10.恐怖再来
二人が共に暮らし始めた翌日の正午。
八城家で昼食を終えたふたりは、アパートに戻るために外へ出た。するとパトカーと捜査車両が徐行気味停車していた。
いったい何があったのだろう? と、急いでアパートへ向かった。104号室に住むカメラマンの青島文夫が首からカメラを提げて通路に飛び出した。
ふたりは青島に駆け寄った。
海斗が尋ねた。
「何かあったんですか?」
青島は答える。
「202号室に住んでいた滝田昇が風呂場で溺死したらしい。浴槽の中には長い髪が沢山浮いていたんだってよ」
ふたりは、怨霊の髪だと確信した。
青島は尋ねた。
「君たちも美幸を……怨霊を見たのか?」
海斗は返事する。
「はい」
「そうか……ずっとこの未解決事件を追い続けている。事件後に怨霊が出るなんて聞いたことないし、俺自身も初めて体験した。この事件の裏には何が隠されているのかと、真相を知りたくてな。若い時に興味が湧いてから今に至るわけ」
「怖くないんですか?」
「怖くないと言えば嘘になるけど、長年いろんな仕事に携わってきた結果、ひとつ言えるのは、生きている人間が一番怖いってことだ」
三人は階段を上がって二階の通路に立った。住人達でごった返しており、騒然としていた。その中には久保田の姿もあった。青島は警察に見つからないようにカメラのシャッターを切り始めた。
ふたりは人だかりの中に紫音を発見したので、駆け寄った。
海斗は声をかける。
「紫音さん」
紫音もこちらに気づく。
「202号室の滝田は、美幸にやられたようだな」
結愛がぽつりと言った。
「桃木さんも美幸に殺されたんじゃないだろうか……」
紫音は返事せずに、何も言わなかった。
「……」
海斗は疑問を口にした。
「桃木さんは、この事件に関する何かを知っていたのだろうか?」
ふたりの会話に反応した201号室に住むフリーライターの坂上竜司が突然会話に入ってきた。
「あの桃木を知っているとは随分詳しいな兄ちゃん」
「はい」返事した直後、坂上の右手の甲に目がいった。
親指の下に大きなほくろがあった。あまりにも印象的。坂上の特長を訊かれたら、真っ先に “親指の下のほくろ” と、答える。凝視すると失礼なので視線を逸らした。
坂上は結愛に言った。
「よかったな。八城に似なくて。あいつに似たら不細工だったぜ」
失礼な人だと思ったので、無視した。
坂上は声を出さずに、肩を揺らして小さく笑い、青島の許へ歩いて行った。
結愛は憤然とした。
「なんか感じ悪い」
「気にしないほうがいい」
「お父さんはおとなしいから好き放題言われるんだよ」
海斗は、野次馬の中にどこかで見たことがある少年を目にした。相手もこちらを知っているような素振りを見せていたが、この場から立ち去った。どこで会ったかわからないのでとくに気にしなかった。
「俺たちも部屋に戻ろう」
「至近距離に死んだ人の部屋があるってちょっと怖いよね」
「まだ死人が出るよ」
その晩、結愛のスマートフォンの着信音が鳴った。画面を見ると、京太郎からだった。
スマートフォンを耳に当てた。
「もしもし」
「あ、お父さんだ。あのね、いまレジ上げの最中なんだけど、賞味期限を迎えたスイーツがあるんだ。海璃君甘党だったよね。もしいるなら取りにおいでよ」
「いる。あたしも食べたい。いま取りに行くね」
スマートフォンの電話を切った結愛は海斗に顔を向けた。
「お父さんがお店で売れ残ったスイーツをくれるみたいだから、ちょっと取りに行ってくるね。すぐに帰ってくるから待っててね」
「うん。今夜は三十年前の事件をネットで調べたいんだ。夜更かしするかもしれないから夜食にちょうどいい」
「それじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
結愛が玄関を出たあと、自分の寝室に行き、電気をつけて、ベッドに腰を下ろした。
海斗はふと考えた。
生前の美幸は子供想いの優しい母親だったのだろう。そして、彼女が奇霧界村で生活を送る以前はどこに住んでいたのだろう。道子の母親の大石晶子も彼女と同じ出身地。京太郎は若い頃から人を詮索するのが好きではない感じがしたので、尋ねてもわからないだろう。
「そうだ……」
青島というカメラマンならいろいろ知っているかもしれない。呪われていると言うことと、その理由を言えば、何か教えてくれるかもしれない。
彼の部屋を訪ねてみよう。
そのとき、電気が バツン! バツン! と音を立てて点滅し始めた。電気は引越しの際に全て取り替えたから、切れるわけがない。
まさか……美幸……
嫌な予感は的中した。
電気が突然切れた。
暗がりの中、ベッドの上に置いたスマートフォンの受信音が鳴った。
慄然としながらスマートフォンの画面を見る。
着信番号、横峯和真。
心拍が上がった。あの日以来和真からの着信はなかった。
「なんで……なんで、来るんだよ……もう勘弁してくれよ」
ズズズ……ズズ……ズズ……と、足を引きずるような音が聞こえた。
ピチャン……ピチャン……水滴が床に落ちる音が聞こえる。
海斗は急いでドアの鍵を閉めた。
来るな!
来るな!
お願いだから消えてくれ!
呪文を唱えるかのように心の中で何度も祈った。
だが美幸の足音は徐々に近づいてくる。
スマートフォンの受信音が止んだのと同時に、美幸は施錠された寝室のドアをノックした。
トントン……
美波と口喧嘩した夜に聞いたノックの音が聞こえた。
ドン……ドン。
その音は激しさを増してゆく。
ドンドン! ドンドン!
「ゴポゴポ……魁斗……お母さんよ……迎えに…き…た……」
ドアノブを左右に揺らす。
ガチャガチャ! ガチャガチャ!
今度はドアを引っ掻く音が室内に響いた。
「お願いだ……消えてくれ……」
まるで土を掘るかのように、ドアを引っ掻いている。
「お母さんよ……」悍ましい声を出した。「早く出てきなさい……」
「消えろ、消えてくれ! 俺はあんたの息子じゃない!」
美波が貰っていた紫音の名刺にはスマートフォン番号が記載されていたので、電話帳に登録していた。紫音に助けを求めるため電話する。
呼び出し音の後、紫音が電話に出た。
「もしもし」
「紫音さん、助けて。美幸が現われた」
「見つ…け…た」紫音に電話したはずが、いつの間にか声の主が変っていた。「ゴボゴポ……コポコポ……ゴボ」水中で溺れ行く音が響く。
スマートフォンを床に投げた。
「何なんだよ!」
美幸は凄まじい力でガリガリとドアを引っ掻き続ける。やがてそこにぽっかりと穴が空いた。穴から覗く充血した眼がこちらを凝視している。
「魁斗……コポコポ……出てらっしゃい」この世のものとは思えぬ声で癇癪を起こした。「かーいと! かーいと! ゴボッ! ゴボゴポ……コポコポ……」
耳を塞いで助けが来ることを祈り続けた。
「助けて、紫音さん」
そのころ―――
電話を貰った紫音は異変を感じ、すぐさま自宅玄関から通路に出た。すると二階に上がろうとしている結愛がいた。
「おまえは部屋に入ってくるな、そこにいろ」
彼の身に何が起きたのか、不安に駆られた。
「まさか、美幸が現われたんですか?」
「私にもわからない。とにかくおまえはそこにいろ」
「わかりました」と、結愛は204号室のドアの前で待つことにした。
急いで玄関に入ると、海斗の寝室のドアの前に立つ、悍ましい美幸の姿が見えた。マントラを唱え、美幸の体に素早く呪符を貼り付けた。どんな霊体と向き合うときも恐れてはならない。隙を見せればこちらの身も危険だ。
「ここから立ち去れ!」
血走った赤い双眸を紫音に向けた美幸は、口からゴポゴポと音を鳴らしながら、リビングから姿を消した。その直後、室内に蛍光灯の光が戻った。
「海斗! 大丈夫か! もう美幸は消えた」
寝室に閉じこもっていた海斗は鍵を開けて紫音にしがみついた。
「怖かった! マジで死ぬかと思った!」
「大丈夫だ、あの女は去った……一時的に」
「また現われるってこと?」
「そうだ」
紫音の返事に頭を抱えたが、遺骨を見つけるまでは美幸は現れ続ける。だがいまは一時的にでも消え去ったので、紫音は通路にいる結愛をここから呼んだ。
「もう入っていいぞ!」
玄関に入った結愛は、室内に足を踏み入れる。
「また美幸ですか?」
「そうだ。また現われたらすぐに呼んでくれ。私もやることがあるから、部屋に戻る」
海斗は礼を言った。
「本当にありがとうございました」
笑みを浮かべて返事した。
「いつでも助けに来る」
紫音は自分の部屋へ戻った。
リビングルームに戻ったふたりは気持ちを落ち着かせる為にココアを飲んだ。
結愛は心配した。
「大丈夫? 顔色がよくない」
「大丈夫」寝室から持ってきたパソコンをテーブルの上に置く。「早く亡骸見つけないと、平穏な暮らしが戻って来ない」
「一緒に解決しよう。紫音さんっていう心強い味方もいる」
怯えているだけでは前に進めない。
「そうだね」パソコンを立ち上げた。「調べてみよう」
事件を検索してみたが、やはり京太郎が言っていたこと以外は記載されていなかった。
結愛は提案した。
「失礼な感じの人だからちょっと嫌だけど坂上さんや、青島さんに聞いてみたらどうかな。熊谷さんは気難しい人みたいだけど、行くだけ行ってみよう」
「俺もそうしようと思っていた」
高校生の自分たちが相手にされるはずないだろう。美幸に取り憑かれていることや、彼らの遺骨を捜し、犯人を見つけたいという想いを打ち明ければ、もしかしたら協力してくれるかもしれない。可能性は低くても訪ねてみるべきだ。
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