第13話 前途多難(ぜんとたなん)
13時30分、工場入口―――
社長としての麟の初めての挨拶。が、集まった従業員はざっと30名くらいであった。
澤井「林君、今日の出勤人数はどのくらい?」
林「少なく見積もって150名はいるはずです。」
澤井「これは、どういうことだ・・・」
集まった従業員を見渡す麟。若い従業員が一人もいない。多くは50代以上・・・といったところだろうか。見渡していると一人の男性従業員が麟の近くに歩み寄ってくる。
従業員「あの、少しよろしいですか?」
澤井「おお、渡部さん!今日はこんな人数少なかったですか?あ、海藤社長、こちらは工場をお任せしている工場長の渡部さんです。」
渡部「どうも、渡部です。」
麟「海藤麟です。よろしくお願いいたします。」
渡部「専務、少し良いですか?」
澤井「ええ、どうされました?」
渡部は澤井を促すと、5mほど離れた場所へ移動した。
渡部「専務、これはボイコットです。」
澤井「ボイコット!!!」
渡部「しっ!声が大きい!」
澤井「あっ、失礼。」
渡部「買収話ですよ。社内に広がっています。」
澤井「買収に応じろ・・・ということですか?」
渡部「従業員も不安なんですよ。先代が急逝してしまい、潰れるんじゃないかという噂が流れたタイミングで大手からの買収話でしたから。」
澤井「なるほど・・・。しかしこれだけまとまった行動となると、誰が糸を引いているのか・・・」
渡部「私も詳しくは存じませんが、そこにいる林だという噂です。」
澤井「えええ!林君が!!!」
渡部「声っ!」
澤井「ああ、失敬。」
渡部「何にしても、今日はこれだけしか来ないと思います。あとはどうされるかお任せします。」
澤井「わかりました。渡部さん、ありがとう。」
澤井はふぅと大きくため息をつくと、麟の元へ戻った。そして今聞いた渡部からの話を麟に耳打ちする。
澤井「・・・とのことです。いかがなさいますか?」
麟「問題ありません。ここで堂々としていないと、火が大きくなるだけです。ここまでではないですが、ある程度は予想もしていましたから大丈夫です。」
麟は渡部に近づき、声をかけた。
麟「渡部さん、教えてくださりありがとうございます。」
渡部「あ、いや、そんな・・・」
麟は渡部に一礼すると、振り返り、集まってくれた従業員へ向け言葉を発した。全社に聞こえるようにマイクを準備していたが、麟はすすめられたマイクを断った。
「初めまして・・・ではない方もおられるかもしれませんが、あらためて挨拶をいたします。海藤 麟と申します。先代:海藤 志郎が急逝し、この海藤印刷を受け継ぐこととしました。今後の方針やビジョンについては後日皆さんに公開する動画でお話しする予定にしていますので、ぜひそちらをご覧ください。本日はお集まりいただきまして、ありがとうございます。あまり話が長くなってもいけないので、今日はごく短く挨拶のみといたします。」
麟は一礼すると、従業員たちの所へ歩み寄り、一人一人に声をかけていった。
私が今、1番やらなきゃいけないことは不安を払拭すること!麟はそう考えていた。
「麟ちゃん、大きくなったねー」
「麟ちゃん、よろしくね!」
「いや、もう麟ちゃんはまずいだろ。」
「新社長、頼むぞー」
「よ!新社長!」
集まった従業員は皆、麟に好意的であった。
麟「皆さん、ありがとうございます。これからよろしくお願いします!!!さ、お仕事に戻ってください。」
麟は手を振りながら、戻っていく従業員を見送ると、
麟「さてと・・・」
麟「このマイクは全社に聞こえるってことで良いのですよね?」
麟は左手を腰に当て、顔を上げ前を向き、マイクをONにすると静かな、そして穏やかな口調で話し始めた。
「お仕事中に失礼します。そのまま手を止めずに聞いてください。私は海藤 麟です。先代:海藤 志郎の娘であり、海藤印刷の次期社長を務めます。今、海藤印刷の経営はハッキリ申し上げて良くありません。デジタル化によるペーパーレスの波に飲み込まれ、業績は下がっています。そのような折に先代が急逝し、次の社長は20代の小娘・・・とくれば皆さんもさぞご不安なことと存じます。私も皆さんと同じ立場なら不安で仕方ないと思います。ですが、対話もせずいきなりの実力行使はフェアじゃない。どうか思うことがあるなら皆さんのお話しを聞かせてください。これは社長として皆さんへ発する最初の命令だとお考えください。また皆さんが気になっている・・・ことと思いますが、大手企業からの買収の件については事実です。ですが、私はこの申し出をお断りしようと考えています。皆さんは大手企業の傘下の方が経営は安定し、給料も上がるとお考えになっていると思います。その通りかもしれません。ですが表があれば裏があるように、決して良いことだけではないことも事実です。具体的に何が良くないことなのか・・・それは皆さんとの対話の中でお話ししたいと思います。最後に今回のボイコットは正式な手続きを踏まれていることと思っていますが、もしも団体行動権の行使について正式な手続きを経ていない等の事実があれば、私は就業規則に照らし、その責任者を容赦なく罰するつもりであることをお伝えしておきます。以上です。お時間取らせてごめんなさい。」
君主論にはこう書いてある。
―――幸運(麟の場合は幸運とは言えないのであるが、ここでいう幸運とは“思いもしない出来事”を含むと解される)によって君主となった場合、登り詰める道中に何の困難も無かったのであるから、頂上にたどりつくと多くの困難が待ち受けている・・・と。そしてその困難に立ち向かうためには【自身の身の安全を確保し、味方を増やし、武力や策略で制圧し、人々からの敬愛と畏怖を勝ち取り、兵士に従われかつ敬われ、反抗する力と理由のある者たちを根絶し、古い制度を新しい制度に変え、苛烈にして慈悲深く、寛大でかつ気前よくし、言うことを聞かない軍隊は解体し、新しい自分の軍隊を創設し,近隣諸侯とは友好を保ち、彼らが進んで支援の手を差し伸べ、敵対するにも慎重を期さざるを得ないと考えるようにすることである。】―――と。
麟は順風満帆に行くなんて最初から思っていなかった。なぜなら君主論を読んで知っていたからである。ぽっと出の社長なんて誰からも信頼されていないし、まして畏怖されることなんて絶対に無い・・・と。そしてさらに安東から渡された韓非子には【法は公正かつ厳格に執行されなければならない。】と記載されている。よってルールはルールとして曲げてはいけないことも知っていたのである。
麟「さて・・・と。社長室に戻ります。澤井さんと林さんは一緒に来てください。」
社長室にて。
麟「澤井さん、黒鉄先生との本日中のアポイントをお願いします。今日が無理なら明日の午前でも構いません。林さん、就業規則の写しをください。そして今日来なかった方々との話し合いについて時間と場所を決めて、その方々に通知してください。今日中にお願いします。通知文書については私の机の上に置いていただけると助かります。また若林さんと撮影の日程等についても決めて教えてください。頼みます。」
澤井と林は承知しましたと社長室を後にした。
麟は社長室のブラインドを上げると強い日差しを浴びた。
「感情的な姿を見せるわけにはいかないから独り言だけど、伊達や酔狂で社長やるって言ってんじゃないの!小娘だと思ってナメてんじゃないわよ!」
麟の顔には強い覚悟と思いがあった。
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