9.取り憑かれし者

 深夜二時過ぎ。


 怨霊が海斗の部屋に現われてから不安で睡眠不足だった美波は、海斗の留守番電話に気づかず、送迎車の中で眠ってしまった。あまりお酒は飲みたくなかったのだが、仕事なのでそうも言っておられず、顧客にお酌をしながら数杯飲んだ。お酒は強い方なので普段ならこのくらいで眠くはならないのだが、疲れが溜まっていたのだろう。


 「瑠璃、瑠璃」運転手は源氏名を呼び、美波を起こそうとした。「事故物件に着いたぞ」と、何も知らないので冗談を言う。


 美波ははっとして目を覚ました。

 「寝てしまったのね」


 「お疲れさん、家に帰って寝るんだな」


 「ありがとう」


 送迎車を降りた美波は、すぐさまアパートの階段を駆け上がり、鍵を開けてドアを開けた。深夜か朝方の帰宅なのでチャイムは鳴らさない。いつもどおり静まり返った深夜の玄関。電気を付けてみると、海斗のスニーカーがなかったので、結愛の家に行くかもしれないと言っていたことを思い出す。


 バッグの中からスマートフォンを取り出すと、留守番電話が一件入っていたので、確認してみた。やはり海斗からだった。


 “俺だけどトイレの壁紙の蝶が動いたんだ。ここはヤバいから結愛ちゃんの家に一時避難するよ。母さんも仕事が終ったら来て”


 スマートフォンをバッグに収め、玄関を出ようとしたとき、トイレのドアに何かがぶつかる音がした。激しくノックするかのようにトイレの中が騒がしい。


 恐る恐るトイレのドアを開けてみた。なんと壁紙にプリントされていた蝶の模様が本物の蝶となり攻撃してきたのだ。夥しい数の蝶に襲われ、悲鳴を上げた。急いで玄関から出ようとしたが、接着剤で固定されたかのようにドアの取っ手が動かない。


 蝶は蜂のように鋭い針を向けてきた。腕や背中を刺され、鋭い痛みを感じた。体ばかりでなく顔も刺され、真っ赤な発疹が浮かび上がる。蝶に針があるのは、これも怨霊の一部だから。まさか壁紙からこんなにも恐ろしいものが抜け出してくるとは、想像もしなかった。


 激痛に襲われた美波は、ショルダーバッグの中からスマートフォンを取り出し、海斗に電話した。

 

 海斗も美波を心配していたので、すぐに通話できた。

 「もしもし」


 「助けてぇ!」執拗なまでに攻撃してくる蝶に苦しめられる。「早く来て!」


 「どこにいるんだよ! まさかアパート!?」


 「い、いやぁぁぁぁ! 痛い、痛い!」ドアを開けようとするが開かない。「鍵が開かない! 早く助け、助け……」気を失った。


 「母さん!? 母さん!」


 不安げな表情を浮かべる京太郎に顔を向けた。

 「母さんが家に! 何かあったみたいだ」


 電話越しに美波の悲鳴が聞こえていたので、京太郎と結愛は腰を上げた。


 京太郎は玄関に向かった。

 「急ごう」


 三人はアパートへ向かった。海斗が自宅のドアの取っ手を捻ると、開けようとしても開かなかったドアが簡単に開いた。ぐったりしている美波の周囲に夥しい数の蝶の死骸が落ちていた。


 トイレはドアが開きっぱなしだったため、壁紙が見える。蝶の壁紙だったはずなのに白い壁紙となっていた。壁紙の蝶が抜け出し、彼女を襲ったというのか。非現実的であり得ない光景に戦慄を覚えた。


 肌が露出している部分には赤い発疹が出ている。


 「母さん! 母さん!」と、必死に美波を揺すった。


 京太郎は美波の発疹を凝視した。すると、発疹の中心に小さな黄色い突起物があるのを発見した。

 「なんだこれ……」

 

 「救急車を呼ぼう」


 「待って、医者が診る部類じゃない」


 京太郎は、棘や膿を絞り取るかのように指先で発疹を絞り、黄色くて小さな突起物を押し上げた。それを人差し指の先に乗せて確かめてみる。

 

 「これは……」驚愕した。「蝶々の卵だ」

 

 蝶は葉っぱの裏に卵を産みつける。葉の代わりに美波の体に卵を産みつけたのだ。子孫を残すために卵を産みつけたあと息絶えた。


 「どうしてこんなことに……どうすればいいんだよ」


 結愛は、突起物が一回り大きくなったように思えた。

 「お、お父さん。蝶の卵が大きくなったような気が……」


 結愛の言うとおり、卵が成長している。また一回り大きくなり、また大きくなる。急激に成長し始めた。そのとき美波が目を覚ました。

 

 意識が戻った目に映ったのは、小さな突起物が浮き上がった腕。パニックに陥り、悲鳴を上げた。

 「なにこれ! い、いやぁ!」

  

 全身に産みつけられた卵が半透明になり、こんもりとしたドーム状の水膨れに変化した。半透明の皮膜の内部には、小さな芋虫が入っていた。


 美波の心拍が上がった。

 「なんとかして!」


 「母さん!」


 京太郎ははっとした。

 「102号室にいる紫音さんは霊媒師だ。彼女に見てもらおう」


 たかが占いをしている霊媒師なんかで大丈夫なんだろうか……と、不安だったが他に手がないので、紫音のところへ行くことにした。


 京太郎は美波を抱き上げ、ふたりと共に玄関を出て、102号室に向かった。


 焦っていた海斗は、しつこくチャイムを連打した。


 「開けて! 紫音さん! 助けてください!」


 当然の事ながらこれ以上ないくらいに不機嫌な紫音が顔を出した。こんな時間に叩き起こされたんだ無理もない。しかし、京太郎に抱き上げられている美波の状態を見て、顔色が一変した。


 すぐに部屋へと招き入れた。

 「さっさっと入れ」


 玄関に上がった海斗は壁一面に貼ってある呪符にぎょっとした。京太郎と結愛は電話注文にて紫音の家を訪れているので、呪符が貼ってあることは知っている。


 リビングルームへと入り、美波を床に寝かせた。


 痛みで立つことができない美波の体に触れた紫音は海斗に尋ねた。

 「この蝶はどこにいた?」


 海斗は答えた。

 「トイレの壁紙。俺が玄関を開けたときには蝶は全滅してました。蝶モチーフの壁紙は無地の壁紙になっていました。おそらく元々白い壁紙だったんだと思います。何が何だか、もう……わけがわかんなくて」


 「そうか。壁紙に宿したか」紫音は美波に言った。「いまからお前に宿された怨霊の卵を消し去る。少々痛いが耐えろ」


 美波は頷いた。

 

 いつも身につけている水晶の数珠をテーブルから取り、マントラを唱えた。


 「はっ!」と、術を切ると、糸から零れ落ちた水晶玉が美波の体に降り注いだ。


 全身に激痛が走り、発狂した。

 「痛い! きゃあぁぁぁぁ!!」

 

 「母さん! しっかり!」


 体を覆う水膨れは蒸発するように消えた。かなりの激痛だったが、滑らかないつもの肌へと戻った。

 

 全員が安堵した。


 海斗は胸を撫で下ろす。

 「よかった……」


 美波は泣きながら背を起こした。

 「もう無理……もう無理!」海斗に言った。「このアパートを出よう」


 「俺も出ていきたい」


 京太郎も同じ意見だ。

 「僕もそうしたほうがいいと思います」

 

 結愛が言った。

 「つぎのアパートが見つかるまでうちの空き部屋を貸してあげる。あの部屋にいるのは危ない」


 紫音は首を横に振った。

 「残念だが、海斗だけはどこに行っても意味がない。取り憑かれている。どこに逃げようとも海斗を追ってくる。海斗が美しい蝶を見れば喜ぶと思い、美波さんの体に蝶の卵を宿した。海斗以外の人間の命はあってないようなもの」


 海斗と美波は顔を見合わせた。


 恐ろしい言葉を言った紫音に海斗は尋ねた。

 「取り憑かれてるって、どういうことですか?」


 「奇霧界村で昔あった未解決事件は知っているよな?」


 「俺はさっき京太郎さんから聞きました。堀田美幸って人と、それからその息子。あと美幸の恋人の正敏が殺害されたって」


 「店長さんよ」紫音は京太郎の顔を見て尋ねた。「あんた、美幸の息子の名前を教えたのか?」


 京太郎は答えた。

 「いいえ、ネットを調べればわかることなのかもしれませんが、わざわざ怯えさせることを言わなくてもいいと思ったので言ってません」


 躊躇いもなくはっきり言った。

 「そうか……美幸の息子の名は魁斗だ」


 海斗の頭が混乱する。

 「俺と同じ名前……」


 「字は違うけどな。以前、美波さんに訊いただろ? 魁に正座を意味する斗か、と」


 「だけど彼女の息子と俺は同じ名前に同い年それに誕生日が同じっていうだけで、身体の特徴が似てる訳じゃないだろ……」


 紫音破壊との疑問に答えた。

 「死人だ。生きている人間の物の見え方とは違う。きっと他にもあの魁斗と重なる部分があるのもしれん。とにかく、美幸にはお前が亡くなった息子に見えているんだろうよ」


 恐怖のどん底に突き落とされたような気分だ。

 「マジかよ……どうすりゃいい」


 美波は引っ越し蕎麦を貰ったときを思い出した。

 「だからあのとき訊いてきたのね」疑問を尋ねた。「美幸は海斗に “守る、殺す” と言っていた。何を守るの? 殺すって皆殺しってこと?」


 「美幸らはアパートで殺されている。犯人がアパートの住人のうちの誰かだと思い込んでいた場合、住人を皆殺しにすれば海斗を守ることができる。つまりそういうことだ」


 「解決策は……あるの?」


 「解決策はひとつだけ」真面目な面持ちで答えた。「美幸と海斗の亡骸を一緒にしてやることだ。魁斗も母親の美幸を探して彷徨ってるが、たとえ美幸とすれ違ってもお互いに見えないのだ。二人の遺骨を一緒にすることができれば、おまえは助かる。そして犯人逮捕へと結びつくはずだ」


 京太郎は目を見開いた。紫音の言っていることが滅茶苦茶に思えた。

 「警察でさえ見つけられなかったのに無理ですよ。この子はまだ高校生ですよ。そんなことできるはずない。他に方法はないんですか?」


 美波も親として反対だ。そんな危険なことさせるわけにはいかない。

 「そうよ、できっこない。それこそ他の方法を探すのよ」


 「他の方法、そんなものはない」きっぱり言い切った。「海斗が現れたことにより、怨霊と化した美幸が暴走した。このアパートでも死人が出ている。死の連鎖を止められるのは海斗、おまえだけだ」


 美波が言った。

 「そんな……お祓いしても無駄なのね?」


 「そのとおりだ。美波さん、あんたはあの部屋にいないほうがいい。呪い殺される」

 

 京太郎は結愛が言ったように、自宅に招き入れる。

 「しばらく僕の家にいるのはいかがでしょうか」


 「そうしたほうがいいと思います」結愛は真摯な面持ちで言った。「あたしたちが二人の遺体を見つける。それまであたしが海斗君の家にいる。きっとあたしも役に立てるはずだから」


 京太郎が首を横に振った。許可できない。

 「駄目だ。そんな危ないこと親として許すわけにはいかない」


 「海斗と結愛を私に任せてくれないか」紫音が言った。「美波さんほど危険に晒されることもないだろう」


 「本当に大丈夫なんですね?」念を押すように聞いた。「大事な一人娘なんです。この子を失っては生きていけません」


 「案ずるな。大丈夫だ」


 美波は、自分にはどうすることもできないので、紫音に託すことにした。

 「息子をよろしくお願いします」


 紫音は頷いた。

 「ああ、任せておけ」


 京太郎は、必ず毎日連絡すること、との条件付きで同意した。自宅に戻った美波は、最低限度の荷物を纏め、京太郎の自宅へと向かった。


 ふたりは三十年前の未解決事件の真相を追究するために、これらが解決する日まで一緒に暮らすこととなった。美幸と海斗の亡骸を必ず見つけると心に誓った。とにかく怨霊から解放されなければ、平穏な日常生活は訪れないのだから―――



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