第3話 危機の宰相

 その日、代田萬蔵だいた まんぞうは朝から上機嫌だった。


「やっぱり、新之助はうまいねえ」


 そう言って、新潟のブランド米「新之助」を朝から二杯もお代わりした。

 今年で七十四になるが、食欲はいまだ衰えず、やたらと顔の血色もいい。

 もはや頭頂部は寂しいし、背もさほど高くはないが、祖父譲りで恰幅だけはよかった。


 これと言った苦労も知らず、この歳まで来た。自分でも、運だけはいいと思う。

 三世議員として祖父から続く地盤を引き継ぐと、政治家としてのキャリアを順調に歩んだ。

 が、生来、権力志向がなく事なかれ主義を貫いてきたため、敵も作らなかったが出世からも縁遠かった。だから、派閥間調整の数合わせで棚ぼた的に現内閣の農林水産大臣に選ばれたのは、自身初の入閣であった。


 代田は今、大臣として初の視察地、新潟を訪れていた。

 実際の視察は今日からなのだが、あえて昨日から前入りした。

 昨晩は、地元の有力者などから歓待を受け、新潟の幸をこれでもかと味わった。

 代田は体質的にあまり酒が飲めない。その分、美食家で食へのこだわりは強かった。自身が農水大臣であればなおさら、地域の特産品を食さず帰るわけにはいかないと強弁し、無理やり官僚に日程を前入りに調整させたのだ。

 しかし、今日最初の視察地が老舗の造り酒屋となったのは、酒の飲めない代田への官僚のささやかな抵抗だったのかもしれない。

 それでも、代田は変わらぬ上機嫌のまま、造り酒屋に向かう黒塗りに乗り込んだ。


 酒屋の社長は、恭しく代田を出迎えた。そして蔵の中を代田と並んで歩き、丁寧に酒造りの工程を説明し始めた。

 酒が飲めない代田にとって、どれも興味をそそる話ではなかったが、機嫌はよかったので「へぇ〜」「なるほど」などと適当に相槌を打っていた。

 そうしながらも、気持ちはすでに昼食に向いていた。予定では、地元の青年団と「のっぺ」という郷土料理を食す予定だった。


 しかし、「のっぺ」とはなんだ? 


 語感だけ聞くと、ねばっとした感じの食感を彷彿とさせるが……。

 代田の頭から完全に社長の言葉が消えかけていた頃、誰かに肩を叩かれた。二度も。

 振り返ると、代田の秘書を長年務める横山が立っていた。

「おいおい、社長さんが貴重なお話をしてくださっている最中だ。後にしてくれ」

 代田は、ろくに話も聞いていなかったくせに、憮然として横山に言った。

 が、横山は神妙な面持ちを崩さない。

「申し訳ございません」と深く低頭すると「しかし、緊急の要件でして」と譲らない。


「緊急?」


 代田は、社長に一礼し少し離れると小声で横山にまくしたてた。

「いったい、なんだ! しょーもない話だったら、承知しないぞ!」

 それでも横山は表情を変えず、すっと代田に近づくと耳打ちした。

 その言葉に、代田の表情も一変した。


「東京で大きな爆発があったようです」


            ◇

 

 風を激しくかき回すローター音が、すべてをかき消した。


 代田は、この新潟でまさか人生初のヘリコプターに乗ることになるとは夢にも思わなかった。

 陸上自衛隊のヘリコプターEC‐225LPの白と灰色の機体はすでに離陸準備を終え、代田が乗り込むのを待っていた。


 酒屋を急遽後にした代田は、そのまま車で新潟空港の西側に隣接する航空自衛隊新潟分屯基地に来ていた。今はその滑走路に立っている。

 背後には「航空自衛隊 新潟救難隊」と書かれた巨大な格納庫が見える。どこか場違いな気がし、居心地の悪さを感じる。


 すると、自衛隊の制服に身を包んだ長身の男が足早にやってきた。

「大臣! こちらへお願いします!」

 大声でそう告げると、待機するEC‐225LPに乗り込むよう促した。

 代田は、内心動揺していた。人生初のヘリということもあるが、自分へのこうした扱いが不可解だったからだ。それは素朴な疑問だった。


 なぜ、農水大臣の私をわざわざヘリで迎えにくるのか?


 東京ではすでに総理や官房長官、それに担当大臣らが対策に当たっているはず。

 わざわざ、新潟視察中の私を急いで呼び戻さずとも大勢に影響はないだろう。

 あるいは、総理直々の呼び出しか? この私に? なぜ?

 考えても答えは出そうになかったので、仕方なく促されるまま乗り込む。


 中に入ると、無骨な外観からは想像もつかなかった豪奢な空間に驚く。

 機内はアイボリーで統一されており、シートも同系色の革張り。木目調のサイドテーブルも立派で、さながらプライベートジェットのような印象を受けた。


 きょろきょろと機内を見回す代田に、制服の男は代田の正面に座りながら言った。

「EC‐225LPは、要人輸送に特化した特別輸送ヘリです。先日も、そちらの席に藤枝総理がお座りになられました」

 自衛隊のヘリと聞き、どんな荒々しい機体に乗せられるかと不安に思っていた代田は、ひとまず胸をなでおろした。

 代田をさらに驚かせたのは、その防音性だ。ドアを閉めると、迎い合わせに座った男と普通に会話をすることもできた。なかなか快適じゃないか。総理が座っていたという椅子に、自分が座っているのも悪くない。


 離陸すると間もなく、男は「大変、遅ればせながら」と断ってから自己紹介を始めた。

「お初にお目にかかります、大臣。私は国家安全保障局審議官の武田と申します。見た目の通り、自衛隊からの出向組です」

 国家安全保障局? 日本版NSAとかいって、数年前にできた組織だったような……。自衛官も出向しているのか?

 代田は、政争にも疎いが、国政そのものにも疎い。国家安全保障局が緊急事態への対処に際し、防衛や外交の観点から必要な提言を行う組織だといった細かな理解はなかった。

 その表情から代田のそうした不理解を察したが、武田は構わず続ける。

 とにかく、この男と話さなければならない。


 ――なぜなら、現時点でこの男こそなのだから。


「大臣、今有事について、どこまでお聞きおよびでしょうか?」

「東京で爆発があった。それ以外は、まだ何も」

 実際、その通りだった。秘書の横山が耳打ちした内容以外聞いていなかった。

 とにかく、あれよあれよとヘリに乗せられていたというのが実情だ。


「では、最初からかいつまんでご説明いたします。本日、八時四十分頃、まずは北海道の札幌、旭川、函館といった都市で大規模な爆発的事象が確認されました」

 まずはということは、他にもあるのか? 実際、東京でも爆発があったのだろう……だとすれば、まさか!


「同時多発テロか?」


「おそらく。まだ断定はできませんが、大規模な国内同時多発テロが発生した。あるいは、現在も進行していると思われます」


「なんてことだ……」

 事態の深刻さに、代田は息を飲んだ。

 だからこそ、総理も自分のような末端の閣僚まで呼び戻したのだろうと納得がいった。

「現時点で確認されている爆発の被害地域は、北海道、青森、宮城、東京、千葉、神奈川、埼玉――」

 おいおい、まだ続くのかと代田の心拍数は上がった。

「――静岡、愛知、大阪、兵庫、京都、広島、福岡、長崎、鹿児島、沖縄です」


「とんでもない規模じゃないか!」


「おっしゃる通りです。あまりに規模が大きく情報も錯綜しており、他の都道府県にも被害が及んでいる可能性も否定できません」

 代田は気持ちを落ち着かせる意味でも、最初に浮かんだ疑問を口にした。

「犯人の、目星は?」

「いいえ、まだついておりません。国内外含め、どこからも犯行声明のようなものは出ていません。また現在、全国の警察を中心に犯人の情報を追っていますが、被害地域では目下、人命救助を最優先としていることもあり、犯人捜索は難航しています」


 代田は、渋い顔をして考え込んだ。そして、思いついたように言った。

「そうだ! 今のような時こそ、君たち自衛官の力を借りるべきじゃないのか? えっと……災害……災害……」

「災害派遣、ですか?」

「そう、災害派遣だ! 総理はすでに動いているんだろう?」

「じつは……そのために大臣のもとへ参りました」

「そのために?」

 代田は解せなかった。

 自衛隊の災害派遣と農水大臣の間に、いったいどんな関係があるというのか?

 その疑問に答えるように、武田は言った。

「通常、自衛隊の災害派遣は各都道府県知事からの要請に基づき、防衛大臣またはその指定する者の命により派遣されます」

 やはり、そうじゃないか。が、続きの言葉に再び心拍数が上がる。

「しかし、その青山防衛大臣の安否が現在つかめない状況でして……」

「安否がつかめない⁉ どういうことだ!」

「東京都心部では、壊滅的と言っていいほどの爆発が相次ぎました。ランドマーク的高層建築は軒並み被害の対象となりました。さらに国会、そして――」

 武田はここで少しだけ間を置くと、重々しく続けた。


「――首相官邸も被害に遭いました」


 その言葉に代田は、凍りついた。

「藤枝総理、新城官房長官はじめ、代田大臣以外の全閣僚が最初の爆発を受けての臨時閣議の最中でした」

 代田は、喉が奥まで乾いていくのを感じた。

 なぜ武田が新潟まで自分を迎えに来たのか? その真の意味をようやく理解した。

「現在、消防が懸命の救助活動を続けていますが、爆発の威力は凄まじく官邸はその原型を留めていないとのことです。おそらく、総理はじめ閣僚の方々の安否はほぼ――」

 ここで武田は、再び間を置いた。


「――絶望的かと」


 代田の脳裏に総理の藤枝や同じ内閣の大臣たちの顔が浮かんだ。

「仮にご存命であっても、職務遂行は極めて難しい状況かと思われます」

 みな、昨日の閣議ではあんなに元気そうにしていたのに。


「現時点において現内閣で安否が確認され、確実に職務遂行が可能なのは、代田大臣ただおひとりです」


 その言葉に、重い十字架を背負わされた気分になった。

「わが国は、現在、未曾有の国難にあり、事態はなお継続中です。もし対応の指揮を執る政府、内閣が機能しなければ、危機は一層深刻なものとなります。先程お話に出た自衛隊派遣ひとつとっても、事は一刻を争います」

 武田は代田をまっすぐ見据えると、告げた。


「代田大臣には、内閣総理大臣臨時代理を務めて頂く他ないと思います」

 

 内閣法第九条では「内閣総理大臣に事故のあるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に、内閣総理大臣の職務を行う」と規定している。二〇〇〇年四月以降は、組閣時に内閣総理大臣臨時代理の就任予定者五名を指名するのが慣例となった。

 しかし、今有事のようにその五名全員が職務遂行不能となった場合、誰が首相臨時代理を務めるかは、どこにも明文化されていない。


 もしそうなった際は、「他に方法はないし、また、条理上許される」として首相および臨時代理予定者以外の閣僚による「協議」(首相不在では閣議は開けない)で閣僚の中から首相臨時代理を指定することができるというのが政府見解である。


 ただし今は、そもそも協議をする閣僚が代田ひとりしか存命でないという事態のため、先の政府見解同様「他に方法はないし、また、条理上許される」として、代田が協議を経ず自動的に内閣総理大臣臨時代理となったのである。


 かくして代田は、期せずして臨時とはいえこの国の宰相となった。

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