8.怨霊の正体

  横断歩道を渡ったふたりは、ヤシロマートの裏にある自宅玄関に向かった。


 結愛は玄関ドアを開けた。

 「入って」

 

 「京太郎さんはまだ仕事なんだよね?」


 「レジ上げがあるから、八時半過ぎに茶の間に来る」十二畳ほどの茶の間に置いてあるテーブルの下に座布団を二枚置いた。「おなか空いたでしょ? カップ麺でいい?」


 座布団に座った。

 「うん、ありがとう」


 カップ麺にお湯を入れ、箸を二膳と一緒にお盆に載せた。テーブルにそれらを置き、座布団に座った。

 「キャンプ……行けなくなっちゃったね」と、悲しみを湛えた瞳を海斗に向けた。


 目に涙が浮かんだ。みんな友達だった。とくに和真は親友だった。もう二度と会えない。

 「行きたかったな」


 彼らが生きていて、怨霊の姿さえ見ていなければ、好きな子とふたりきりでカップ麺を食べるなんて、すごく幸せに思えただろう。残念ながらあれ以来、気持ちが沈んだままだ。


 無言でカップ麺を食べるふたりは、京太郎が仕事を終えるまで待った。


 その後、仕事を終えた京太郎が茶の間にやって来た。


 海斗の顔を見て、優しい言葉をかけた。

 「和真君たちが死んで、大変な思いをしたね」


 思わず泣きそうになったが、それについて、和真のスマートフォンを持った怨霊が部屋に現われたことを説明した。


 過去にファントム奇霧界に住んでいた京太郎も怨霊の姿を見ている。人ごとではなかった。


 「娘から、僕の過去を聞いたかい?」


 「はい。少しだけ」


 少し俯いてから顔を上げた。

 「いまのアパートでも見える人は気持ち悪くて住めないから出て行くし、あの怨霊が出るんだろうな、とは思っていた。僕も昔は怪奇現象とか信じていなかったんだ。目に見えるたしかなもの以外、この世に存在するはずがないって思っていたから。でも、あの怨霊を見てからその考えが根底から覆されたよ」


 「同じです。俺も母さんも、そして和真も、そういった類いの話は信じていませんでした。体験して初めているんだなって思い知らされました。やっぱり、一度でも体験しないと目に見えないものって、なかなか信じる事ができないんです」

 

 結愛は真摯な面持ちで京太郎に訊いた。

 「お父さん、昔、奇霧界村で何が起きたのか詳しく教えてくれない?」


 一瞬、戸惑いの色を浮かべたが、当時を振り返り、未解決事件の悲劇を語り始めた。


 三十四年前――――奇霧界村にはスーパーがひとつもない事に目をつけ、コンビニとスーパーが一緒になった店作りを目指し、親友の桃木と共に小さな食品店、幕の内スーパーの経営を始めた。


 間もなくして、目を見張るような美人の香田美幸が十六歳の息子を連れて、ファントム奇夢界の204号室に引越してきた。艶やかな黒髪のロングヘアが印象的だった。三十三歳には見えず、とても若く見えた。


 美幸は204号室に入居した理由を“息子の誕生日が二月四日だから、あたしたちにとってはラッキーナンバーなんです ”普通、日本人は四を嫌いますけどね、と笑いながら周囲の人に話していたのを覚えている。


 海斗は京太郎の話を聞いて鳥肌が立った。

 「歳も誕生日も俺と同じ……それにうちの母さんの年齢と同じ」


 「だから君の許に怨霊が現われたのかも……」と言ってから、京太郎は話を続けた。


 ファントム奇夢界で生活を送っていた住人は、 “訳あり” が多かったが、美幸は特に訳ありというわけではなく、心機一転したくて引越してきた、と、美幸本人から桃木が直接聞いた。


 彼女は長年勤めていたスナックを辞めて、奇霧界村のスナック悠々で働いていた。以前の顔なじみの客や顧客も彼女目当てに悠々へ足を運んでいた。

 

 その後、美幸と似たような年齢の大石晶子(おおいしあきこ)が幼い子供、道子を連れて102号室に引越してきた。晶子は妖艶な雰囲気の女性だった。


 偶然にも晶子は、以前美幸と同じスナックで働いていた友人同士だった。久しぶりに再会し、また同じ店で働くようになった、と、買い物に来たときに教えてくれた。

 

 美幸と晶子は、シングルマザーということもあり、仲が良かった。ふたりとも美貌の持ち主ではあったが、看板娘と呼ぶには少々年齢が上だった。だがふたり目当てで悠々に通う男性客も多かった。


 また、晶子は霊感が強く、タロットカードを使ってお客やお店の女の子たちを占ってあげていたという。よく当たると評判だったらしい。


 海斗は質問した。

 「京太郎さんも彼女たちがいるスナックに行ったことはあるんですか?」


 首を横に振った。

 「桃木は行っていたけど、僕はそういう場所が苦手なんだ。若い頃から奥手でね。接客以外で女性と向き合うと緊張してしまうんだ」

 

 見るからにそういった場所に行きそうもない。馬鹿げた質問をしたと思った。


 京太郎は話を続けた。


 事件発生時の事は詳しくはわからない。当然のことながら自分がそこで見ていたわけではないから。それに未解決事件だから、インターネットに載っている事と変わらないことを言うかもしれない―――と、前置きを言ってから、彼女たちが奇霧界村に来てから四年後の八月三日、現在から三十年前に起きた惨劇を語った。

 

 204号室に何者かが押し入った。テーブルの角から息子の血痕と、床に落ちていた灰皿に美幸の交際相手の血液が付着しており、彼の頭蓋骨の一部が見つかった。ふたりは殺害されたと断定された。


 犯行当時、美幸の恋人 河野正敏(こうのまさとし)が合鍵で鍵を開けたところ、運悪く犯行現場にいる犯人と遭遇し、テーブルの上に置いてあった大理石の灰皿で、犯人に頭部を強打され、殺害された。


 当時、美幸が息子と正敏を殺害し、逃亡したのではないかと言われていたが、自動車を所有していない彼女には足がない。それに女ひとりで男ふたりを担ぐなんて無理だ。しかし正敏以外に男がいたという事実もなかった。


 奇霧界村から出るには、自動車がないと難しい。バスやタクシーの運転手にも事情聴取を取ったが、美幸を見かけた又は乗車したという話は出てこなかった。よって、美幸は何者かに誘拐され、殺害されたのではないか、という視方が強まった。

 

 京太郎は話の途中で、当時見た怨霊の姿を思い出す。

 「彼女も殺されたんだよ。ずぶ濡れの怨霊をファントム奇霧界の前で見たんだ。生前のような美しさはなかった。恐ろしい魔物のようだった。いま思い出しただけでも身震いする」


 結愛は言った。

 「綺麗な人ならいまで言うストーカーの被害に遭ったのかもしれない。一方的に思いを寄せる怖い客に殺されたとか……」


 海斗は疑問を口にした。

 「何故、当時の警察は、灰皿がテーブルの上にあがっていたってわかんだろう? だって、台所にあったかもしれない。それに、どうして合鍵で開けた事がわかったんだ? 鍵がかっていなかった可能性もある」


 困った顔をした。

 「そう言われれば確かに。おじさんも桃木に聞いた話なんだよ。そんな細かいところまで気がつかなかった」


 「なんとなく気になっただけなので……」


 京太郎は再び語り始めた。


 警察の警戒態勢も弱まった一年後、102号室に住んでいた晶子の娘が誘拐された。その後、娘の死を悟った彼女は、悲しみの余り気が狂ってしまった。美しい漆黒の髪が真っ白になり、周囲の者が気がつかないうちに奇霧界村から姿を消した。


 しばらくして人づてで聞いた話になんだが、どこかの精神科に入院したそうだ。そのときの晶子は、美しさを失った老婆のように変わり果てた姿だったという。最愛の娘を失い、廃人となってしまったのだろう。

 

 道子を誘拐した犯人も未だに捕まっていない。美幸たちと同一犯である可能性が極めて高いと言われていたが、それも定かじゃない。


 そして晶子もいまどこで何をしているのかはわからない。生きているのか死んでいるのかそれさえも誰も知らない。


 京太郎はこれから一番話したくない過去を話すため、一呼吸置いた。

 「本当に辛かった―――あの頃は心が折れてしまってね……」


 周囲の店を始め、自分が経営していた店も閉店に追い込まれた。その理由は、事件後どの店舗でも赤字が続き、経営が困難になったから。


 事件が起きてから、霧に覆われることが多くなり、今まで立ち寄ってくれていた長距離トラックなど客足が途絶えた。当然、幕の内スーパーも赤字に悩んだ。スナック悠々の経営者は一家で夜逃げした。


 その後、辺り一面を覆う霧は晴れることなく一日中続くようになっていった。ファントム奇霧界の住人達の殆どは奇霧界村で働く者達が中心だったので、当たり前のように空室が増えていった。当時は管理されていたので夜逃げした住人の荷物は、大家が業者に頼んで処分してもらっていた。


 空室が多くなるにつれ、ある噂が飛び交うようになった。


 殺害された者達の怒りの怨霊が彷徨っている、と―――


 だが……噂ではなく本当に悍ましい顔の美幸がファントム奇霧界を徘徊するようになった。生前の美しさも優しさも消え、怒りと憎しみに満ちた表情を露わにし、ずぶ濡れで歩く姿が頻繁に見られるようになる。息子も怨霊となり、現われるようになった。その後、桃木が狂い出した。

 

 桃木はファントム奇霧界の203号室、つまり殺害された美幸の隣に住んでいたのだが、美幸の怨霊に毎晩のように苦しめられていたらしく、首を絞められた痕までついていた。


 眠れない、恐ろして眠れないつきまとわれている……助けてくれ、と、何度も聞かされた。もう、死ぬしかない、死ぬしかないと、追い詰められていた。


 死ぬなんて言うな、早まるな、と何度も説得していた。


 しかし、夜な夜な歩く怨霊が存在したとしても、実体のない霊体が人間の首を絞めるなど、どうしても信じられず、桃木が狂い出したのは経営不振による鬱だと思っていた。首の痣は自分で絞めたのだろうと思い、精神科に行くことを進めていたくらいだった。


 ある晩、アパートの通路を歩く悍ましい顔をした美幸の姿を見てしまった。


 恐ろしくなり、逃げるように店舗の中へ入ったが、ここにも美幸がいた痕跡が残されていた。なんと足跡が床に残され、髪の毛まで落ちていた。実態など存在しない、その考えが一気に覆され、身の毛もよだつ思いをした。


 その髪の毛を見た瞬間、間違いなく美幸の髪の毛だと思った。いましがた怨霊となった美幸を見たばかりで怖かったが、桃木が心配だったので彼の部屋に行ったら、たまたま鍵が開いていて……名前を呼んでも出てこないから、勝手にリビングに上がった。


 「そ、そしたら……桃木は……台所で手首を切り落して死んでいた。まな板に載った手首が、未だに目に焼き付いているんだ。僕は一生、あの時の桃木の死を忘れられないだろう」

 双眸に溜まった涙をティッシュで拭いた。

 「必死すぎるほど必死に、何度も助けを求めてきたのに、僕は何もしてあげられなかった。あのとき桃木の話を信じていたら、あいつは死なずに済んだのかもしれないのに……どうしてあんな惨い死に方を選んだのか……未だに信じられない。気の小さいあいつが手首を切り落とすなんて……」


 結愛は水を渡した。

 「大丈夫?」


 「ありがとう」グラスを受け取り、水を飲んで気持ちを落ち着かせた。「だから海斗君が親友を失って苦しむ気持ちがよくわかるんだよ。僕も同じ経験をしたから。親友を失い、苦しみを乗り越えた後、一緒になった妻をも失い……僕は……」


 ポロポロと涙を零す。

 「お父さん……」


 海斗の目にも涙が溢れた。

 「……おじさん」


 「桃木の死後、幕の内スーパーを閉めた。アパートを引き払い、傷を癒すために半年ほど各地を放浪し、しばらくしてからいまの場所でヤシロマートを開店させたんだ。桃木との思い出が詰まった幕の内スーパーみたいな店舗でいちからやり直そうと思った。

 そして二年後―――ファントム奇霧界に住んでいた住人達もどこかに引越し、奇霧界村は廃村となった。いまでは地図にも載っていない。当時はあの村が廃村なるなんて考えもしなかった」重苦しい溜息をつく。「正直、目の前にファントムが建ったときは、皮肉としか思えなかった……」


 海斗が礼を言う。

 「辛い過去を話してくれたことに感謝します」


 「いいんだよ」


 結愛は尋ねた。

 「ねえ、おとうさん。どうして美幸の息子の名前だけ言わなかったの?」


 戸惑う京太郎は、海斗に目を向けた。

 「あ、それは……忘れちゃったから」

 

 京太郎は香田美幸の息子の名前が “かいと” であることを伏せた。

 

 これ以上、怯えさせてはかわいそうだ……


 海斗は京太郎に尋ねた。

 「当時の奇霧界村で生活していた人達は、いまどこにいるのかわからないんですか? せっかく知り合えた仲間なのに、なんだか寂しい気がして」


 京太郎は答えた。

 「夜逃げした人が多いんだ。借金だの何だの訳ありの人たちが多かったから、どこで何をしているのかはわからない。でもいまのファントムの104号室に住んでいるカメラマンの青島文夫さん、それから201号室に住んでいるフリーライターの坂上竜司さんは、当時のアパートに住んでいたひとたちなんだ。懐かしくてびっくりしたよ。田中も亡くなった美幸さんのファンだったけど、坂上さんは異常なくらいだった」


 「なんでまたこのアパートに住もうと思ったんだろう? なにか理由がありそうだ」


 「理由までは僕にもわからない」首を傾げた。「あとそれから、三十年前の事件を担当した刑事の熊谷賢三さんが302号室に住んでいるよ。たまにうちのお店に来てくれるけど、気難しい人だから、そんなに話したことはないかな。みんな部屋の番号を知っているのは、注文された品物を配達しに行ったからなんだ」


 「刑事……。未だに三十年前の事件を追っているのかな?」


 結愛が言った。

 「定年後、独りで追いかけようと思ったとか?」


 京太郎にもわからない。

 「さぁ、どうだろう?」


 海斗は真剣に訪ねた。

 「彼に話を聞けないかな?」


 「無理だよ。言っただろ、気難しい人なんだ。高校生のおまえたちなんて相手にされないよ」


 海斗はふと壁時計に目をやった。深夜一時半。美波は、閉店後に客とデートするアフターがなければ、二時過ぎには帰宅する。留守番電話で結愛の自宅に来るように伝えたので、アパートではなくここに来るはず。


 「京太郎さん、こんな時間までいろいろとすいません。あしたも早いのに大丈夫ですか?」


 「僕なら大丈夫だ。美波さんを待とう。君たちの寝床はここでいいかな?」


 「はい。ありがとうございます」


 海斗は京太郎の優しさに感謝した。結愛が優しいのは京太郎に似たのだろう、と、思った。そして行方不明になった母親もきっと優しい人だったのだろう。

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