大陸暦1962年――不安の夜
それから話題を変えて雑談をしていると、あっという間に一時間が経過していた。
「ルナ。そろそろ帰らないと」
「そうね」
リリルにそう言われて気持ちが重くなりながらも、私は席を立つ。
「ごちそうさまマスター」
「あぁ」マスターがこちらを見てうなずく。
三人もそれぞれマスターに挨拶をしてから、お店を出る私に付いてきた。
「いつも悪いわね」
修道院に帰るときはいつも三人が送ってくれている。
そのことに関して『お前に恩を売ってたらなんか返ってくるかもしれないしな』とか『酔い覚ましのついでだ』とか、リリルに至っては普通に『この時間帯は女の子一人では危ないから』と言ってはいるけれど、それが親切からくる行動なのは私もわかっている。そうでもなければここから一時間近くもかかる修道院まで、わざわざ送ってくれたりはしないだろう。
「気にしないで」リリルが微笑んで言った。「来るときもほかの道を通っては駄目よ」
「わかってるって」
これまで何度も言われた忠告を軽く返す。
「いやマジで気をつけろよルナ」
そんな私にシンは珍しく真剣な表情を浮かべて言った。
「最近は、ていうほど最近じゃねえかもだけど、物騒な事件が多いからな」
「そうなの?」
「そうなのって……まぁ、修道院で暮らしてたら知らないか」
「新聞は読まないの?」リリルが訊いてくる。
「読まない。見たくない顔を見ちゃいそうだから」
それが誰と言わなくても三人にはちゃんと伝わる。その証拠に三人は納得するような反応をそれぞれ見せた。
「別に親父さんを見たら見たでよ、
シンは握りこぶしを作って、殴る仕草をする。
「私、物に当たるのは好きじゃないわ」
「いやいや、なんでそこは真面目なんだよ」
「俺らと違って育ちがいいからだ」卑屈を含まない声音で、ソルトが言った。
「はいはい。どうせ俺は育ちが悪いですよーだ」
シンが口を尖らして拗ねる。もちろん二人が冗談でやっているのはわかっているので、私はリリルと顔を合わせて笑う。
「そういう三人は新聞を読んでるの?」
私の問いにソルトが「あぁ」とうなずいた。
「三人で順番に買って回し読みをしている」
「そうか。隣同士だものね」
三人は一緒のアパートに住んでいる。シンとソルトが節約のために一室を共有していて、その隣の部屋にリリルが住んでいるらしい。
「朝飯もだいたい一緒に食うし、そのときに読んだりしてるぜ」とシン。
「なんか楽しそう」
「楽しいぜ」シンが笑う。「ルナも卒院したら同じところに住めよ」
「部屋、空いてるの?」
「なければリリルと住めばいいじゃん」
「いいじゃんってそう簡単に、ねぇ?」リリルを見る。
「狭くてよければ私は全然、構わないけれど」
「んー狭いのは嫌だなあ」
「正直だなおい」
シンの突っ込みにリリルが笑う。
「だって修道院の部屋が本当に狭いんだもの」
「んじゃ広い部屋に住みたいなら、稼げるようにならないとな」
「稼げるように、ね」
やりたいことを捜せと言われたときと同じ気持ちになって、思わず苦笑する。
「それで新聞なんだけど」リリルが話を戻した。「そんなに貴女のお父さんが載ってるって感じはしないけれど」
「そうなの」
「うん。ね? ソルト」
ソルトが「あぁ」とうなずく。
「だからルナも今度、少し読んでみない? 修道院の外のことや外国のことが知れて結構、面白いよ」
「んー……まぁ、リリルがそう言うのなら考えとく」
「お前、リリルには素直だよな」
ししし、と笑いながらからかうように見てくるシンを「うるさいな」とはねのける。
「だいたい物騒って言うけれど、貴方たちは帰り道、大丈夫なの」
本当に今さらだけれど。
「俺たちにはこれがあるからな」
シンは得意げに左腰に下げた剣の柄に手を乗せた。彼の『俺たち』という言葉通り、それを持っているのはシンだけではない。リリルもソルトも形や長さは違えど、腰に剣を下げている。
今すれ違う人たちを見ればわかることだけれど、一般市民で剣を携帯している人はそう多くはない。今この歓楽街で確認できるだけでも三人ぐらいだ。ここは観光客とか冒険者が来るような場所ではないので、おそらく仕事帰りの軍人とかそんな感じだろう。あとは護身用や雑務用に短剣を下げている人が少しいるぐらいか。その中で三人が立派な武器を携えているのは仕事に必要だからだ。
三人は日頃からマスターのところに持ち込まれた依頼を受けて生活している。職業的には何でも屋と言うらしい。それにはネズミ退治など簡単めなものから、誰かの用心棒など危険なものもあるらしく、そのために剣は手放せないのだとか。
「たとえ襲われても返り討ちにしてやるよ」
「そんなに腕が良いわけ?」
「俺に剣を教えてくれた人はもう教えることないって言ってくれたぜ。だから心配ご無用さ」
「別にシンの心配はしてないけど」
「しろよ……!」
嘆くシンにソルトがぼそりと「声が大きい」と突っ込み、それに私とリリルが笑う。
「リリルは二人と違って女の子なんだから、気をつけてね」
「もう女の子って歳でもないけど」少し気恥ずかしそうにリリルが笑う。「でもありがとう」
そうしてついのんびり話しながら歩いていたら、修道院についたころには少し消灯時間を過ぎていた。
「んじゃまたな」
「おやすみルナ」
「おやすみ」
修道院正門の手前で三人が手を振って見送ってくれる。
「ありがとう。またね」
三人に手を振り返してから正門に近づくと、そこにいた衛兵が私を見て苦笑を浮かべた。大概、夜の門番はこの衛兵なので彼とはある意味、よく見知っている。
「お帰りなさいませ。院長先生がお待ちですよ」
その言葉を聞いて、先程までの楽しい気持ちが一気に重くなった。でも無視して泣かれても困るので、重い足取りで院長室に行く。
扉を叩いてすぐに開けると、執務机に向かっていたビクトリアが勢いよく椅子から立ち上がった。それからパタパタと忙しなくこちらに近寄ってくる。
「殿下。ご無事だったのですね」
ビクトリアは胸の前で手を組んで、大きく安堵の息を吐いた。まるで死地から戻ってきた兵士を出迎えたぐらいの反応だ。いや、そんなの見たことないから知らないけど。
「大げさね。いつものところに行ってただけよ」
「行かれるときはせめてお声がけしてくださいと、何度も申し上げているではありませんか」
「言ったら止めようとするじゃない」
「当然です。いくら帰りに送ってくださるとはいえ、なにがあるかわかりませんから」
なにがあるかわからない――その言葉になぜか私は酷く苛立ちを感じた。
「なにがってなによ」
「それは……殿下に危害を加えたり、誘拐するような人が――」
ビクトリアがそれを言い切る前に、私は思わず鼻で笑った。
「誘拐? 私を?」
「この
「へぇ、それでそいつらは私を人質にしてどうするつもり? 私を盾にして
そこまで言って私は自分で言ったことを笑い飛ばした。
「そんなことあるわけないでしょ。私にはなんの価値もないのに」
なにかを言いかけたビクトリアを私は「それに」と制す。
「もしなにかあったとしても、お父様には都合がいいんじゃない? たとえ要求を飲まず私が死んだとしても、そいつらの所為になるのだから」
それを聞いてビクトリアの顔がさっと青ざめた。
「なんてことを仰るのですか」
「だってそうでしょう? 近くに置いておきたくないぐらいに私を疎ましく思ってるんだから。私がいなくなったほうがお父様も喜ぶわよ」
「そんなことはありません。
「話は終わり。疲れたからお風呂に入って寝るわ」
「殿下……!」
悲痛とも言えるビクトリアの声を遮断するように私は院長室の扉を閉めた。
夜の通路を早足で歩きながら唇を噛みしめる。
高ぶる感情を、どこから湧いてくるのかわからない憤りを、そうして押さえ込む。
ビクトリアが悪いのだ。私を苛立たせるようなことを言うから。
そう心の中で自分に言い聞かせながら、罪悪感を振り払う。
通り過ぎる部屋は全て明かりが消えていた。消灯時間が過ぎているからだ。でもその中で一つだけ明かりがついている。私の部屋だ。ビクトリアが点けておいてくれたのだろう。
……彼女は今日、泊まりの当番ではない。本当ならもうとっくに帰宅している時間だ。それなのにまだ残っているのは私の帰りを待っていたからだ。きっと落ち着かない気持ちでずっと、仕事をしながら私を待っていたのだろう。その姿を想像して胸が締め付けられそうになったけれど、すぐに頭を振ってそれを振り払った。
着替えを持って風呂場に行く。風呂場は見習い用の大浴場と、先生や職員用の個人風呂がある。私はここに来てからずっと個人用を使っている。最初はここの生活に馴染めない私にビクトリアがそう勧めてきたのだけれど、ここの生活に慣れてきてからもここを使い続けている。
それは見習いと一緒よりは一人のほうが気が楽なのもあったけれど、それよりも人の形をした人ならざるものとさえ称される無能者の体を珍獣のように見られることが嫌だった。服を着ているときでもそうなのだから、裸にでもなろうものならもっと酷くなるに決まっている。
私はささっとお風呂を済ませると部屋に戻った。それからすぐに寝床に入る。横向きに寝てシーツを頭まで被る。するとほどなくして軽く扉が二回、叩かれた。当直の先生が明かりを消しにきたのだ。シーツにもぐっているからその姿は見えないけれど、足音と扉を叩く感覚でビクトリアでないことはわかる。当直の先生は
足音が離れるのを確認してから、私はシーツから頭を出して仰向けに寝た。
そして薄闇の天井を見ながら今日のことを思い返す。
……ここに入ったときはずっと、帰りたいと思っていた。
でもそれを諦めたとき、帰るから早く卒院したいに気持ちが変わった。
早く束縛された生活から解放されたいと。
だけど今日の会話で、自分が先のことをなにも考えていないことに気づいた。
情けないことに、私は今の今までそのことを真面目に考えたことがなかったのだ。
そんな自分に呆れるようにはぁ、とため息が出る。
修道女にはなりたくない。
家にも帰りたくない。
それなら私はどうしたいのだろう。
なにがしたいのだろう。
リリルはその気になればなんだって出来ると言ってくれたけれど。
人の力を借りなければ明かりもつけられない私に、いったいなにができるのだろう。
なにも生まれ持たなかった、空っぽの私に。
なにも生み出すことができず、なにも残すことができない、無能者の私に。
漠然とした不安の中、私は眠りに落ちていた。
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