第9話 和衷協同(わちゅうきょうどう)

白戸は麟の海藤印刷代表取締役就任に当たり、麟が何を考えているのか興味があった。

白戸「さて、海藤さん、会社を継ぐことに決めたのは良いが、いったい何をしようと考えているのか教えてもらっても良いかい?」


麟は以前に書いた「社長になったらやる十のこと」を鞄から取り出し、白戸に見せた。


一つ、全従業員に挨拶代わりに夢を語る

一つ、全従業員と以下のテーマを直接話す

 ・海藤印刷の良いところ

 ・海藤印刷の改善すべきところ

 ・自分の長所

 ・同僚のここが素晴らしい

 ・才能を活かしきれていないと思う同僚

一つ、適材適所の組織再編(澤井さん)

一つ、規則と制度改革(安東先生)

一つ、財務改革と経営計画作成(白戸先生)

一つ、不忠な人物の解雇(黒鉄先生)

一つ、取引先挨拶

一つ、社長の仕事の見える化

一つ、社長は良い意味でヤベー奴になる

一つ、どんな日でも元気に明るく、全員に挨拶!


ほー、面白いね!と白戸は言う。そして手に赤ペンを持ち、書いて良いかな?と麟に尋ね、麟は頷く。

白戸「ここは、こうが良いかな。」


白戸は最初の「夢」という文字を丸で囲み、その上に「経営理念」と書いた。


麟「経営理念ですか?」

白戸「そう、経営理念。知ってる?」

麟「聞いたことがあるくらいです。」

白戸「では問題。今の海藤印刷の経営理念は?澤井さん、教えたらダメだよ。」

麟「ええ・・・、何だろう・・・」

白戸「お父さんから聞いたことない?」

麟「無い・・・です。」

白戸「では聞き方を変えよう。お父さんは海藤印刷をどうしたかったのだろう?何を成し遂げようとしていたのかな?」

麟「私が祖父からよく聞かされていたのは『印刷というのは思いを形にすること。そしてその思いを多くの人に知ってもらう手段なんだ。』という言葉です。なので父ももしかしたら・・・」

白戸「おお!さすがだね!海藤印刷の経営理念はまさにその言葉通りだよ。」

澤井「『思いを手に取り、感情を豊かに。』それが海藤印刷の経営理念です。」


澤井は麟をチラっと見た。


麟「あの、経営理念ってそもそも何なのですか?」


白戸「うん。そこが一番大切なところだね。経営理念とは簡単に言うと存在意義かな。なぜそこに企業が存在するのか、いったいその企業は何をしようとしているのかを内部にも外部にもわかりやすく明確にするものが経営理念なんだよ。」

麟「『思いを手に取り、感情を豊かに。』なるほど、そういうことなんですね。」

澤井「私も先々代からはよく聞かされましたよ。『喜怒哀楽、どの感情でも良いんだ。私たちが印刷したものを手に取って、人々の感情が少しでも豊かになれば。印刷し甲斐があるってもんだ。』と。」

麟「それは私も祖父から聞きました。それはもう何回も(笑)」

白戸「先々代は熱い人だったからね。何度も繰り返し伝えることはとても大切なんだよ。経営理念にはもう一つの大切な役割があるからね。」

麟「もう一つの役割ですか?」

白戸「そう、役割。何だと思う?」

麟「繰り返し伝えることが大切だとおっしゃってましたから、共通認識ってことですか?」

白戸「そう!共通認識。正確に言うなら『共通の価値基準』だね。この価値基準を基に意思決定をするのが強い会社なんだよ。だから社長にはこの経営理念との言行一致を求められる。社長の言動がブレていると、その経営理念は『絵に描いた餅』になってしまうからね。なので経営理念は経営者の心の底から溢れてくるような思いを言葉にしないとダメなんだ。思い付きで決めるようなことじゃない。そんな経営理念は結局、誰の記憶にも残らないし、まして従業員が大切にすることもない。」

麟「なんだか、怖いですね。経営理念。」

白戸「従業員が10人程度なら経営理念なんて無くても困ることは無いんだよ。だって従業員全員が社長のこと見ているし、知っているし、コミュニケーション取れるから。社長はきっとこう考えるだろうなって、なんとなくわかっちゃう。それに判断に迷ったら社長に聞けば済むからね。」

麟「10人どころじゃないですもんね、ウチは。」

白戸「そうだねぇ。200人くらいいるもんねぇ。」


白戸は少し意地悪く麟を見る。


白戸「200人もいると、すぐに社長に聞く!なんてことできないし、管理職もそこそこの数がいるし、全部社長が判断していたら仕事なんて回らないからね。だからこそ管理職が意思決定をする際に経営理念が根底にあると、大きく間違えることはまず無い・・・というわけだ。」

麟「社長は常に経営理念を根底に置いた判断をし、管理職にも経営理念を伝え、共通の価値基準としておくってことですね。」

白戸「そう!それと同時になぜ海藤印刷がそこに存在するのかを周知しておくと、皆が会社をイメージしやすくなるってことなんだよ。そして社長にも従業員にも、この経営理念を根底に置いた考え方を求められるし、行動もまた求められるってわけだ。外部は従業員を見、従業員は管理職を見、管理職は社長を見る!常に見られている覚悟はしておいたほうが良いよ。」

麟「そうかぁ・・・大丈夫かな、私・・・」

白戸「まずは海藤印刷の今の経営理念が自分に嚙み砕けるかをしっかりと考えなさい。自分の心の底からあふれる言葉にできるかを自問自答して、大丈夫なら今の経営理念をそのまま自分の言葉にしなさい。もしもどこかに引っかかったり、自分の心とは違うところがあれば今の経営理念をそのまま引き継ぐ必要はない。自分の言葉にしたほうが良いと私は思うよ。誰の言葉だったかな、確か・・・」


白戸はそう言うと、自分のデスクから1枚のメモを取り出してきた。

メモには・・・


思考に気をつけなさい、

それはいつか言葉になるから。


言葉に気をつけなさい、

それはいつか行動になるから。


行動に気をつけなさい、

それはいつか習慣になるから。


習慣に気をつけなさい、

それはいつか性格になるから。


性格に気をつけなさい、

それはいつか運命になるから。


と書かれてあった。


偽りの経営理念を言葉にすれば、偽ることが当たり前になり、それが行動になってしまう。経営者は常に見られている。管理職は経営者の偽りを見抜く。それを忘れてはならない。


白戸の言葉は重かった。自分で考え、行動できるかを問え。それができないならばその経営理念は偽りだと言われている気がした。


『思いを手に取り、感情を豊かに。』


麟はこの言葉が好きであった。祖父からずっと聞かされていたこともあるが、麟自身、本が好きだったし、本のおかげでいろいろなことを学んだことは事実であった。ただ、この言葉が自分の心から溢れるような言葉かと言われると、正直悩むところであったのである。



白戸との話はこの後も続いたのだったが、麟はほぼ覚えていなかった。

『思いを手に取り、感情を豊かに。』

『思いを手に取り、感情を豊かに。』

『思いを手に取り、感情を豊かに。』

この言葉がずっと脳内を往復していたからである。


それを帰りの車中で澤井に指摘され、顔を赤らめながら麟は謝った。


澤井「思い出すなぁ、志郎先輩も頭から湯気が出るほど考えていたよ。」

麟「経営理念をですか?」

澤井「そう、今と同じように先輩も白戸先生に言われていたよ。ただ麟ちゃんの方が先輩よりも賢いから、段違いに飲み込みは早いけどね。」


そう言うと澤井は楽しそうに笑った。


澤井「先輩、勉強は嫌いだったからなぁ。この手の話になると『澤井、あとは任せた!』ってすぐ言ってたよ。逃げられないのにね。まぁ、それでも先々代の理念を引き継ぐことに決めたのは麟ちゃんが本が大好きだったからかな。」

麟「私ですか!?」

澤井「まだ奥様がご存命だったとき、夜になるといつも本を読んでってねだってたって聞いているよ。」

麟「あぁ、なんだか恥ずかしい。」

澤井「先輩は『なんで俺にねだらないんだ!』って笑いながら話していたよ。」

麟「お父さん、読んでる途中に寝ちゃうんですよ(笑)」

澤井「それは初耳だ(笑)先輩も言わないわけだ。」


車中は和やかに、そして何より麟は楽しかった。


澤井「理念は麟ちゃんの思いを言葉にすると良いよ。麟ちゃんがどんな会社にしたいのか、会社を通して何をしたいのか、自分の言葉で考えてほしい。」

麟「はい、考えてみます。」

澤井「うん。思いを継ぐのは理念をそのまま継承するということではないから、自由に考えてみて。」

麟「はい!ありがとうございます。ところで・・・」


麟は澤井に父:志郎との思い出話をお願いした。

自分の知らない父の姿、祖父の姿、会社での出来事、何でも知りたかった。

そして澤井の思いを知りたかった。


思いを紡いでいくために・・・

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