大陸暦1962年――小さな冒険


「良い面構えですねぇ」


 院長室に入って早々、ソファで書類を手に紅茶を飲んでいたマクレアが愉快そうに眉をあげた。


「ほんっと性格が悪いわね」


 私は言い返して、マクレアの向かいにどかっと座る。

 今朝、起きたら昨日は赤くなっていたぐらいの頬が、見事に腫れていた。

 それを人に見られるのは流石に恥ずかしいので、洗面所は朝の礼拝時間になってから行って、朝食はユイに自室へと運んでもらって食べた。

 そして午前の授業時間になり、外に見習いがいなくなったのを見計らってここにやってきたのが今だ。

 最初はユイも私と一緒にいようとしたけれど、今日は体調不良みたいなものだから授業に出るようにと説得した。授業内容をあとで教えてと言ったら、なんとかユイは納得してくれた。

 リエナが紅茶を入れてくれたので、礼をいって一口飲む。朝食時にも思ったけれど口を動かすと頬が痛い。


「魔法で治せないんだから少しは手加減しなさいよ」


 痛みの八つ当たりについ憎まれ口を叩く。


「加減がわからなくて。ここはみな良い子で叩く機会なんてありませんから」

「悪かったわね。良い子でなくて」

「全くです。近年まれに見る非行少女です」

「……そんなにここに入る子みんな聞き分けがいいわけ?」

「もちろんこれまでにも見習いが修道院から抜け出すことがなかったわけではありません。ですがそれは本当に息抜き程度です。誰もが少し街を見たら満足して戻ってきますし、最初から外が危険とわかっているときに出歩いたり、いかにもな路地に入るなどそんな愚かな行動をする子は一人もいません。孤児や壁際で育った子は危険を身近に生きてきたのもあり、危険回避能力が高いですから。まぁ、温室でぬくぬく育った殿下にそれが備わっていないのは仕方のないことかもしれませんが。だとしても少し考えればわかることではあるとは思いますけどねぇ」


 マクレアの嫌みが胸に突き刺さる。その通りだからなにも反論できない。

 嫌みが効いていることに満足したのかマクレアは書類読みに戻った。そんな彼女を窺いながら、私は昨夜のユイの言葉を思い出す。


 ――マクレア先生も殿下を本当に心配しているからこそ、手が出てしまったのではないでしょうか。


 それに対して以前の私なら『それはただユイを危険な目に合わせた私に腹が立っただけでしょ』と返していたと思う。

 でも昨夜の私はなにも言葉を返すことが出来なかった。

 それは私にもわかっていたからだ。あのように厳しく言いながらも、マクレアがユイだけでなく私のことも心配してくれていたことを。彼女の顔にもそれが表われていたことを。

 そしてそれは今までにも、そう、ビクトリアからも感じていた。でも私はそれが信じられなくてずっと見ない振りをしてきた。自分の気持ちを優先して、彼女の気持ちを蔑ろにしてきた。

 その行動によって傷つくのが私だけならばまだいい。マクレアの言う通りそれは私だけの問題で、なにかあっても自分で責任を取ればいいのだから。だけど私の行動で身近な人が傷つくのならば、こんな私を心配してくれる人がいるのならば、自分の考えを改めなければいけないだろう。

 そこまでくるともう、私一人の問題ではないのだから。


「――マクレア」

「はい?」マクレアが視線を上げてこちらを見る。

「昨日のことは反省してる。ごめんなさい」


 意表を突かれたように、マクレアが目を開いた。


「明日は雨でしょうか」

「あのねぇ、人が折角、素直に謝って」

「冗談ですよ。私こそ、強く叩いてすみませんでした」

「明日は雪でも降るんじゃない」


 私とマクレアは見合うと、同時に吹き出した。それから二人で笑う。


「今日、お菓子ないの?」


 少し離れた場所で、珍しいものでも見るかのような顔でこちらを見ていたリエナに私は言った。彼女は、はっとして答える。


「今日は治療学の授業ではありませんので用意していません」

「普段は全然、食べないのね」

「院長は甘味がお好きではないので」

「そうなんだ」私はマクレアを見る。

「甘いものはお酒に合わないですからねぇ」

「え、貴女ここでお酒を飲んでるの?」

「えぇ。泊まりのとき寝る前に」

「いやいや、子供がいる職場でお酒を飲むのは流石に駄目でしょ」

「少しだけですよ。すこーしだけ」親指と人差し指でその少しを表わす。

「量の問題じゃないわよ」

「お酒の瓶は棚の奥に見えないよう隠してはいますから」


 呆れる私にリエナが言った。


「その前に止めさせるのが先じゃない?」

「人間、時には諦めが肝心です」


 その口振りからリエナも指摘はしたらしい。そしてきっと今のようにかわされたのだろう。顔には出ていないけれど彼女も結構、苦労しているのかもしれない。いや、このマクレアの相手をいつもしているのだ。苦労していないわけがない。


「貴女も大変ね」

「ご理解いただけて助かります」

「今度マクレアのことで愚痴りたいことがあったら聞くわよ」

「ありがとうございます」


 そんな私たちのやり取りを、当事者であるマクレアは悪びれる様子もなく楽しげに見ている。

 全く……昨日、守備隊に対応していた大人の彼女はどこへやら。


「そういえば殿下」マクレアが思い出したように言った。「普通に授業をサボってらっしゃいますね」

「これ貴女にやられたって言い触らしていいのなら行くけど」私は左頬を指す。

「それは風評被害になりそうです」


 叩かれたのは事実なんだから風評被害ではないでしょう、という突っ込みを今は飲み込む。


「なら今日は許してよ。授業はあとでユイに教えてもらうから」

「レスト修道院で好き放題していた人間の言葉とは思えませんね」


 それは本当になと苦笑する。

 私はいつからこんな真面目な人間になってしまったのだろうか。


「私がサボると、ユイがうるさいから」

「あの子は静かな子ですよ」

「静かにうるさいの」


 その表現が面白かったのか、マクレアが笑った。


「ユイ。昨日、言っていましたよ。今回のことは自分にも非があると」

「ないわよ。私が心配なら付いてこいって言ったんだから」

「木登りまでさせてねぇ」

「それも話したんだ」

「はい。事細かに。登るときも塀から飛び降りるときも、心臓の鼓動が早くなったと言っていました」

「それは悪いことしたわね」


 暴漢もそうだけど、私の所為で怖い思いばかりさせてしまった。

 そのことを改めて反省していると、マクレアが「でも」と話を続けた。


「昔を思い出したとも言っていました」

「え」

「ご両親に内緒で一人、ウサギを探しにお家を抜け出したときのことを」

「あぁ」


 昨日、話していた。


「だから自分も同罪なのだと言っていました」

「……それって」


 家を抜け出した子供のユイは、どんな気持ちだっただろう。

 おそらく、ウサギに会えることを嬉しく思っていたのではないだろうか。

 小さな冒険に期待と不安が入り交じりながらも、心を弾ませていたのではないだろうか。

 そしてそのときのことを思い出すということは、昨日ユイの中に似たような心の動きがあったということだ。

 それがわかって、私は思わず頬が緩む。

 それは少なくともユイに怖い思いばかりさせたわけではないことに安堵したのもあるけれど、それよりも彼女にそのことを思い出させてあげられたのが嬉しかった。

 あの幼き冒険の記憶は、お母様の愛情が感じられたその記憶は、きっとユイにとっては苦くも大切な思い出の一つだっただろうから。

 昨夜から落ち込んでいた気持ちが軽くなるのを感じながら紅茶を飲んでいると、マクレアがふっと笑みを漏らした。そして顔を横に向ける。


「あの子も、変わってきているのかもしれませんね」

「あの子も」


 反復した私をマクレアは横目で見ると、彼女にしては柔らかい微笑みを浮かべた。


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