第10話 三思後行(さんしこうこう)

「今日は良い1日だったな。」


麟は買収の話で始まった1日をそう感じていた。濃密な1日ではあったが、今まで「なんだか良さそう」で決めていた人生を「この道で生きていく!」と決意を固めたからである。祖父や父が突然いなくなることで歯車が狂ったという思いは今の麟の中からは消えていた。『下を向くな、前を向け!』父の言葉を胸に、振り返らず海藤印刷と共に前進あるのみ!と心に誓った。


澤井から「1週間後、帝国銀行との話の日までに経営理念をどうするか決めてほしい。そしてその日に従業員へ代表取締役就任の所信表明を行うので、文章を練っておいてね。」と言われていた麟は『理念』という言葉を調べてみた。


理念:不変の完全な存在。根底にある根本的な考え方。


心からあふれるような自分の言葉で――――


思いを手に取り、感情を豊かに。


「考えていると、もうこれで良いんじゃない?と思えてくるわね・・・。お父さんが頭から煙が出そうになった理由がよくわかるわ。」麟はつぶやく。ベッドに横になりながら考えていると、ふと印刷の起源が知りたくなった。

「印刷の起源は・・・っと。」


人は日々の暮らしを円滑にするため言葉を獲得する。脳が進化し、様々な事象を理解できるようになると、複雑な情報を的確に相手に伝えるにはいわゆる鳴き声だけでは足りなかったからである。そして文字が生まれる。なぜ文字を必要としたのか?それは集団の規模が大きくなると確実な情報伝達の手段が必要になったからである。伝言ゲームを経験したことがある者にとっては、口頭で正確に複数の人に伝えることがいかに難しいかを想像できるはずだ。10人に伝えることはできても、50人、100人に正確に伝えていくためには文字は絶対に必要になるのである。最初は絵や図形だったものが次第に文字へと進化していくのである。そして言葉と文字にイコールの関係を成立させ、複雑な情報を正確に伝える手段としたのである。極端な話をすれば、これが印刷の起源とも言えよう。


地面や石壁に文字を書く。雨が降ると消える。また書く。これを繰り返すうちに人は文字が消えない方法を探る。そうだ!硬い物に掘れば良い!と誰かが気づく。木や石に文字を掘ってみる。おお!消えない!こうして掲示板が生まれる。文字を掘るのは大変だ。時間がかかる。誰かが燃やした木を触ると手が黒くなることに気づく。そしてその燃えた木で文字を書く。おや?消えにくいぞ!墨の発見である。


必要は発明の母とはよく言ったもので、現代に生きる人にとっての当たり前は太古の昔に生きた人々の必要が生み出したものなのである。印刷は同じものを複製する技術である。同じものをいくつも書いていくのは骨が折れる。だから簡単に複製したいという思いが生まれ、木版印刷にたどり着く。だが木版は文字を掘らねばならないし、応用が利かない。だから活版印刷が生まれた。そして現代のオフセット印刷やレーザープリンターのような技術が生まれたのである。


「なるほどなー。情報伝達の手段としてどうしても印刷技術は必要だったのね。でも今はどうなんだろう。紙じゃなくてもデジタルでいろいろな記録を簡単に残すことができる。複製だってデジタルならコピペで一瞬。しかも大量に複製する必要はなくて、必要な時に必要な場所からダウンロードすれば良い。だったら紙の印刷は廃れていって当然だ。デジタル化の波には逆らえないし、時代に逆行しても良い結果が得られるとは思えない。紙で残す良さ、デジタルに残す良さ、それぞれをきちんと差別化して考えていかないと印刷業に未来はない・・・かな。」


印刷の歴史を考え、これからの未来を考え、いったい自分は何をどうしていきたいのか、麟は考えながらもいつの間にか寝てしまった。


翌朝。


「まだ6:00か。いつの間にか寝ちゃったけど、良い目覚めね。」


麟はベッドから起き上がると、カーテンを開け、思い切り太陽の光を浴びた。空は気持ちよく晴れており、ほのかに温かい光を浴びると一気にテンションが上がった。


「ちょっと走るか!」


ポニーテールに髪を結い、ジャージに着替え、軽い足取りで玄関を飛び出していく。考えないといけないことは多いけれど、不思議と身体は軽かった。見慣れた街並みに目を凝らしてみると、街の至る所に印刷物が存在していた。


「広告だって広い意味で印刷物よね。ポスターやポップだって印刷。情報媒体って考えると写真や動画だって印刷・・・とは言えないか。でも人が手に取り見るものという点では共通しているし、人の感情を喚起するという点でも共通しているのよね。情報媒体も印刷物も『誰かに見てもらいたいから存在する』んだわ。」


麟はゆっくり足を止めた。スマホを取り出し、メモを取る。


『見てもらいたい気持ちを100年、1000年先に残す。』

『言葉と思いを紡ぐ』

『伝わらないを伝える』


「印刷物の価値、海藤印刷の価値はこれよ!私は誰かの思いをきちんと形にして、届けることのお手伝いをしたい。海藤印刷は言葉と思いが集まる場所であってほしい。そしてみんなに見てもらいたい。紙じゃなくても良い。デジタルじゃなくても良い。それぞれに適した方法で届ける手段を提供したい!」


成り行きで経営を語っていた者が、理念をまとった経営者になった瞬間である。


足早に自室に戻るとPCを開き、今の心からあふれてくる言葉を打ち込んでいった。


海藤印刷経営理念『暮らしを便利に。感情を豊かに。思いをあなたに。』

人類が誕生して現在に至るまで、人は「伝えて残す手段」を模索し続けました。その結果、言葉が生まれ、文字が生まれ、そして印刷が生まれました。学校で学んだように文字は文化を発展させます。なぜならば伝えて残すことができたからです。私たちはこの「伝えて残す」を印刷業の本懐(ほんかい)と考えます。紙が適している場合は紙で。デジタルが適している場合はデジタルで。私たちは「伝えて残す」技術を発展させ、人々の暮らしを便利にし、読み手の感情を豊かにし、込められた思いを人々に伝え続けます。


基本方針

一つ、海藤印刷は思いが集まる場所として、コミュニケーションを諦めません。

一つ、海藤印刷は変わっていくもの、変わらないものを探求し続けます。

一つ、海藤印刷は自社の従業員から愛される会社であり続けます。


父と澤井の話を聞き、麟はどこかに「従業員から愛される会社」を入れたかった。世の中に従業員から愛されている会社はどのくらいあるであろう。少なくとも海藤印刷はそうであってほしい、そう麟は考えたのである。


「よし!できた!」


麟は満足感に浸りながら、白戸に見せてみようと考えた。時間も午前9時を過ぎたころで、麟は白戸へ電話を入れることにした。


麟「海藤印刷の海藤ですが、白戸先生との面談をどこかのお時間でお願いしたくお電話をいたしました。」


職員から先生に確認しますと言われ、電話を待っていると白戸が出た。


白戸「おお!海藤さん。おはよう。」

麟「先生、おはようございます。今少しお時間よろしいですか?」

白戸「うん、大丈夫だよ。面談の時間調整だったね。」

麟「はい。昨日お話しいただいた経営理念を考えたので、先生に見ていただきたくて。」

白戸「もう理念を固めたの!?早いねー。素晴らしい!」

麟「ありがとうございます。頑張りました。」

白戸「でもね、経営理念は誰かに評価されるものではないよ。海藤さんが貫き通すものだ。私に何か言われて変わるような経営理念なら、そんな経営理念は無い方が良い。」


そうだった・・・と麟は昨日のことを思い出した。自己満足に浸り、誰かに褒めてもらいたかった、すごい!と言ってほしかったのである。そこを白戸にたしなめられた。


白戸「ごめんね。ちょっと厳しく言い過ぎたかな。」


無言だった麟はいえ、そんな・・・と続けた。


白戸「海藤さんがこれで行くんだと決めた経営理念なら、私は何も言わないし、それを評価することもしないよ。どうしようか悩んでいるのであればいつでも話は聞くけどね。」

麟「先生、すみません。まだ重要性を理解できていませんでした。」

白戸「いやいや、昨日の今日で決められたことは素晴らしいし、ぜひ今の気持ちを持ち続けて欲しいと願っているよ。」

麟「ありがとうございます。お時間取らせてしまい申し訳ございませんでした。まずは澤井と話します。」

白戸「うん、それが良いね。では、また。」


はぁーやっちゃったー!!!

電話を切ると顔を真っ赤にして本気で恥ずかしがった。何かを完成させた時の満足感と、それを誰かに褒めてもらいたい気持ちで突っ走ってしまった。例えるなら、小学生が図画工作などで作品を作り、思いのほか完成度が高く、自己満足が最高潮になったときのようであった。見てみてー!ほら、すごいでしょ!!!こんな気持ちである。


そりゃ、怒られるよー

麟は反省すると同時に韓非子の一節を思い出す。


君はその欲する所を見(あらわ)すなかれ。

※君主は自分の願望、好き嫌いの感情を臣下にわかるように表に出してはならない。


白戸のようにおもねることなくビシッと意見を言ってくれるのはありがたい。単に経営理念とはそうじゃないぞと言ってくれただけかもしれないが、もしもおだてられて気持ちよくなったところに、間違ったことを吹き込まれでもしたら、理念の根幹が崩れていたかもしれないのだ。ましてこれからは「おお!すごいですね!」や「さすが社長!」と言われるような機会が多くなるはずだ。感情を読まれてはいけないのである。


ふぅ、と息をつくと「感情のコントロールを練習しなきゃ!」と澤井に電話をかけるのであった。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る