7.恐れ

 寝室のベッドで熟睡していた202号室に住む滝田昇は、余りの暑さに目を覚ました。


 「今年は猛暑だ……」


 毎日、蒸し暑い。寝汗でぐっしょりしたTシャツを脱ぎ、浴室へと向かった。シャワーより水風呂に入りたくなり、浴槽に水を張った。

 

 全裸になり、冷たい水を張った浴槽に浸かると、火照った体が気持ち良く冷やされていく。


 プールで泳ぐのが好きなので、浴槽の水に顔を付けて、イメージトレーニングする。水中で目を開けた瞬間――――ゆらゆらと揺れる長い黒髪が見えた。その髪は滝田の体に纏わり付いていた。


 驚いて思わず水を吸い込んでしまった。浴槽から出ようとしたが、首にもロープのように髪の毛が絡まりついて身動きがとれなかった。


 溺れた滝田は水中で苦悶する。その口から気泡が上がった。あっという間に肺が水に満たされ、浴槽に浮かぶ気泡が小さくなっていった。


 手足の力が抜け、息絶えた。

 「ゴボゴポ……ゴボ……コポ……コポ……」


 滝田が絶命した直後、道子が浴室に現われた。

 「死んじゃった。みんな死ぬ……」

 

 道子はここから姿を消し、102号室の紫音の部屋へ移動した。アパートの住人の名前が書いてある張り紙の前に立つ紫音を見上げ、報告する。


 「202号室の滝田昇が死んだ」


 「そうか……」


 「昨夜も奇霧界村でお金を盗んだ五人が魔のカーブで事故死した。海斗の友達だったみたいだよ」と、紫音に教えたあと、ケンケンパをしながら壁をすり抜け、部屋から消えた。


 紫音は赤いマジックインキを手にし、102号室の滝田昇に斜線を引いた。

 「ひとり死亡。どこまで続く……死の連鎖」




・・・・・・




 和真たちの葬式から二日が経過した昼下がり。


 ソファに座る美波は、深刻な面持ちで考え事をしていた。


 幽霊を見ることなんてない、と、思っていたが、この家には何かいる。

 

 何故、和真のスマートフォンから海斗に電話をしたきたのか……何故、海斗の名前を知っていたのか?


 海斗が言っていた “守る、殺す” と、怨霊の台詞が気になる。


 守るって……誰を?


 殺すって……誰を?


 大切な息子の命が危険に晒されるなら、ホテルでもどこでも構わないからここから出なければ。

 

 今夜は仕事だ。送迎の運転手に休みの連絡するべきか……海斗ひとりをこの家に残すのは心配だ。


 重苦しいため息をつく。

 「どうしよう……」


 そのとき海斗がリビングルームに入ってきた。美波の隣に腰を下ろした直後、着信音が鳴った。この音を聞くとあの夜の恐怖が蘇る。しかし、あれ以来あの怨霊からの着信はない。


 画面に表示された名前を見て安心した。

 「結愛ちゃんだ」


 美波もほっとした。

 「よかった」


 スマートフォンを耳に当てた。

 「もしもし」


 「結愛だけど大丈夫?」


 「なんとか大丈夫だよ」


 「あたし、調べてみようと思うの」


 「調べる? 何を?」


 「奇霧界村で起きた過去の事件。やっぱりあのカーブには何かある。曲がりきれないほどスピードを出していたとは思えないし、死亡事故が多すぎる。それこそ、怨霊が関係しているのかもしれないよ」


 その怨霊がここに現われたことは伝えていない。


 もし彼女の身に何かあったら危険だ。あの恐ろしい出来事を教えようとした。


 「俺、幽霊とかぜんぜん信じていなかった。でも……」


 会って話し合った方がよいと思い、アパートに向かおうとした。

 「家が近いのに電話で話すのもなんだから、そっちに行ってもいい? じつはあたしも話したい事があるの」

 

 「じゃあ待ってる」


 「すぐに行くね」


 「うん」


 スマートフォンの通話を切り、美波に顔を向けた。

 「これから結愛ちゃんが来る」


 「そう」心配なので尋ねた。「きょうも仕事休もうか?」


 「昨日も休んだし、次のアパートが見つかるまで休むわけにいかないじゃん」


 「もし怨霊が出たらどうするの?」


 「いま結愛ちゃんが来る。もしかしたら結愛ちゃんの家にお邪魔するかもしれない」


 「そうさせてもらえるなら、母さんも安心よ。もうそろそろ、送迎の車が来るの」もう一度訊いた。「本当に大丈夫よね?」


 「大丈夫。仕事に行ってきて」


 「何かあったらすぐに連絡して」


 「わかってる」


 母子家庭なので働かなくては金がない。結愛の自宅に何日もお世話になるわけにいかない。紫音に引越し蕎麦を持って行ったときに、怨霊が出たら教えてくれと言われていたので、あす、彼女に相談してみようと思った。その後、十八時に送迎の車が来たので、美波は玄関を出た。


 それから少し経ってチャイムが鳴った。


 玄関のドアを開けると、結愛が立っていた。


 「入って」


 ふたりはリビングルームに入った。結愛がソファに腰を下ろすと、海斗は麦茶を入れ、テーブルに置いた。


 「ありがとう」


 この家に結愛が来るのは二回目。引越祝いの夜は楽しかった。和真たちも生きていた。あの平穏な日常が失われたいま、すべてが奇跡だったのではないだろうかと思う。


 「こっちこそ、来てくれてありがとう」


 真剣な面持ちで話を切り出した。

 「電話の会話の続きなんだけど、調べるのはやめておいたほうがいい」


 結愛は尋ねる。

 「どうして?」


 「和真たちは事故で死んだけど、その原因は絶対に怨霊だ。だからこそ危険なんだよ」あの恐ろしい夜の出来事を話した。「和真たちが死んだ日――――夜中の一時頃、和真からの着信があったんだ。電話に出たら和真じゃなかった。水の中で息を吐くような……気泡が割れるような……そんな音が聞こえた。

 それから、金縛りにかかって、和真の携帯を持った恐ろしい顔の女がいきなり現れたんだ……。俺、余りの恐ろしさに気絶して……。そして早朝、和真たちが死んだ事を聞かされた」


 怨霊が和真のスマートフォンを持っていた……そんなことあり得ないだろう、と、話を信じられなかった。

 「うそでしょ? そんなことってある?」

 

 「俺だってあれを見るまでは、怪奇現象なんて馬鹿らしいと思っていた。怨霊は俺の名前を呼んで、殺すって言っていた。あと守るとも。誰を殺すのか、誰を守るのか、そんなことは知らないけど、とにかく怖いんだ。情けないかもしれないけど、マジで怖いんだよ」


 結愛は真剣だ。

 「それでも調べてみたいの」


 「俺は気が進まない」


 「まずはあたしの話を聞いてもらえる?」


 結愛は話があると言っていたので、聞くことにした。

 「うん……」


 「じつは……うちのお父さん、若い頃に奇霧界村のアパートに住んでいたの」


 「マジで?」意外な話に驚いた。「じゃあ当時の事件のことを詳しく知ってるってこと?」


 頷いたあと、京太郎から聞いた昔の話をした。

 「ヤシロマートを経営する前、引越祝いの夜に花火をしながら話した、自殺した親友、桃木茂さんと幕の内っていう名前のスーパーを経営していたの」


 「幕の内スーパー……」


 「変わった名前のスーパーだよね。当時、幕の内弁当を食べながらお店の名前を考えていたときに、桃木さんが、幕の内スーパーでよくないか、と、言ったのが名前の由来なんだって。お父さんも安易だろ? って笑って教えてくれた。

 でも、桃木さんの死が悲しくて店終いした。だから当時の事は余り話したがらないの。ネットで当時の事件のことを調べるよりも、お父さんに聞いた方が早いし、もっといろんなことがわかりそうな気がする。調べてみたいの、どうしても」


 「高校生の俺たちに何ができるんだよ」


 「かもしれないけど……もしかしたら魔のカーブでの死の連鎖を止める手段があるかもしれない」


 「あの怨霊を見るまでは幽霊とかぜんぜん信じてなかった。あれを見たらマジでそんな気失せるよ。そんな探偵ごっこするべきじゃない」


 怯えている気持ちは理解した上で、真摯な面持ちでまっすぐこちらを見つめて言った。

 「危ないと感じたらすぐにやめる」


 海斗も知りたいことがある。誰を守り、誰を殺すのか……何故、こちらの名前を知っていたのか。怨霊に接触したくないが、京太郎から当時の話を聞くだけ聞いてみよう。


 「わかったよ。その判断は俺がする。無茶はしてほしくないんだ」


 「うん」海斗の気持ちを理解した。「ちょっと、トイレ借りるね」

 

 ソファから腰を上げた結愛は、トイレへ向かった。引越祝いのときにトイレに入っているので、個性的な壁紙だと知っている。用を足して、手を洗った直後、壁紙に異変を感じた。


 蝶が羽を動かしている……


 目の錯覚かと思い、蝶を凝視した。


 やはり、動いている。


 驚いた結愛は、トイレから通路に飛び出した。

 「海斗君! ちょっと来て!」


 海斗はすぐにこちらに駆けつけた。

 「どうしたの?」


 「壁紙の蝶が動いているの」


 トイレを覗き込んだが、壁紙の中にいる蝶は動いていなかった。だが、蝶の配置がいつもと違うことに気づく。

 「なんか変だ」


 「一時的にでもいいから、あたしの家に避難しよう」


 「母さんに電話する。仕事から帰ってきたらまっすぐ結愛ちゃん家に来いって伝えないと」


 「知らせたほうがいい」


 スマートフォンを手にして、美波のスマートフォンに電話した、が 接客中なのか電話に出ない。


 「クソ!」


 仕方がないので留守番電話サービスにメッセージを残した。

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