3.神速の老婆
◆
両手で柄を握り、断罪は中段に刀を構えた。
その剣先は真っ直ぐに老婆の方向を向いている。
正眼の構え――本来ならば、敵対者の目のある位置にその剣先は向くのだが、老婆の体躯が小柄であり、その小柄な体躯をさらに猿のように前方向に傾けているので、剣先は老婆の頭上に向いていた。
同じ位置に構え続ければ、肉体かあるいは精神に震えが生じて、その切っ先がぶれるものであるが、構えられた刀は僅かにも動くことはなく、断罪の視線と共にひたすらに真っ直ぐに伸びている。
「……さて、老婆よ。十数時間前に
老婆と断罪の距離は十メートルほど、互いが互いの間合いを大きく離れている。断罪の方から近づくか、あるいは老婆の攻撃を待つか。断罪の選択は前者であった。老婆に言葉を投げかけながら、その身体は歩行に伴う姿勢の変化を一切見せないまま、前に進んでいる。
「……ぐふふ」
老婆がくぐもった声で笑った。
発声した音は明瞭ではなかったが、その笑いの中には誰が聞いてもわかるような嘲りのそれがある。
「若者よ……
「ほう?」
「
「トイレにいそうな神様でござるなぁ……」
屍山血川の呟きを二人は意に介さない。
「成程、それだけ聞けば十ぶ――」
断罪が最後の文字を置き去りにして加速する。
その速さは常人の目には留まらなかったであろう。
獣が一度の跳躍で獲物をその爪の中に抑えるかのように、振り下ろされた断罪の刀は老婆の頭部を捉えていた。
「――んだッ!」
言葉が身体に遅れて、老婆の鼓膜を揺らした。
殺戮刑事――その体捌きは人間の域を遥かに超えている。
だが、老婆の動きもまた、人間のそれではなかった。
「甘いわッ!」
断罪の刀が老婆の頭部を二つに裂いた。だが、切った感触がない。老婆の姿は朧であった。瞬間、断罪は背に走る刺すような痛みに気づいた。
「断罪殿、残像でござるッ!」
殺戮刑事、断罪乱の疾さは目にも留まらぬそれであったが、老婆の疾さはそれを遥かに凌駕していた。
断罪が迫るや否や、神速で断罪の背後に迫り、その背に前蹴りを見舞っていたのである。
屍山血川の声よりも僅かに早く、断罪の身体は動いていた。
痛みに身体を止めること無く、振り返り、突く。
「
刀の先に既に老婆の姿はなかった。
猿のように身軽に後退し、再び断罪との距離を取っている。
「チイッ!」
断罪は舌打ちをし、背を撫ぜた。
その手が赤い血で濡れている。傷が浅いのは断罪の反応が速く、その蹴りが体内の奥深くに突き刺さる前に、姿勢を動かすことが出来たからか。
「ぐふふ……だから言ったじゃろう……災いが起きると……じゃが、己の過ちをきついたときにはもう遅いッ!!
言葉と共に老婆の姿が揺らめいて、消えた。
残像を残すほどの異常速度はまさしく、神の速さとしか言いようがないだろう。
断罪の全身を老婆の蹴りが刺し続ける。
反撃に移ろうとすれば、その瞬間に老婆が距離を取る。
「ぐっ!」「おっ!」「がっ!」「ごっ!」
全身を蜂の巣のようにしながら、断罪は老婆の蹴りを致命傷にならない僅か手前で避け続ける。
だが、これは断罪の意図したものか。
老婆の側が断罪への拷問として、致命傷に至らない蹴りを行い続けているのではないか。
真実はわからない、わかることは断罪が一方的に攻撃を受け続けているということだけだ。
「……ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
未だに老婆に有効打を食らわせることの出来ぬまま、サンドバッグのように立っている断罪の息は荒い。
全身から血を流し、当たらない攻撃で体力だけを無駄に消耗させられている。そもそも、攻撃が臓器に達していないというだけなのだから、常人からすれば立っていることが信じられないような傷である。
「断罪殿ぉ」
「あ?」
「まだにござるかぁ?」
屍山血川の呼びかけにはどこまでも脳天気な響きがあった。
生きている――というよりはまだ死んでいないだけの断罪にかけるような言葉ではない。
「そうじゃのう……早く貴様を殺し、次はお嬢ちゃんに人災を起こしてやらなければのう……」
屍山血川の「まだ」をまだ生きているのか、と取った老婆は嗄れた声でそう言った。実際、老婆の中にも飽きはあった。
「それとも
ぢ。ぢ。ぢ。
屍山血川がカッターナイフから刃を出していく。
尋常のサイズではない、通常の刀のサイズと小刀のサイズの二刀流である。
老婆が僅かに奇妙に思ったのは、その屍山血川の表情にどこか諦めのようなものが見えたからである。自身のスピードについていけずに諦めるのは人間として当然のことであるが、それでも――その口ぶりから、まだ余裕がありそうである。戦っている内に諦めるというのならばわかる。あるいは口で強がっていてもその言葉を震わせて、自身の怯えを顕にしているというのもわかる。だが、その声からは自身に対する諦めを感じない。
確かめてみるか。
実際に襲ってみれば良い。身体が傷つけば、感情は容易に漏れ出す。
老婆がそう判断した刹那、老婆は怖気を震って立ちすくんだ。
屍山血川が微笑む。
そして、怒りに満ちた声が老婆の鼓膜を震わせた。
「ふざけるなッ!この婆婆は小生の獲物だぞッ!貴様なぞに渡してやるものかッ!」
「けど、あんまりボロボロでござるからなぁ……」
「もう、あの婆婆を殺す算段はついたッ!」
「なにっ!?」
思わず声を上げたのは老婆の方である。
「儂を……殺すと……?」
「耳が遠いのか?それとも聞きたくない言葉は耳に入れたくないか?」
全身から血を流しながら、断罪は挑発するように薄く笑った。
「小生は殺戮刑事だぞ、殺戮刑事に狙われた獲物に殺される以外の結末はない」
「殺戮刑事……」
人里離れた
「過言じゃ」
目の前の相手には何のことかはわからないだろう。
だが、あえて老婆は口に出して言った。
死の権化などと、死神などと、そのような大仰な言葉で語るには目の前の若者は弱すぎる。騙っているのか、あるいはしょせん伝聞情報、実際の殺戮刑事は大したことではないということか。
「良いじゃろうよ、殺戮刑事……まずは
瞬間、老婆は駆けた。
残像は老婆の移動する軌跡をはっきりと描き――しかし、それを視認した時点ではもう遅い。既にその姿は断罪の背後へと。
「貴様の命ッ絶ッたりィィィィィッ!!!!!」
老婆の今までの攻撃は前蹴りであったが、今回は廻し蹴りを放った。
刃物よりも鋭利な老婆の足が加速をつけて、断罪の胴体を凪ぐ。
生存の余地は与えない。断罪の身体を上下に断つ。そのような廻し蹴りが――止まっていた。
「なッ!?」
素足――というにはあまりにも奇怪であったが、靴というにはあまりにも生身の足の形をしている。老婆の足はその脛から下が宝石と化し、ダイヤモンドの輝きを放っている。その宝石の足が生身のように動いている。それが老婆の速さの秘密であるのか、いずれにせよ――その蹴りと断罪の刀が一瞬、火花を散らし――老婆の蹴りの勢いは殺され、次の瞬間には断罪の刀は老婆の両足を切断していた。
「ぐおおおおおおおおおおおッ!!!!何故じゃッ!?何故、儂の蹴りを止めることが出来たッ!?いや、何故儂の足が斬れておるッ!?」
足を切断された痛み、足を失った衝撃、そしてのろまな殺戮刑事に攻撃を止められた動揺で、老婆の脳裏では思考が泡のように言葉が生まれては消えていった。
痛い。足は治るのか。おそらく治る。生贄をもっと。買い物はどうやって行けば。痛い。タクシー。生贄も財布ぐらいは持っているだろう。何故、攻撃を止められた。痛い。背後に回りすぎたか。痛い。そもそも儂のダイヤモンドの足を何故、斬ることが出来た。自分の速さ故に攻撃パターンが単調になってしまっていた。そのために、目の前の殺戮刑事には攻撃パターンを見破られてしまったか。
「貴様の速度には慣れた」
断罪は端的にそう言った。
「慣れッ!?」
「いい足だな、宝石か。貴様の言う神様とやらに関係しているのか?」
断罪は切断した老婆の足を手に掴んで言う。
「さっき焼死した警官の頭には宝石が埋まっていたが、貴様の頭にも宝石が埋まっているのか?あるいは、その足が宝石の代わりか?」
「誰が言うものか……」
「安心しろ、自分から進んで言いたくなるようにしてやる。小生は拷問においても……チッ!」
断罪は舌打ちと共に、一歩下がった。
先ほどの駐在所と同じように、老婆が青白い炎に包まれて燃えていく。
少なくとも断罪に出来ることはなかった。
やはり、老婆の死体もまた生前の面影を一切残さない炭と化した。
「断罪殿……」
「フン、フラストレーションばかり溜めさせてくれるな……」
頭部と――言われてようやくわかるような生命の残骸を断罪は切り落とす。
その頭の中にはやはり赤く輝く宝石があった。
「村に行くぞ、ここまで熱烈な歓迎をされて答えが出ないということはあるまい」
【つづく】
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