2.不動産会社

 燦々とした太陽がアスファルトを照り付け、陽炎が揺れていた翌日の午後十三時。不動産屋に行った海斗と美波は、事故物件を担当する大塚が運転する自動車に乗って、アパートへと向かった。ふたりは大塚が事故物件の担当であることを知らない。


 「もう着きますよ」ハンドルを握る大塚が言った。「夜は車の通りも少ないので静かでいいですよ」


 海斗が返事した。

 「その代わり遊ぶ場所とか殆どないけど」


 「たしかに学生さんには暇な場所かもしれないですね」


 美波が言った。

 「お金がかからなくてこっちは助かるわ」


 「いいじゃん、母さん稼いでるんだから。ブランド品けっこう持ってるじゃん」


 「あれは客にもらったのよ」


 白い木造三階建てのアパートが見えた。アパートの裏にある駐車場に停車させ、大塚は自動車から降り、後部座席のドアを開けた。


 「さあ、どうぞ」


 アスファルトに降り立った美波は、手で顔を仰いだ。

 「暑い」


 海斗も自動車から降り、太陽に手を翳した。

 「きょうはヤバい」


 「今年は猛暑だそうです。さぁ、早くアパートに入りましょう」


 大塚はふたりを誘導し、アパートの表へと回った。


 正面にヤシロマートが見える。海斗はそちらへと目を向けるが、客の姿しか見えないので、諦めて山間に行く道路を指した。

 「ここをまっすぐ行けば、ここのアパートのモデルになったファントム奇霧界があるんですよね?」


 大塚は答える。

 「はい。ですが、殺人事件が起きたのは向こうのアパートなので、こちら側ではリアルに出たという話は聞かないですね」


 満室にしたいので嘘をついた。空き部屋が現在一部屋。それはいまからふたりが行く204号室だ。この部屋は入居者の殆どが半年未満で出て行く。


 ノルマ達成のために、いわくつき物件を売ろうとする自分に対し、入社したての頃は罪悪感と後ろめたさを感じて鬱屈した時期もあったが、因果な仕事なんだと思い込み、割り切れるようになっていった。


 慣れというのは恐ろしいもので、長年働いているうちに、感覚が麻痺して何も感じなくなってしまった。ファントムばかりでなく、他の事故物件も契約を取る。それで上司に見込まれ、いまでは事故物件担当となった。事故物件の入居者が不動産会社まで怒鳴り込みに来ることもあるが適当に対処している。いちいち気にしていられない。


 「あたしも海斗も霊感がないから、きっと何も見えないわね」


 入居者のいない204号室のベランダの奥にあるガラス戸に人影が映った。ずぶ濡れの女はガラス戸にてを付き、こちらを凝視している。だが三人は気づいていない。


 真っ赤に充血した双眸を見開いて、水の中で息を吐いた音を口から出した。

 「コポ……ゴポ……コポコポ……ゴボゴボ……」性別の判断ができない呻くような声で呟く。「海斗……見つけた……」

 

 悍ましい視線に気づくことのない大塚は笑顔で同じことを言った。

 「僕も同じです。さあ、お部屋にご案内します」


 三人は、壁に沿って設置された鉄骨階段を上ると、無精髭を生やした男とすれ違った。


 大塚は男に挨拶した。

 「こんにちは」


 「はい、こんちは……」不愛想な挨拶を返し、海斗と波恵を見た。「ん? 新しい入居者か? 確か、空き部屋は204号室だけだったような……」


 美波は笑顔で挨拶した。

 「こちらに住む予定です。よろしくお願いします」


 「よろしく。何か出たら教えてくれ。俺の部屋はなんだかぱっとしない」と言って、階段を下りていった。


 二階の通路に立った三人は、204号室へ向かった。

 

 大塚はドアの鍵穴に鍵を通して、取っ手を回した。

 「さあ、どうぞ」


 玄関に入った二人は靴を脱いで、廊下に上がった。


 美波は大塚に笑みを向けた。

 「四って日本人が嫌う数字でしょ? でもあたしたちにとってはラッキーナンバーなんです。じつは海斗の誕生日が二月四日なの」


 「そうなんですか。この部屋が開いていてちょうどよかった」

 

 「ここはトイレかな?」と、海斗は早速、目の前のドアを開けてみた。「おお! すげぇ、いいじゃん、この壁紙、気に入った!」


 普通の白い壁紙だったはず、と、大塚は訝しげな表情を浮かべた。


 美波も覗いてみた。

 「素敵! 蝶がいっぱい」

 

 蝶!?


 驚いた大塚は慌ててトイレを覗いた。すると、青い羽の蝶がプリントアウトされた壁紙に変っていたのだ。壁紙を変更したという話は聞いていない。事故物件担当の自分が聞かされないはずがない。


 一瞬動揺したが、不動産会社に戻ったら上司に訊いてみよう、と、気持ちを切り替えた。

 「気に入ってもらえて良かったです。正面のリビングルームドアを挟んだふたつのドアは寝室です」

 

 個性的なトイレの壁紙が気に入った二人は上機嫌。海斗は左の寝室を開けて、美波は右の寝室を開けた。

 

 海斗は少しつまらなさそうに言った。

 「なんだ、超フツー。ここの壁紙にも期待したのに」


 白い壁紙、大塚はむしろホッとした。

 「シンプルなんですよね」


 大塚はリビングルームのドアを開けた。入って右側に台所。そして向かい側にはベランダ。日当たり良好だ。ただし、ここは駐車場側に面しているので、結愛の家が見えないのが残念だ。


 「車しか見えないじゃん」


 「道路に面しているよりいいわよ。このほうが下着を干しても見えないから」台所の奥にある木目調のドアを開けた。「見て、洗面所と脱衣所がある」


 「風呂も見てみようぜ」

 

 リビングルームにいる大塚は、ベランダのガラス戸が汚れている事に気付いた。バスルームへ行ったふたりが戻ってくる前に汚れを拭き取ろらなければ。足音を立てずに素早くガラス戸に駆け寄った。


 しかし、その汚れは単なる汚れではなかった。

 

 よく見ると、泥水が付着した手でガラス戸を触れたような手形……


 フローリングにも濡れた足跡……その周囲には長い髪が数本落ちていた。


 一瞬、鳥肌が立った。ここに住んだ者は半年以内に出て行く。やはり、ここは事故物件。これを見られては住んでもらえない。スーツのジャケットのポケットからハンカチを取り出し、ガラス戸の手形を拭き取り、足跡を拭きとり、髪の毛をハンカチに包んだ。


 その直後、寝室にいた2人がこちらに戻ってきた。


 営業スマイルを絶やさなかった大塚が真顔だったので、美波が心配した。

 「大丈夫? なんか顔色が良くないけど」


 「ええ、大丈夫です」と、営業スマイルを浮かべた。


 美波は、嬉しそうにベランダに目をやった。


 「ベランダもある程度広いから洗濯物も干せるし、景色を眺めながらビールを飲んでもいいわね」

 

 トイレの壁紙、バルコニーのガラス戸、床の足跡、落ちていた髪の毛、全部が気持ち悪い……だが、契約を決める。すべてはノルマ達成のために。


 「お気に召しましたか?」


 「すごく気に入ったわ。この部屋に決めた」


 「ありがとうございます。それでは会社に戻って契約書にサインをお願いします」


 「はい」


 海斗はフローリングに寝っ転がった。

 「事故物件って聞いてたから、ぼろっちいのかと思っていたんだ。最高じゃん」


 「寝っ転がってないで行くわよ」


 美波と大塚がリビングから出た直後、「魁斗(かいと)……ゴボゴボ」と……不気味な声で名前を呼ばれた。咄嗟に背を起こして、周囲を見回したが、ここには自分ひとり。空耳だな、と、海斗も玄関に向かった。


 三人が去った静寂なリビングルームに、ベランダのガラス戸から海斗を凝視していた怨霊が現れた。


 長い髪を伝う水滴がポタポタと床に滴り落ちる……

 

 「ゴポ、ゴポ……コポ、コポ……」水の音が響き――――口から水が溢れ出した。


 「見つけた……魁斗……」と、呟いたあと、姿を消した。


 その直後、血に染まった男の生首がフローリングから、ぬっと出てきた。陥没した頭部から脳みそが垂れ下がり、顔が斜めに変形している。フローリングから這い出てきた男は、四つん這いで蜘蛛のように壁を上り、上の部屋へとすり抜けていった。


 




・・・・・・




 アパートの契約書の記入を終えた美波と海斗は、不動産会社をあとにした。


 大塚は、自動ドアから見えるふたりの後ろ姿が小さくなっていくのを確認し、ジャケットのポケットからハンカチを取り出した。


 これで手形を拭き、足跡を拭いて、髪の毛を包んだ……こんなにも気持ち悪い体験をしたのは初めてだ。


 デスクの側にあるゴミ箱に捨てた。


 霊感ある入居者はすぐに出ていく、というのはこういうことだったのか……リアルに見たら気持ち悪くて住めないだろうな。あのふたりも持って半年だな……


 「因果な仕事だ……」


 後方から上司に話しかけられた。

 「大塚、また契約決めたんだって?」


 「はい」


 「やるねぇ。さすがだ」


 「ちょっと訊きたいことがあるんですけど、トイレの壁紙、いつ蝶の模様の壁紙に取り替えたんですか?」


 「蝶の壁紙? 何を言ってるんだ?」


 つまり、白からは変更していない。

 「いえ……なんでもありません」


 「そうか、その調子でどんどん契約を決めてくれ」


 「はい」 


 だったら……あの壁紙はいったい何だったんだ?


 あの部屋はマジでヤバいかもしれない……

 

 だが俺は、ノルマ達成のために事故物件を容赦なく売りさばいていくのだろう――――



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