02

大陸暦1962年――人形の少女1


 ……誰かが、私の肩に触れている。

 私の体を、揺さぶっている。

 そう気づいて、深いところにあった意識が急激に浮上した。

 もうなに……? と思いながら重たい瞼を開ける。

 朧気な視界には、色褪せている見慣れた天井や、誰もいない向かいのベッドは映っていない。ベッドのシーツとはまた違った白が見える。カーテンのように上から垂れ下がっている白い布が。

 ……カーテン? 

 いや……違う。これは……寝間着だ。寝間着の色だ。私と同じ白い……寝間着の色。見習い全員が来ている、個性もなにもない簡素な寝間着。

 それを着ている誰かは、私のベッドの脇に立っているようだった。

 右向きに横たわってる体を少し動かし、視線を左へとあげる。

 すると淡い緑色の瞳と目が合った。


「……!」


 それで一気に目が覚めて、私は飛び起きた。

 覗き込んでいた顔が、私を避けるようにすっと上に退く。

 私はそばに立つその人を見上げた。

 彼女は――ユイは私と違って驚いた様子もなく、こちらを見下ろしている。

 その見慣れない顔を前にして、私は現状を把握した。

 ……そうか。昨日、修道院を移って二人部屋になったんだった……。

 その事実を思い出させられて、大きなため息が出る。


「おはようございます。殿下」


 そんな私のため息など気にも留めずユイは無表情で、なおかつ感情がこもっていない声で挨拶をしてきた。

 いや、実際は無表情ではない。その口端には昨日、私の目の良さを持ってしても気づかなかったけれど小さく、本当に小さく微笑みが浮かんでいる。だけど私でもよく見なければ気づかないぐらいなのだから、それはもう無表情と同じだ。

 しかも同じ無表情にしてもソルトや副院長のリエナとはまた種類が異なる。

 あの二人はなんというか……真面目さが滲み出た真顔――そう、感情ありきの無表情だ。感情が感じられる無表情なのだ。自分でもなにを言っているのかわからないけれど、そうとしか表現しようがない。

 だけどユイの顔には本当に感情というものが浮かんでいない。

 その小さな微笑みも、ただそれを顔に貼り付けているかのように見える。

 その変わりと言ってはなんだけれど、彼女の目にはこれまで私を見てきた人たちのような、腫れ物に触るようだったり蔑んだりとした負の感情は一切、浮かんでいない。その顔からも気遣いのようなものは全く見て取れない。

 それは昨日のマクレアやリエナも同じだけれど、彼女らからはなんらかの感情が見て取れる。そこから人らしさが感じられる。

 でもユイにはそれがない。

 感情が見えないから人らしさも全く感じられない。

 まるで魂のない、動くだけの人形のようだ。

 ここまでくると違和感を越えて不気味にさえ感じる。

 そんなことを考えながらじっとユイを見てしまっている私を、彼女はなにも言わず見返してくる。

 本当に表情がないので、彼女がどういうつもりでそうしているのかわからない。

 私に対してなにを感じているのか、返事を待ってそうしているのか、ただ意味もなく見返しているのかもわからない。

 なんとなく睨んでみるものの、それに動じる様子もない。

 ただ真っ直ぐに私だけを見ている。

 レスト修道院の見習いは裕福な平民だったり特権階級出身ばかりだったこともあり、無能者マドリックに差別意識を持っている子が少なくなかった。あのソフィのようにあからさまに態度に出す子は稀でも、私を自分よりも劣った存在として見てくる子は多かった。

 だから意外にも、なんの感情もぶつけられることもなく、こんなに真っ直ぐに見られたのは初めてかもしれない。その新鮮さからか、彼女に感じていた不気味さが少しは和らぐ。相手がまさに無なのもあり、不快な感情も湧いてこない。

 ……とはいえだ。この時間はいつまで続くのだろうか。

 おそらく見合って数分ほどは経ったと思うけれど、ユイは相変わらず無言でこちらを見ている。ここまできたら目を逸らしたほうが負けな気がして、私も彼女を見続ける。

 ユイとは昨日、ほとんど喋っていない。

 修道院の案内はマクレアがしてくれたし、その間ユイはずっと黙って付いてくるだけだった。部屋で二人きりになってからも必要事項ぐらいしか喋らず、なにかを訊いたとしても同じだ。

 私も昨日は新しい環境で覚えることがあったのもあり、ユイのことを気にする余裕はなかった。こうしてまともに顔を見るのだって、初対面のとき以来だ。

 だから今さらながらに気づいた。

 ユイの容姿がかなり、いいことに。

 レスト修道院にも貴族や神家しんけのお嬢様がいたこともあり、容姿が整っている見習いはそれなりにいた。

 けれどユイはその比ではない。

 黄金比とも言えるぐらいに均等が取れた顔立ちにきめ細やかな白い肌、そして絹のような真っ直ぐで淡い金髪に透きとおるような淡く緑色の瞳。

 私が彼女を人形のように感じるのはその完璧とも言える容姿が原因にあるのかもしれない。家にも精巧に作られた美しい人形はあったから。

 でも変な話だけれど、その人形よりも彼女のほうが人形らしい気がする。

 だって人形は笑っているけれど、彼女は笑っていないから。

 たとえ小さく微笑んでいたとしても、それは作り物のようだから。

 そう思うと、なんだかもったいない気がした。

 魂がない人形ですらも笑えば可愛いのだ。

 それなのに魂がある彼女がそれをしないなんて。

 彼女だって笑えばきっと――。

 そこまで思って、私は心の中で頭を振った。

 もったいない?

 笑えばきっと?

 いったいなにを考えてるんだ私は。

 無意識にそんなことを思った自分が恥ずかしくて、それを頭の中から必死に振り払う。するとふいに既視感に襲われた。

 …………あれ?

 この顔……どこかで見たことがあるような……。

 いったい……いつのことだっただろうか……――。


「殿下。起きてらっしゃいますか」


 ユイの声にはっとして、私は反射的に「起きてる」と早口で返した。すると彼女は小さくうなずいて、ベッドから離れる。それから机の前に行き、着替えを始めた。

 ……もしかして、寝ぼけていると思われていたのだろうか。それで目が覚めるまで待っていたとか。

 首を傾げながら私もベッドから足を下ろす。そして机の椅子にかけている修道着を取ろうと思って動きが固まった。ユイの素肌が見えたからだ。

 私は思わず視線を逸らす。今まで一人部屋だったのもあり、こういう状況には慣れていない。いや、最初の一年はソフィと同室だったけれど、彼女はいつも私が起きる前には着替えを済ましていた。だからこうして誰かと着替えを共にするのは本当に初めてのことになる。

 なぜか変に緊張を覚えながら、私はなるべくユイを見ないように修道着を取った。


「邪魔でしたね。すみません」


 全くすまなさそうにそう言ってきたユイに「別に」と答えてから、ベット近くで彼女に背を向ける。家でも着替えは侍女に手伝ってもらっていたこともあり、人に着替えを見られることに関してはなんとも思わない。だけど人の着替えを見るのには慣れていないのもあって、なんだかこちらが気恥ずかしい。

 一人がどれだけ気楽だったのかを思い知らされながらさっさと着替えを終わらせると、洗面道具を持って自室を出た。それから洗面所へと向かう。施設の場所は昨日マクレアに案内してもらったときに全部、頭に入っている。

 魔灯まとうに照らされた通路を一人歩いていると、少しして後ろから足音が聞こえてきた。小走りに近づいてきたそれは自分の後ろで止まる。

 振り返るとユイがいた。なにも言わずこちらに付いてきている。まぁ、洗面所は一つしかないので付いてきざるえないのだろうけれど。

 背後の足音にどことなく居心地の悪さを感じながら進み、やがて洗面所へと辿り着いた。

 洗面所の外には見習いの姿はなかった。……そういえば、今さらだけどいつもより外が暗い気がする。もしかして起床時間より早く起こされたのではないだろうか。いや、だろうかではない。ここに来るまで全く見習いを見かけなかったことからするに、確実にそうだ。

 それに気づいて睡眠時間が削られた腹いせにユイを睨む。だけど彼女は無表情で見返すばかりで、不愉快どころか頭に疑問符さえも浮かんでいない。

 張り合いのなさにため息が出ながら、扉を開けて洗面所の中へと入る。

 中には三人の見習いがいた。見た目からしておそらく上の見習いだろう。

 私のことは昨日、夕食のときにマクレアが紹介していたので顔合わせは済んでいる。


「おはようございます。イルセルナ殿下。レシェントさん」


 一番上の子らしい見習いが先がけて挨拶し、ほかの見習いもそれに続く。

 その反応はレスト修道院の見習いと同じようで少し、違う。まだ私がどんな人間かがはっきりとわかっていないからだろう。その表情には悪い感情は浮かんでおらず、気遣いよりも物珍しさが強く滲み出ている。

 それだけでなく遠慮がちに見てくることが多かったレスト修道院の見習いとは違い、ここの見習いは少し無遠慮さが感じられる。おそらくそれは育ちの違いによるものではないかと思う。昨日のマクレアの話によれば、ここにいるのは貧しい家庭や孤児の子ばかりらしいから。


「おはよ」


 軽く返しつつ洗面台に立つと、後ろからユイが挨拶している声が聞こえた。私も人のことは言えないけれど、彼女の無感情な挨拶もなかなかのものだ。それに思わず笑いそうになって、慌てて口を引き締める。

 人が増える前にと、洗顔と歯みがきを手早く済ませて早々に洗面所を出た。それから自室に洗面道具を置いてまたすぐに出る。向かうのは朝の礼拝が行なわれる礼拝堂だ。

 ……別に新しいところに移ったからといって真面目になったわけではない。

 昨日の今日でサボるとマクレアがうるさそうな気がしたからだ。

 マクレアのことは表情から感情が読み取れないこともあり、まだどういう人なのかは計りかねている。だけど昨日の印象からして、ビクトリアと同じく声を荒げて怒るタイプではなさそうではある。ただその代わりに、ねちねちと嫌みったらしく説教をしてきそうな感じはする。

 流石に初日からそれをされると面倒なので、今日までぐらいは参加することにした。決して昨日、マクレアが少しだけ見せた顔が頭をよぎって背筋に寒気が走ったとかでは断じて、ない。

 ユイは相変わらず私の後ろに付いてきている。少し足を速めたら彼女も早める。

 洗面所にいるときも横からじっとこちらを見ていたし、こうしてずっと付いてくるし、なんだか監視されているような気分だ。いや、ようなではなくて本当にそうなのでは。マクレアは監視役としてユイを私の世話役にしたのでは。そして私の言動を逐一報告などして……。

 歩きながら肩越しに振り返る。こちらを見ていたユイと目が合う。何秒か無言で見合ったあと私は前を向いた。

 ……考えすぎか。確かに昨日の二人の様子からして、ユイはマクレアに忠実そうな雰囲気はあった。けれどマクレアが監視役までつけて人の言動を細かく把握したがるような人間には見えない。そう決めつけるほど彼女のことはよくわかっていないけれど、なんとなく、そんな感じがする。

 後ろが気になりながらも歩いて、礼拝堂に着いた。

 礼拝堂は以前いたレスト修道院と特に代わり映えはない。こちらのほうが少し大きくて広くはあるけれど、内装も似たような感じだ。だけどその中に一つだけ、レスト修道院にはなかったものがある。

 祭壇横のピアノだ。ピアノ自体はレスト修道院にもあったけれど、ここにはアップライトピアノではなく立派なグランドピアノが置かれている。昨日、案内してもらったときにそれを見たときは久しぶりに心が躍るのを感じた。

 まだ誰もいない礼拝堂を見ながらレスト修道院のときと同じく左側、一番後ろの長椅子――礼拝席の左端に向かう。そしてそこに座ると当然の如くとでもいうようにユイが隣に座ってきた。それからなにを言うでもなく横から私の顔をじっと見てくる。……落ち着かない。

 次々と集まってくる見習いからも物珍しげに見られながら待っていると、広い礼拝堂がそれなりに埋まった。昨日の夕食のときにも思ったけれど、ここはレスト修道院よりも見習いと先生が多い。泊まりや早出の先生以外は朝の礼拝にいないことを考えると、まだ人数はいそうだ。先生が多いのは見習いの数に合わせてと、治療学も教えているからだろうか。

 ほぼ最後に礼拝堂に入ってきたマクレアが朝の挨拶をして、そのあとに賛美歌――星歌せいかの歌唱が始まった。

 レスト修道院のようにピアノの伴奏はない。昨夜の礼拝はたまたま弾ける先生がいなかったのかと思っていたのだけれど、どうやらここではそれが普通らしい。あんなに立派なグランドピアノがあるのに弾ける人間がいないなんて、なんだかもったいない。

 私はもちろん口だけ動かして歌わない。そして何気なく横目で隣を見ると、ユイも口を動かしているけれど声は出していないようだった。昨夜は彼女のことを気にする余裕がなかったので気づかなかったけれど、まさか私の真似をしているのだろうか。そうだとしたらちょっと苛つく。

 ピアノの音色もないのならば本当に礼拝に参加する意味がないなと思いつつ、なんとか退屈なその時間を耐えきり、朝食の時間になった。


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