深淵
Hoshimi Akari 星廻 蒼灯
深淵
僕が住んでいるアパートの近くには、大きな黒い穴が空いている場所がある。
僕のところから歩いて5分、近所にある神社からは、2分くらいの距離にある。
大きな穴といっても、その幅はマンホール3つ分くらいで、地盤沈下でできるような大穴というほどでもない。もちろん見かけ
僕も、自分がこの穴と柵の眼前の家に住んでるわけではないし、今もこれまでも、単なる好奇心以上の関心を持ったことはなかった。なので、この穴についての情報も、近所の住人から直接話を聞いた、なんてことはなく、ネットの掲示板に書いてあったことくらいしかほとんど何も知らなかった。それに加えて、少しの体験で知りえたことが一つ二つあるだけだ。
この穴は普通のものではない。
アスファルトのど真ん中に開いているというのもそうだし、地質を調査したところ、地下に空洞があって地面が崩れ落ちた、ということでもないらしい——という情報はネットに書かれていただけなので真偽のほどは定かじゃないが、一つ確かな事実は、役所がこの穴を塞ぐことは難しいと判断し、わざわざ道を通れなくしてまでも、
もう一つ、僕も自分で検証してみるまではそんなこと信じていなかったのだが、この穴は、どこか異次元みたいなとこに通じているんじゃないか、とも噂になっている。
ことわっておくが、僕は今もそんな都市伝説みたいな話は信じていない。そのうち調査が進んで、妥当な説明がされるのだろうと思ってる。けど、その説明が加えられるまでは、とりあえず異次元ってことで片付けておこうという考えに同意しているにすぎない。正直言うと、少し気味が悪くて怖いのだ。だからそういう噂が持ち上がっているなら、それに乗っかって大勢の人と一緒に適当なことを言っていた方が、気楽でいられるような気がするのだ。
異次元につながっていると言われるのは、その穴に何を落としても、落としたものが地上に戻ってくるのと、覗き込んだ先のどこに底があるのか、まったく見えないからだった。
2mの柵で囲まれる前、まだコーンだとかで囲われているだけだった時、僕も穴の底を覗いたことがある。夕方で薄暗かったせいもあるけれど、確かに底は見えなかった。穴の入り口近くの崩れたアスファルトや
落としたものが戻ってくるというのも、その時に確かめた。道端の石を放って反響音で深さを測ろうとしたのだけれど、手放した石は、10秒ほどして、ぽん、と穴から近くの道路に投げ戻された。勢いよく飛び出したわけではなく、ちょうど地面に戻すために軽く上手投げをされたような感じで、僕は自分の目を疑った。そして、〝深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている〟という言葉を思い出し、この穴の中に潜む巨大でのんきな生き物の姿を想像してしまった。3歩後ろに後ずさり、それからまた5歩後ろに後ずさった。そして巨大な、もしかすると透明な腕が、僕の体を
結局その現象が何だったのか、地下から風が吹いたのか、僕が幻覚を見ただけだったのか、それとも本当に透明な生物がいたのか分からないまま、二週間以上その穴のある通りに近づかずに僕は過ごし、二週間以上が経って好奇心が恐怖を忘れさせ、あんなのは何か気のせいだったんだと思えるようになってから再び様子を見に来たときには、この穴は周囲を一面柵で囲まれていたのだった。
ネットに書かれていたのは、僕の体験を裏付けるような何件かの事象で、落とした石が出てきたとか、不法投棄されたらしい家電製品が脇に転がっていたとか、そんな話だった。中には遺体が棄てられて穴のそばで見つかり、警察沙汰になっていたなんていう書き込みもあったが、本当のことかどうかは分からない。ただ、その件については複数の目撃者がいる風だったので、本当なのかもしれない。
僕はその遺体が、最初から生きてなかったのかということが気になった。もしかして足を滑らせた誰かが穴の中で命を落としたんじゃないのか——。なんにしても、望まぬ死を迎えた誰かがいたのかもしれない、という話をそれ以上掘り下げたくなくて、僕はその時点であの穴について調べるのをやめた。
不思議な穴が一つあろうとなかろうと、僕らの人生は何の変わりもなく続く。もしかしたらあの穴に人生の
僕はそれよりも、自分が拾って落とした石ころのことを考えた。あの石は、もしも地上に戻されなかったら、どんな目に遭っていたのだろうか。深淵のはるか下に落ちて砕け割れたか、別の次元に飛ばされたか、未知の透明な巨人の隣で日の当たらない一生を過ごすことになったのかもしれない。それは悲しい想像だった。僕は自分が文字通りその石を捨て石にしたのだと思った。石には、意識や命はないのかもしれない。だけど同じような状況で、自分が何気なく何かの生き物の視界を深淵に変えることはありえるんじゃないか——これまでも、あったんじゃないのか。
救いのない絶望は自分の心の中にある。
あの穴を比喩に使うまでもなく、それは自明のことだ。
なのに僕は、現実に現れたあの不可解な深淵について考えることで、自分の宿している暗闇について考えることから逃れようとしていた。
暗闇。暗闇。暗闇。
深い穴の底に、待っているもの。
そこには何もなく、そして、あの穴はだから、僕たちが投げかけた問いを、そっと突き返してきたのだ。
無明の闇に現実を捨てようとしても、暗闇の先にあるのは、僕たちが生きているこの日常であり、他の誰のものでもない自分の人生だったのだ。
深淵 Hoshimi Akari 星廻 蒼灯 @jan_ford
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