第7話
美和子先輩が夢の内容を誰かに伝えない限り、悪夢が彼女の中で留まってしまう。だが、そうすると、彼女の次に悪夢を見る人間は、更に酷い悪夢に魘されることになる。美和子先輩を悩ませている原因は分かったが、今回のような呪いは、時影兄様も私も全く初めてだ。強引な解呪を施すと、それが呪いを受けた者、受けている者にどう影響するのかが分からない以上、具体的な救済の手立てがないという、なんとも言えない後味の悪さを残して、その日は解散となった。
家に戻ると、本堂から父の読経の声が聞こえた。桜田邸を辞した後、時影兄様と次の手立てについて相談している間に、完全に夕刻の勤行が始まる時刻をまわっていたようだ。慌てて、本堂に向かい、お勤めの邪魔をしないように、後ろにいた兄の隣で正座をして、二人の声に合わせて経を読んだ。子供の頃から何千回と繰り返してきたルーティンに、心が落ち着きを取り戻し、凪いでいくのが分かる。
「それで、桜田ベーカリーのお嬢さんは大丈夫だったのかな」
お勤めが終わった途端、父が、遅れてきた私を咎めることもなく、いきなり美和子先輩のことを訊ねたので驚いた。
「ご存知でしたか」
「瑞祥の君が、嘉承の大姫の伝言を届けてくれてね」
瑞祥の君というのは、元茶道部部長の瑞祥彰人先輩のことで、水と土の魔力を持っている先輩は、瑞祥を名乗り、頼子姫は紛うことのない火の姫なので嘉承だが、二人は実の兄妹だ。両家は、嘉承家の特殊事情で、昔から共用部分で繋がっているので、頼子姫は、苗字は違えど、瑞祥家の当主である母親と、兄と双子の弟たちと一緒に暮らしている。姫が家に帰って嘉承公爵に事情を説明したと言っていたから、その時に、瑞祥先輩に、我が家への伝言を頼んでくれたのだろう。
「瑞祥家の皆さんは、相変わらず、ハンザキがお好きなようで、今日の伝言も、ハンザキの土人形だったよ」
土の魔力持ちの中には、東久迩響子のように、土人形を作って、式のように使う連中がいる。だいたいは、響子のように小さい人形を作って伝言を届ける程度だが、瑞祥先輩のような高位の魔力持ちになると、魔力を遠方に飛ばして、その地の土を使って人形を作り伝言をするという人間離れしたことを平然とやってのける。
瑞祥家の人間は、何故か、昔から、この伝言用の土人形に、西都ではハンザキと呼ばれるオオサンショウウオを模したものを使うことが多い。そして、彼らの作った土人形は、その魔力保有量と制御力にものを言わせた本物にしか見えない代物のため、はっきり言って、めちゃくちゃ気色悪いものだったりする。両生類の独特なぬるっとした皮膚感を見事に再現したそれが、大きな口をぱかりと開け、瑞祥先輩の上品な声で話かけてくると、違和感を通り越して恐怖でしかない。
父の顔を見るに、今回も、また、あの美しい瑞祥彰人先輩は、見事なまでに気色悪いハンザキを寄越してきたようだ。
「ハンザキが、薫が河童の呪いを探りに桜田ベーカリーのお嬢さんを家まで送るので、少し帰宅が遅れるかもしれませんって言うんだよ。何なの、いったい?」
どうやら兄も、その場にいたらしく、父と同じように苦笑していた。
「伝言の内容が内容だけに、いつも以上に気持ちが悪かったね。瑞祥公爵家は、都の公家文化の風雅と優美の頂点にある一族だと言われているのに、あのご趣味は何なんだろうね」
私も、何度か瑞祥先輩にハンザキの伝言人形を送られたことがあるので、父に激しく同意する。そして、三人で笑いあったあと、今日の出来事を父と兄に説明した。二人は私の話を静かに聞いてくれていたが、呪いの伝染というところで、兄は信じられないというように瞠目したが、父は何か心当たりがあるのか、考え込むように腕を組んで目を瞑ってしまった。そして、そのまま父は、考え事に耽ってしまったので、兄と私は、父を残して本堂を出るわけにもいかず、すっかりと日が暮れて、気温が下がり寒くなっていく中、一緒に、ただただ父を待つことになってしまった。
全く無関係の兄には、申し訳ない限りだが、気の良い兄は、むっとすることもなく、私と一緒に静かに正座をしたまま、父を待ってくれた。兄は、いつも優しくて、面倒見が良く、私よりはるかにこの寺を継ぐにふさわしい器をもった人だが、本人は、「私は薫と違って、魔力も霊力も、そんなにないし。何より、運動神経がないからねぇ」と笑う。兄が褒めてくれる私の魔力だが、あの頼子姫の魔力を間近で感じた後では、豆粒ほどの保有量にしか思えない。それまでに、あの姫の魔力は凄まじかった。
「薫、ちょっと探し物を手伝ってくれ」
突然、そう言うと、父が静かに立ち上がった。そのまま、すたすたと蔵の方に向かって歩き出したので、慌てて後を追った。日が沈むと、山の中にある寺の境内は真っ暗になるが、私にはあまり関係がない。父は見える人で、視える人でもあるので、日中と同じように、暗闇の中を歩ける。
大きな蔵の前に立つと、父が「誰か扉を開けてくれないかな」と暗闇に向かって話しかけた。
「はーい」
すぐに子供のような高い声が聞こえ、小僧が数人現れたかと思うと「よいしょ、よいしょ」と言いながら、蔵の大きくて重い扉を開けてくれた。
「貫主さまー、開きましたよー。これでー、いいですかー」
不思議な間延びした声は、最近、寺に棲み始めた妖の兄弟のものだ。
「ありがとうございます。君たちは働き者なので、いつも助かってますよ」
父がお礼を言うと、嬉しそうな雰囲気が漂い、そして、ふわりと消えた。
「薫、その辺にスイッチがあるから点けてくれ」
父に言われて、壁伝いにスイッチを探す。私は問題はないが、父はやはり灯りがいるらしい。ぺたぺたと壁を触っていると、ちりーんちりーんと鈴のような音が聞こえ、音のする方から、巨大な力が渦を巻いて現れた。妖力だ。
「薫!」
父の声のした方に急いで移動すると、父が自分の後ろに私を庇う様に立った。
「いやですねぇ。敵じゃありませんよ。貫主、その物騒なものは下げてくださいな」
不思議な男とも女とも分からない声が闇の奥から聞こえてきたかと思うと、白い狐が宙帰りをして、ふわりと降りてきた。天狐だ。
「おや、節美の御使い様でしたか。これは、とんだ失礼を」
父が、いつものおっとりとした口調で言いながら頭を下げ、手にしていた錫杖を消した。うちの寺に伝わる錫杖は、出したり、消したり、長さや形を自在に変えることが出来る不思議なもので、意志があるモノ、俗にいう付喪神だ。主人を選んで、ある日突然現れるので、何本実在するのか誰も知らない。
目の前に現れた狐が、くふりと笑うと、音も立てずに、白い狐火がいくつも灯り、蔵の中も外も明るくなったのが分かった。
「今回は、人の子のことなので、喜代水案件で頼む、とのことです。よろしくお願いしますねぇ。喜代水案件ですけど、とはいえ、うちも全く無関係というわけではないので、私の方からは、喜代水の末の子に、これを貸して差し上げましょう」
そう言うと、天狐が、父の後ろに隠れていた私に、何か得体のしれない茶色いものを押し付けて来た。思わず受け取ってしまったが、何だ、これ。
「御使い様、これは?ぬいぐるみですか」
「狸のポン子ちゃんです。私が作ったんですよ」
そう言うと、白い狐が、また、くふりと笑った。
「おや、愛嬌があって可愛らしい。御使い様は器用なんですねぇ」
父がおっとりと言うと、狐が、くふりくふりと楽しそうに笑う。
「ありがとうございます。では、そういうことで、私はこれで」
ぺこりと礼儀正しくお辞儀をしたかと思うと、天狐が、その姿も気配も、すっと消してしまった。手の中のぬいぐるみがないと夢だったのかと思うくらいだ。これが、世に言う狐に化かされるということなのかと実感した。
「そういうことって、何が、どういうことなのか、さっぱり分からないんですが」
「私達と違う理の中におられる方々のお考えは、人智の及ばないところにあるからね。私達に分かるはずがないよ」
確かにそうなんだろう。考えても分からないことを考えるのは時間の無駄だな。
天狐の出してくれた狐火で、ちゃっかりと電灯のスイッチの場所を確認できた父が、直ぐに灯りをつけて、蔵の中にいくつもある本棚の間を入って行ったので、私も気持ちを切り替えて、父の後を追うことにする。
父の記憶によると、昔、祖父のところに、呪いの伝染について相談に来た人がいたそうだ。父が子供のころの話なので、思い違いがあるかもしれないから、念のため記録を調べて、どういう類の呪いだったのか、確認したいらしい。この古い寺には、古文書や、歴代の貫主の残した記録は、何千冊もある。年代別に分けて保管されてはいるものの、何年頃の話か定かではないため、祖父が残した記録を全て調べなくてはならないようだ。冊数にして、軽く200は超えているそうだ。帰宅早々に、夕刻のお勤めで、これは、なかなかに辛いものがある。まだ制服も着替えていないというのに。
諦めて、父と祖父の残した膨大な記録を調べていると、兄がやってきた。
「薫、お腹がすいているだろう。おにぎりを作って来たよ」
兄が、大きめの俵おにぎりと玉子焼きが乗った皿を、私の手をとってから渡してくれた。兄は、小さい頃から、いつもこうやって、私の手を握ってから、何かを渡してくれる。そんな兄が、同じようにさりげなく気を使ってくれる美和子先輩を思い出させた。
「そうだ、美和子先輩と桜田のおばさんが、これをお土産にって」
すっかり忘れていたが、桜田邸の玄関で、勝野さんが、桜田夫人に言われて、いくつもパンの入った袋を私達四人に「うちは、パンだけは売るほどあるんですよ」と言って渡してくれた。その袋を兄に渡すと、兄が袋の中を覗き込んだ。
「懐かしいね。お父さん、桜田ベーカリーのパン、覚えていますか」
兄が父に声を掛けると、父が顔を上げた。
「ああ、お母さんが、毎週、いっぱい買っていたねぇ。夕霧、いくつか仏壇にお供えしておいてくれるかな」
私と兄と三人で、毎週土曜日にパンを買って帰るのを楽しみにしていた母は、私が小学校を卒業する前に亡くなってしまった。それ以来、我が家の食卓に、桜田ベーカリーのパンが上がることはなかった。
「兄さん、桜の塩漬けの乗った小ぶりのあんぱん、入ってますか」
「うん。桜田のおばさん、覚えていてくれたんだね」
兄がそう言うと、袋の中身を私と父に見せてくれた。中には、母が好きだった小ぶりのあんぱんが8つ、カレーパンが2つ、小エビのエピ、チョコレートのマーブル模様の山型パンと、大きなグローブのような形のクルミパンが、一つずつ入っていた。いつも母が買っていたパンと数量だ。
「お父さん、久しぶりに小エビのパン、召し上がりませんか。紅茶をいれてきますから」
兄が父に尋ねた。
「そうだね。久しぶりに頂こうか」
小エビのエピは、父が好きで、母が毎週、父のために買っていたパンだ。
「薫も、おにぎりよりもパンの方がいい?」
「私は、兄さんのおにぎりの方がいいです」
母が亡くなってから、兄が家事を引き受け、こうやって父と私の面倒をみてくれている。兄は、家事と勉強の両立で、部活を止めてしまったが、私は、兄の勧めで茶道を続けさせてもらっている。将来、寺を継ぐ私に茶道の心得がないと、西都の公家との付き合いが難しいからと兄が言うので、茶道だけは続けたい。ここで、廃部になるのはきつい。
兄が、父と自分の分の紅茶を持って、蔵に戻ってきたので、父と兄はパンを、私はおにぎりを食べた。
「昔の記録に、呪いの伝染のことが載っているんですか」
兄が父に尋ねると、父が頷いた。
「昔と言っても、それほど昔じゃないけどね。私のおじいさんのところに、そんな話をしに来た人がいたように思うんだよ。ものすごい恨みを持った人が、闇落ちする前に、魔力を使って悪さをしていたような話だったように記憶している。さっき、節美の御使い様が、お見えになって、今回は、喜代水案件だから、そっちでお願いしますと言われたから、桜田のお嬢さんの件は、妖ではなく、人の恨みのようなものが根底にあるというのは間違いないんじゃないかな」
まだ訳の分からないことだらけだが、これでいよいよ河童の呪いではないというのだけは明確になった。ほらみろ。
「ああ、そうだ。薫、北条侯爵家から、数珠を頂いたんだって?」
父と兄の話を聞きながら、おにぎりと玉子焼きを食べていた私に、父が尋ねた。すっかり忘れていただが、紅玉の長数珠など、どれほど高価なものか。父に報告をして、先方にお礼状を用意して頂かないと。
「そうなんです。すみません、報告が遅れました。時影兄様が持って来てくれたんですが・・・」
そう言って、制服のブレザーのポケットにしまい込んでいた数珠を取り出して、父と兄に見せようと取り出した。
「えーと、薫、それは何かな」
長くて赤い美しい数珠の先端には、東久迩響子の土の蛇がぶら下がり、ガジガジと紅玉をしがんでいた。
東久迩響子は、やっぱり昔から質が悪い。そして、その土の魔力は更にロクでもない。
思わずため息をついた私の横で、狸のポン子ちゃんが、くふりと笑ったように視えた。
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