11.死の連鎖

 ≪105号室》


 道子やその他の子供の霊体にキャンディをあげるのが日課の佐藤タエは、毎晩のように通路にキャンディを並べている。そして今夜ももいつものようにキャンディを通路に並べていた。


 「おばあちゃんですよ。私を連れておいき」


 すると、いつも来る霊体とは違う少年の魁斗が立っていた。頭から血を流し、土に塗れた体を捩らせながら、こちらへと歩を進めてきた。


 道子のような人の姿と変わらない霊体しか見たことがないのであとじさった。連れておいき、と、いつも言っていたタエだが、悍ましい姿に息を呑んだ。

 「……」だが孤独故に尋ねた。「あなた誰……」


 「助けて……」


 これが噂の怨霊か……私に助けを求めている。この命が役に立つなら、地獄に落ちても構わない。それが娘を捨てて男と逃げた私の罪滅ぼし。いくら後悔してもしきれない過去。


 「こんな私でよければ助けてあげる」


 魁斗がタエの頭を鷲掴みにした瞬間、コンクリート製の通路がスライムのように柔らかくなったのだ。体がコンクリートの中へ引きずり込まれていく。その後、タエと魁斗の姿は通路から消えた。


 102号室の玄関のドアがゆっくりと開いた。ほんの少し開けたドアの隙間から紫音が通路を覗き見る。


 やはり連れて逝かれたか。しかしどこへ連れて逝かれたのか。それさえわかれば魁斗の遺骨のある場所が特定できるのだが……


 「今夜は死の連鎖が起きそうだ……」


 紫音の感は当たった。死者はひとりではない。



 《103号室》


 精神科に通院中の美沙は、桶の中に湯を張り、亡くなった子供の代わりにしている赤ちゃんの人形を洗い始めた。


 「気持ちいい? ママが綺麗にしてあげる」


 旦那の直樹はその光景をじっと見ていた。

 

 美沙が狂った原因は溺愛していた8ヶ月の我が子の原因不明の突然死。

 

 直樹は口元の端に笑みを作った。


 真実は、原因不明で突然死んだわけではない。毎晩のように夜泣きが煩いから直樹が口を塞いで殺したのだ。悲しみで気が狂った妻を献身的に介護する自分、世間から良き夫と見られ、みんな同情してくれる。


 ポツリと呟いた。

 「世間って馬鹿だよね」


 人形を洗う。

 「よしよし、いい子ね」


 そろそろ精神科の入院病棟にぶち込んで、新しい女でも作りたいなぁ……と、考えながら、浴室へ向かった。


 熱めの風呂に浸かった直樹はゆっくりと目を瞑った。お湯炊き機能は止めたはずなのに、お湯の温度が上昇している。熱い……変だと思い、確認してみると、壁に設置されたお湯炊き機能を見てみるとランプがついていた。


 確かに消したはずなのに……と、首を傾げてお湯炊き機能のスイッチを推す。しかし、何回スイッチを押してもお湯炊き機能は消えない。


 余りの熱さに浴槽から出ようとした、そのとき、太腿に激痛を感じた。目線を下ろすと、浴槽からにょっきりと出たふやけた手が太腿に食い込んでいたのだ。


 「何だこれ!?」


 咄嗟に立ち上がろうした体を浴槽に引きずり込んだ。「助けてくれぇ!」と、ジタバタしながら助けを求めるが、美沙には何も聞こえていない。人形を洗うのに夢中だ。

 

 「ゴボゴポ……コポコポ……」


 お湯の中で溺れ、やがて息絶えた。


 その後、人形をあやす美沙の前に、先程タエをアスファルトに引きずり込んだ魁斗が現われた。タエ同様に美沙の頭を鷲掴みにすると、フローリングがスライムのように柔らかくなった。フローリングへと引きずり込まれた美沙はこの場から姿を消した。

 


 《303号室》


 近藤欽也と雅子の熟年夫婦は寝室へと向かった。


 ここに越してから奇妙なものを見ることが多くなったので、薄気味悪いと感じていた。今夜は何も見えなければよいが……先日金縛りに遭ったばかり。年金暮らしで厳しいが、このアパートを出ようかと考えていた。


 「おやすみなさい。あなた」


 「ああ、おやすみ」と、返事し、雅子の顔を見た。


 だがそれは雅子の顔ではなく、美幸の顔だったのだ。


 「ひっ!」


 顔に張り付いた長い髪の間から真っ赤に充血した双眸を覗かせ、欽也を凝視する。


 「ゴボゴポ……コポコポ……守る……殺す……殺す……ゴボッ…コポコポ……」

 

 心臓に持病を抱えていた欽也は悲鳴を上げる間もなく、激しい動悸に襲われた。

 雅子は突然自分の顔を見て発作を起こした欽也に驚き、何度も呼びかけたが、どうすることもできずに救急車を呼んだ。



 《402号室》


 町川祐介と酉井由真の同棲カップルはベッドの中で愛を確かめ合っていた。

 

 祐介はキスを交わして愛を語る。


 「好きだよ。もう一回いい?」


 「いいよ、あたしもしたい」


 由真の上に覆いかぶさり、もう一度快楽を得ようとしたとき、501号室に住んでいた熟年夫婦のように、由真の顔が美幸へと変化した。


 悍ましい顔に驚愕した祐介は、部屋から逃げようとした。

 

 祐介には真由が美幸に見えている。だが現実の真由はいつもどおりだ。彼がどうして悲鳴を上げているのかわからない。新しいプレイのひとつなのだろう、と、笑いながら彼を追いかけた。


 「捕まえるよ、待てぇ」


 怨霊が追いかけてくる。彼にとってこれ以上の恐怖はない。

 「来るな! 化け物!」


 この世のものとは思えない恐ろしい形相で、逃げても追いかけてくる。このままでは掴まって殺される。命の危機を感じた。


 テーブルに置いていたシャンパンのボトルで由真の頭部を強打した。


 「来るなぁぁぁ!」


 「ぎゃっ!」


 ボトルは木端微塵に砕け散り、彼女は即死だった。その直後、床に横たわる死体の顔が美幸から由真に戻っていった。


 「由真?」全身が震え、慄然とした。状況を呑み込むことができない。「どうして……」頭を抱え、泣き叫んだ。「どうしてだぁぁぁぁ!」


 自分は犯罪者になってしまった。真由の顔が突然化け物になった、そんな話を警察が信じてくれるはずがない。


 死んでしまいたい。


 もう死のう。


 自殺を考えた。突如、背後に怨霊と化した桃木茂が現れた。坂上と同じ位置に大きなほくろがあり、左手首はなかった。生々しい鮮烈な赤い手首から砕けた骨が剥き出しになっている。


 桃木は祐介の体に溶け込むように体内へと入っていった。


 ブツブツと独り言を言う。

 「ああ……苦しい……死ぬしかない……死ぬしかない……」


 桃木に憑依され、意識を乗っ取られた祐介は、寝室を出て、台所に向かった。まな板の上に左手を置き、包丁を振り落したのだ。周囲には血が飛散し、まな板の上には切り落した赤い左手首が載っていた。自殺を済ませると、桃木は祐介の体から出ていった。


 その直後、我に返った祐介の左手首に、いままで感じたことのない激痛が走る。尋常じゃない悲鳴を上げ、床の上でのたうち回り、やがて出血多量で息絶えた。

 


 《301号室》


 シングルマザーの佐々木恵は台所へ向かった。育児と仕事で疲れた唯一の楽しみは晩酌だ。グラスに氷を入れて、ウイスキーを注いで、炭酸水で割った。


 最近はまっているハイボールを飲むと、ストレスが緩和される。

 

 「美味しい。夜の一杯って最高」


 三杯ほど飲んで眠くなったので、電気を消してリビングルームから出た。寝室に入ろうとしたとき、玄関に人影が見えた。このアパートに住んで八ヶ月。幽霊を見たことはなかった。


 その影を凝視すると、ずぶ濡れの女が立っているのが見える。


 驚いて後じさった直後、美幸はここから姿を消した。


 美幸の姿を見た恵は身の危険を感じた。202号室の滝田昇も怨霊に殺されたとすでに噂になっている。このアパートにはもう住めない。

 

 しかし、“もうここには住めない”と思った住人は恵だけではない。各階でも美幸を目撃したという住人が続出した今夜、このアパートを出ることにした者が大半だった。


 事件に無関係なアパートの住人たちが次々と殺される―――美幸の殺戮―――


 何も知らない海斗と結愛がいる204号室のリビングルームにピーポー音が響いた。何事か、と、ベランダから外の様子を窺うと、駐車場に救急車が止まった。


 その後、心臓発作で倒れた欽也を乗せたストレッチャーを運ぶ救急隊員と、付添人の雅子の姿が見えた。ふたたびピーポー音を響かせながら近くの総合病院に向かった。


 「何があったんだろう」と、結愛は不安げな表情を浮かべた。「みんな引越しするべきだよ」


 「俺もそう思う」


 住人のことも気になるが、滝田昇が怪死したように、死の連鎖は続く。自分たちにはどうすることもできないので、今夜は休むことにした。


 リビングルームの電気を消そうとしたそのとき―――


 結愛の肩にポタ……ポタ……と、生温い水滴が滴り落ちた。


 視線を下ろし、肩に落ちた水滴を凝視する。


 水滴ではなく血液だった。


 「何これ!? 天井から血が!」


 ふたりは咄嗟に天井を見上げた。そこには、美波の肩に血を落とした男がいたのだ。男は四つん這いで天井にへばりついている。


 陥没した頭部から血を流す。男は苦しそうな呻き声を上げたあと、上の階へとすり抜けていった。

 

 海斗は慄然とする。

 「これ以上、危険に晒したくないんだ。自宅に戻ったほうがいい」


 「海斗君ひとりだけこんなところに置いて行けない」


 「俺が結愛ちゃんの自宅に住んだら、美幸もついてくるから……俺はここに居るしかないんだ」


 「だったらあたしもここにいる」


 この未解決事件を解決させたい結愛の決意は固い。守ってあげたいが、相手が怨霊ではどうすることもできない。

 「危なくなったら逃げて……」


 「わかってる」


 別々に寝るのは怖いので同じベッドで横になった。眠ろうと思っても悍ましい男を見たばかりだ。そう簡単に眠れない。


 ふたりがいる部屋の真上、304号室にすり抜けていった男は、久保田の様子を見下ろしていた。


 夜型人間の彼は、漫画を描いている途中で休憩をとっていた。台所で麦茶を飲みながら目を擦った。疲れた眼を取り外して、ざぶざぶと氷水で洗えたら、さぞすっきりするだろう……取り外し可能な目玉が欲しい、と、馬鹿げたことを考えながら洗面所に向かった。


 台所と脱衣所を仕切る木目調のドアをふと見た。気のせいかもしれないが、木目が日に日に人の顔になっているような気がしてならない……


 「ふふふ……」徹夜続きで頭が壊れ始めたのか軽く笑う。「人の顔になったんなら口もある。いいネタ喋ってくれよ」


 久保田は疲れ目を癒す為、洗面台に水を張り、顔を洗った。冷たい水の中で目を開けるとさっぱりする。


 顔を上げた瞬間、陥没した頭部から血に染まった脳みそを垂らした男が鏡に映った。男の顔は変形しているが、この事件を調べていた久保田は、すぐに美幸の恋人だった河野正敏だとわかった。


 人影を見るのはしょっちゅうだった。しかし、ここまで鮮明に見るのは初めてだ。作品の為に幽霊を見たいと願っていた久保田だったが、余りの恐ろしさに身震いし、身動きすら取れずに立ち竦む。

 

 これが本物―――

 

 「伝えてほしい……俺の替わりに……」悲しみを湛えた双眸で、鏡越しに久保田を見つめた。「お前の手を貸してほしい……」


 体に溶け込むように正敏が同化した瞬間、激しい悪寒に襲われ、心の中が暗闇と化していった。

 

 暗い地の底にある絶望の世界……そこで感じた感情は―――無念。


 正敏に憑依された久保田は思考を乗っ取られた。まるで男の傀儡のようにビングルームに歩を進ませた。デスクの周囲には資料や失敗した原稿用紙が床に散乱している。それらを踏んで、椅子に座って、万年筆にインクをつけた。尋常ではない凄まじい勢いで原稿用紙に絵を描き始めた。


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