苦戦しているようだった。

 この機を逃さず、ふたりはいち早く地上に出ると、細い路地をさらに急いだ。

 が、痛みのせいで走り続けるのが難しくなりつつあった。


 と、日向がぎゅっと手を引っ張った。駆はつんのめるように止まる。

 日向が通り沿いのビルとビルの狭い隙間を指差す。

 ここに隠れる、ということか?

 駆のそんな思考より先に、日向はぐいっと駆の手を引くと、大人が体を横にしてかろうじてひとり入れるかという隙間に駆を押し込め、その胸の中に自分も遅れて収まった。


 その狭さゆえ、ふたりは密着し、まるで抱き合うような格好になった。

 鼓動が一層速くなったのは、走ってきたからという理由だけではない。無駄だと思いつつも、極力、日向から体を離そうと試みた。でも、彼女が人差し指を唇の前に立て制止した。


 まもなく、走る足音が近づいてきた。

 横目に先程の男が通り過ぎるのが一瞬見えた。

 足音が遠ざかり完全に聞こえなくなっても、ふたりはその場でじっとしていた。

 胸元には日向の暖かな吐息をずっと感じていた。動悸は収まらない。

 少しして動き出そうとすると、日向が言った。


「もう少しこのままの方がいい、と思う」


 光も差さないビルの隙間。ふたりはそこに五分近くもいた。

「さすがに、そろそろ……」

 もう限界とばかり駆がつぶやくと、日向もようやくうなずいた。


 再び路地に出ると、男の姿はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る