第5話 終わらない混乱


 心神耗弱。善悪の判断がしにくい。又は、善悪の判断ができても、その通りに行動しにくい状態。


 そもそも善悪の価値観は個人差があり、意見が別れることは多いだろう。

 知らずにやらかすこともあるだろう。

 自分は間違ってないと勘違いすることもあるだろう。


 やっている間は問題ないと思っている。でも、思い返してみると、深く後悔する。

 泥酔状態に近いのかもしれない。


「先生!この人が無視します!」


「先生も今のお前は無視したい」


「教師が言って良い言葉では無いと思います!」


「わかったから、とりあえず落ち着け、パンツ履け、スカート上げたままこっちに体を向けるな」


 コイツ酒飲んでるんじゃねえか?先生は疑った。呂律や足取りはしっかりしているが、言動がおかしい。


 素面でこれはヤバい。酒飲んでても、それはそれで大問題。どの道、頭を抱えるしかない。


「え!?なんで悠里ちゃんスカート上げてるの!?てゆーか、なんでパンツ履いてないの!?」


 心配で様子を見に来たこころが悲鳴をあげる。


「お前はなんでいつも……ハァ」


 獅堂が嘆息する。トイレは結構音が響く。防音性もない。トイレの外に声が漏れていた。何があったかはだいたいわかっていた。わかっていても実際に見ると全然違う。


「お前ら外に出てろ」


「コイツの扱いは慣れてるんで任せてください。こころは誰も入ってこないように見張っててくれ」


「わかった!」


 こころに見張りを指示した獅堂は、先生の制止を聞かず、悠里に歩み寄る。


 悠里は、土下座状態のチャラ男に局部を見せつけようとしていた。本当に何やってんだ。


「おい悠里。妹の学校に下半身露出の変質者が出たらしい」


「本当ですか!?」


「冗談だ」


「なんだ冗談ですか。ビックリさせないでください」


「変質者が出た学校はこの学校だ」


「大変じゃないですか!?」


「ああ、大変だな」


「変質者は捕まったんですか?」


「捕まった、というより逃げる気がない」


「逃げる気がない?」


「先生が駆けつけても、下半身露出を止めなかったんだ」


 悠里、お前だ。言外に訴える。


「とんでもない変態ですね」


 お前のことだ。ドン引くな。引いてるのはこっちだ。


「そいつは、私の身体目当てだろう、と主張していた」


 悠里、お前だ。言外に訴える。


「話が見えませんね」


 それはこっちのセリフだ。困惑した顔をするな。困惑してるのはこっちだ。


「悠里。気づかないか?」


「何にですか?」


「変質者はお前だ」


「え!?」


 驚くな。驚いてるのはこっちだ。いい加減気づけ。


「否定できるか?」


「できます!事実無根です!」


 全部事実だ。


「じゃあ、何があったか全部言えるな?」


「言えます。化粧直しにトイレに入ると……彼がいました」


 彼とは、チャラ男くんのこと。自己紹介がまだだから、チャラ男くんの名前を知らない。


「彼は私が女だと言いました。なので証拠を見せることにしました」


「それで下半身を露出したと?」


 そう言われて、悠里はふと思った。自分は変なことをしたのではないか?と。


「……トイレですし、アレを出すのは普通ですよね?」


「なんの為に出すと思う?」


「……排泄のためです」


「見せるためでは無いな?」


「………………すいませんでした」


 悠里は顔を覆って座り込む。社会的に終わる状況に冷や汗が止まらない。


「先生。もう大丈夫です」


「お、おう。ありがとう。助かった。えっと……君は、身なりを整えて、生徒指導室に来なさい」


「……はい」


 変質者は捕まり、事件は解決した。




 ・・・・・・・・・・・・




 悠里だけ生徒指導室に連れていかれた。チャラ男や獅堂はいない。

 悠里が正気に戻り、反省している様子だから、話を聞くのは悠里だけとなった。


「お前は男なのを隠す気は無いのか?」


「ありません」


「じゃあ、なんで女の子らしい格好をしているんだ?」


「趣味です」


 具体的には、妹弟のマネキンになる趣味だ。


「そうか。趣味は自由だし、人の迷惑にならない範囲で楽しもうな」


「はい」


「同性でも下半身見せつけたらセクハラだからな。場合によっては犯罪だ。本当に気をつけろ」


「はい。気をつけます」


「見た目は可愛い女の子だからな。男子同士の距離感で接すると、間違いが起きるかもしれない。男子トイレに入る時も気をつけろ」


「そんなに可愛いですか?女の子にしか見えませんか?」


 悠里の声に喜色が滲む。妹弟の腕を褒められたようで、めちゃ嬉しい。


「説教中に喜ぶんじゃない。場を弁えろ」


「すいません。今日のメイクは妹と弟がしてくれまして……可愛いですか?」


「だから、説教中に喜ぶんじゃない。そんなに可愛いと言われるのが好きなのか?」


「いえ、普段はそこまで気にしないのですが……」


「今日は特別なのか?」


「はい。妹と弟がメイクとヘアセットをしてくれたので、可愛いと言われると妹たちが褒められたように……いえ、『感じて』は違いますね。妹たちが褒められて嬉しいんです」


「そうか」


 先生は悠里をじーっと見る。じーっと見てようやくメイクに気づく。


「ほぼスッピンじゃないか?」


「違います!しっかりメイクしてます!髪だって整えてくれたんです!」


「ふむ。綺麗に整えられているな」


「そうでしょう!」


 髪は跳ねていない。身動きする度にサラサラ揺らめいている。それを見ていると、ほつれとは無縁に思えてくる。


「ほつれることはあるのか?」


「あまり、ほつれません」


「……整えようがないだろ。整えたふりじゃないか?」


「前髪はしっかり固めてます」


「固めるのになんの意味があるんだ?」


「可愛いです」


「すまんが先生にはわからん」


 先生はスキンヘッド。いわゆるファッションハゲ。髪を使うファッションには疎い。


「後ろ髪に香水をつけてます!」


「この部屋で恋愛相談があってる時によく聞くんだが、それ、男を落とす方法じゃないか?」


「イケてる女性もやってます!」


「お前男だろ……」


「身だしなみに男女は関係ありません!」


「そうだな。すまん」


 イケてる女性、と言ったのは悠里だが、この学校の教師として、男らしさ女らしさを言ってはいけない。


 学校の方針で男女の区別を最小限にしている。


 出席番号は男女混合の名前順。集会の列は男女混合で身長順。

 制服のデザインは男女共通。

 スカートとズボンの違いはあるが、ズボンを履く女子も多い。

 そういった事情で、教師の発言に制限がかかっている。


 素直に謝らないと、立場が危うくなる可能性がある。


「先生は職員会議に行かないといけないから、もう教室に戻りなさい。でもまだ話は終わってないから、昼休みにまたここに来るように」


「わかりました」


 悠里は教室に戻る。

 醜態を晒して戻りにくいが、戻らない訳にはいかない。誇れるお兄ちゃんとして、優等生を演じないといけないから。

 もはや手遅れだが、投げ出しては挽回できない。


 気合いを入れて教室に行くと、不穏な空気になっていた。


「あ、あの子」

「え?まじで?」

「えぇーー……」


 悠里を見て、顔をしかめる生徒が多い。


 トイレの一件がクラスの全員に広められている。そう思い、肩を落として獅堂のもとに向かう。


 獅堂のポニーテールを解き、櫛で髪を梳き、三つ編みにしていく。


「首に髪がかかるのはいやなんだが」


「どうしましょう。クラスで浮いてしまいました」


「私の話を聞けよ」


「はぁ。お兄ちゃんはもうダメかもしれません」


「無視して話を続けるな」


 獅堂が抗議するが、悠里の耳には届かない。代わりに届くのは、クラス中の視線と、大きくなったざわめき。


 獅堂はざわめきに耳を傾ける。


「さっきお兄ちゃんって言ったよな。本当に男なのか?」

「っていうか、髪弄られている方は妹なのか?いや、弟?」

「え?姉妹?このクラスに同じ苗字の人、いなかったよね?」

「うん。いなかった。ということは……複雑な家庭の事情?」

「うわぁ……」


 うわぁ……面倒な勘違いされてる。獅堂は気が遠くなる。


「獅堂さん聞いてますか?聞いてないならスカート履かせますよ」


 こっちもこっちで、めんどくさい。生徒指導室で何を指導されてきたのだ。


 ほぼ何も指導されていないが、それを獅堂は知らない。


(……まあ、時間が経てば落ち着くだろう)


 獅堂は考えるのを止めて、瞑想する。面倒が追加されるのも知らずに。

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