第3話 俺にもお袋がいる

 俺にもお袋はいる。

 俺の家には俺が小さい頃からひと月に一度ほど、服の整理してくれたり、季節の衣替えをしてくれる女が来てくれた。姉さん?オバさん?年齢は分からない。どことなく日本人ではないように俺には思えた。その女は時々俺をデパートに連れて行って新しい服や靴を買ってくれた。この女が俺のお袋だと知ったのは、俺の菓子屋でのバイトが板についた頃だった。菓子屋でのバイトを斡旋したのも、その女だという。女は俺を喫茶店に連れて行き、女のほうから

「あたしが星斗くんのママなんだよ。パパには秘密にしておいてね」

 俺は嬉しさと恥ずかしさで、どうすればいいのか分からない。パパ・ママという言葉も嫌いだ。俺は親父に「パパと呼ぶな。お父さんと呼べ」と厳しく躾けられていた。パパもママもいわゆる「夜の街」の言葉だと、小学生なりに理解していたからだ。

 お袋はフィリピンパブで働く踊り子兼ホステスで、既に再婚している。俺は父親違いの、3つ年下の弟がいることも知った。

お袋は俺に服を買ってくれたが、俺が小学校へ入学する時は、ランドセルを買い忘れた。いざ小学校に通う日、俺にランドセルがないことに親父がようやく気付いた。

ついでに俺の家には学習机がない。俺用の本棚もない。服はタンスではなく、ハンガーラックと段ボール箱が俺の衣装入れだ。勉強用の—まあ、あまり勉強はしないが―折り畳み式の卓袱台が俺の机の代わりだ。

 その卓袱台を囲んで、親父とお袋が座っている。客が来たときには茶を出すという常識がない家なので、卓袱台には茶碗もペットボトルの茶もない。酒すら置いていない。2人とも真面目な顔で俺を見ている。

「今夜辺り帰って来ると思ったが、やはりそうだったか。あっはっはっ」

 親父が笑う。今夜は親父がデリヘルの定休日としている木曜日だ。道理で親父が家にいるわけだ。

「高校、サボっているんだってね」

 お袋が言う。

「そろそろ高校を中退する潮時か!」

 仕事に似合わず結構本を読んでいる親父は「潮時」なんて言葉を使う。

「あんた、ホストクラブでエスコートボーイをしない? エスコートボーイなら、ゲストの上着を預かったり荷物を運んだり、下膳をするだけだから、18歳以下でも夜10時までなら出来るよ」

 お袋まで俺に夜職を勧める。

「何で学校を3日もサボったのだ? 勉強するのがしんどくなったのかい?」

「……」

 俺は自分の気持ちを話すのがバカらしく思えた。


 俺は偏差値60の中堅自称進学校に在籍している。俺の親父は高校進学について、定時制を勧めていた。だが中学校側が、「五百蔵さんの成績なら、もっと上に進学できるでしょう? 試しにここの高校を受験したら?」

 と言われてチャレンジ受験して合格したのが、今の高校だ。

 1975年創立の高校なのに今でも新設校と呼ばれている。「新設校仕立て」と呼ばれる、1階が職員室や校長室、2階以降が一般教室、そして各階の脇に理科実験教室や図書室などの特別教室がある、1棟建ての校舎だ。校庭や運動施設も簡素で、いい所など1つもない。1つだけマシなのは、温水プールだ。厳寒期以外は利用できるのだが、その割には水泳部の活動は活発ではない。放課後には部活よりも、強制補習授業や自主参加の補習授業に、教師生徒共々力を入れていた。俺なんぞビリ尻で入学したものだから、高校の制服が出来る前から呼び出されて補習授業を受けた。

 しかし今は俺は、一切の補習授業を受けていない。夕方5時からバイトがあるためだ。もちろん学校はバイトを禁止している。

 俺は労働基準法ぎりぎりの夜10時までを中華飯店で働き、賄い飯を貰い帰宅する。俺の通う高校は宿題が多いことでも有名なので、俺は帰宅後はシャワーを浴び洗濯機を回しすぐに眠る。朝は5時過ぎに起きて、布団の中で宿題や予習復習をする。朝飯をパンの耳と安い卵で済ませ、朝はぎりぎりの時間に学校へと向かう。

 中堅自称進学校には、就職の求人票はやって来ない。全員が大学に進学することを前提に授業が進む。俺もその気になって大学へ行きたくなった。別に有名大学を出て有名企業に就職したいのではない。親がサラリーマンではないので会社勤めの生活が想像できない。

 ただ『社会保険労務士』という仕事を知り、大学で資格を取り、ゆくゆくは自分の事務所を持つことを夢見ていた。

社労士の資格の存在を知ったのは、お袋のせいもある。お袋がうつ病に一時期なっていた。うつ病発病から1年半ほどよくならなかったので、障害年金を申請すれば貰えるらしいと、お袋は誰かから聞いた。残念ながらお袋はうつ病を発病した頃には「社会保険」に加入していなかったので貰えないことが確定した。日本語の難しい部分は理解できないお袋に付き添って社労士事務所を訪れた俺は、そのとき初めて資格名を覚えた。

 俺の夢に親父は反対だった。大学へ行かせるカネがない。それが理由だった。

「コロナ禍で業界は儲からないんだ。デリヘルで働く女達はとにかくカネを欲しがっている。俺はそんな嬢を養うので精一杯なんだ。大学なんてやれねえ。……それから返済義務のある奨学金には手を出すんじゃねぇぞ。借金を返せなくて、看護師だの理学療法士だのの仕事をしながら、嬢をやっている奴が多いんだ。男は何が出来る? サラリーマンしながらホストクラブのホストか? そんなの無理だよ。最初からホストクラブで働けよ」

 親父が夜職を勧める。

 一方、高校の方では、進学が出来ないのなら、高卒公務員の試験を受けるか自衛隊へ入るかしか道はないという。そして俺にバイトを辞めて、放課後の高卒公務員試験用の強制補習授業を受けろとうるさい。とにかく俺にバイトを辞めることを厳しく言う。2年生の2学期で、いよいよ本格的に受験校を決める時期である。

 俺は行き詰った。本当は俺だって大学へ行きたい。旧帝・早慶上理・TOCKY・熊岡金広・G-MARCH・関関同立・日東駒専・近産甲流……etc。大卒の就職には「学歴フィルター」というものがある。少なくとも、G-MARCHや関関同立レベルの大学を卒業しないと、いわゆる大手400社には就職出来ない。国立大学は地方でも有力だ。俺の通う高校は、俺に学歴で他人にマウントを取ることを教えた。生徒達は血眼になって従順に勉強し、将来を考えていた。

 俺にとって高卒地方公務員なんぞ我慢出ならない仕事だった。高卒者であることで大卒公務員に見下される。俺は絶対に大学へ行きたかった。

 親父は学費がないと言う。親父の生業であるデリヘルは、カネのトラブルが多いらしい。派遣した嬢が「相手からお金を貰えなかった」と帰って来ることがザラにあるし、それどころか嬢がシャワーを浴びている間に財布の中身を客に抜き取られることすらあるそうだ。嬢にはお釣りになる、最低限のカネしか持たせていないが、それを盗まれることすらあるらしい。本当かどうか分からないが。

 そもそも風俗嬢になりたがる女はカネに困っている。いけないことと知りつつレジのカネを盗む女もいる。親父はだからいつも目を光らせカネに厳しくなっている。数年前からのコロナ禍は風俗業に厳しく、嬢になりたがる女は多いが、嬢をあえて買う客は少なくなった。親父が俺を進学させられない事情も分かる。

 学校側は俺と親父の状況を理解せず、バイトを辞めて公務員試験向けの強制補習を受けろ、バイトを辞めないのなら一切の自由参加の補習授業も受けさせないとほざく。

「家に本当におカネがないの? お父様、脱税してるんじゃないの?」

 俺は板挟みになり詰んだ。バイト先のベトナム人留学生ダット君が、俺をQ界隈に連れて行ったのはそんな時期だった。


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