第4話 愛別離苦(あいべつりく)

白戸税理士事務所に向かう道中、麟は韓非子に書かれていたことを思い出す。『利害が一致している間は互いの関係が悪くなる道理がない』海藤印刷の業績が上がることは麟と澤井にとって利害は一致しているはずだ。であれば澤井はなぜ麟が利益を上げると言ったときに声を荒げたのか。簡単ではないが、共に頑張ろうで済んだのではないか?そうなると澤井の利益とは一体何なのか…。


私に社長になって欲しくない…のかな。


そう考えると妙に納得できた。しかしながら韓非子には『判断は証拠に基づけ』と書いてある。思い込みで決めつけるのは危険ね…麟はそう思った。


麟が考え事をしていると澤井から声をかけられる。

澤井「さっきはこちらも申し訳なかった。大人げないと反省している。ただ印刷業界の現状と、海藤印刷の実際を正しく知って欲しい。」

麟「はい。私も失礼をしました。すみません。」

澤井「うん。今から行く白戸先生は海藤印刷の経営状況を正確に把握されている。先生にいろいろ教えてもらうと良いよ。」

麟「はい。そうします。」

澤井はそう言うと再び口を閉じた。


白戸税理士事務所に到着すると先に澤井が降り、麟が乗る後部座席のドアを開ける。

澤井「さ、着いたよ。行こうか。」

澤井に促され、麟はありがとうございますと言いながら車から出る。黒鉄法律事務所の時と同様に受付で挨拶をしていると、ちょうど白戸が通りかかった。

白戸「おお、澤井さん。ようこそ。」

澤井「先生、よろしくお願いします。こちらは…」

と言いかけると白戸が先に

白戸「海藤社長の娘さんだね。式場での挨拶は見事だったよ。素晴らしかった。白戸と言います。よろしくね。」

と挨拶をしてくれた。

麟「海藤 麟です。祖父と父が大変お世話になっております。」

麟がそう挨拶をすると、立ち話も何だからこっちへおいでと所長室へと案内された。


白戸「さて、今日は相続のことと聞いているけれど、間違いないかい?」

澤井「はい、先々代と先代の相続の件で参りました。」

白戸「まだ財産目録の詳細を教えてもらえてないから、海藤印刷の自社株評価だけになるけれど良いかな。」

澤井「目録は黒鉄先生が作成いただけることになっていますので、完成次第すぐに白戸先生へお渡しします。」

白戸「うん、わかった。それで自社株なんだけどね約5億だ。」

澤井「5億!そんなに高額に…」

白戸「これは私の責任でもあるね…。海藤さんは銀行対策に純資産を厚くしてたから、高くなってしまってね。娘さんへの相続対策を60歳になってからと言われていたんだ。それが突然こんなことになってしまって、対策のしようがなかった。」

澤井「今からできることは何かないのでしょうか?」

白戸「今から何かを行えば租税回避行為とみなされかねない。無策でお恥ずかしい限りだが、納税資金の捻出を考えたほうが良いだろうね。」

澤井「そうですか。先生、仮に相続財産の総額が10億だとすると、納税資金はいくら必要でしょうか?」

白戸「約半分とみて5億弱だね。5億あればその他の手続きもろもろ合わせても足りるんじゃないかな。」

澤井「ギリギリなんとかなるかもしれません。先代の資産次第ですが…」


麟は今まで自分の人生で関係したことのない大きな数字に戸惑っていた。この人たちは平気で億単位の話ができるのだと感心すらしていた。父が買ってくれたプレゼントでも30万円を超えたことはない。1億ってその何倍よ…と頭の中で数字がグルグル回る。それを納税資金が5億って…ちょっと高いかなーって思ってるケーキが1個800円だから、何個買えちゃうのよ、と脳が現実逃避をしていた。ただ、自分もこの話を普通にできなきゃいけないのだということだけはしっかり理解していた。


澤井「先生、また財産目録ができたら詳細をお願いいたします。」

白戸「承知した。連絡待ってるよ。」

麟「あ、あの…何から何までお任せしてしまって申し訳ございません。」

白戸「ん?ああ、良いんだよ。これが仕事だからね。こんなに自社株が高くなってしまったのは、私にも責任の一端はあるからね。こちらこそ申し訳ない。」

白戸は麟に頭を下げる。

麟「いえいえ、やめてください。澤井さんも病院からここまでいろいろありがとうございます。」

麟は澤井に向き直り、頭を下げる。

澤井「私もこれが仕事みたいなものだから、気にしなくて良い。」

さて、先生、と澤井が続ける。

澤井「ここにいる麟ちゃん、いや、海藤さんに弊社の財務状況を簡単にレクチャーしていただけませんか?」

白戸「ああ、そうだね。次期社長だと挨拶されていたから、しっかりと財務も把握してもらわないといけないね。ちょうどここに過去5年の決算資料があるから、これを説明しようか。」

すると麟はこう答える。

麟「白戸先生、先生にはこれからいろいろと教えていただかないといけないと思います。でも今、先生から教えていただいてもきっと半分も理解できないと思います。私に知識がないからです。ですので、今日はこの資料をコピーさせてもらえませんか?持ち帰って、まずは自分で勉強します。」

麟の発言を聞き、白戸は少し考えると澤井をチラッと見る。

澤井「弊社としては何も問題ございません。」

白戸「よし、じゃあコピーをしてこよう。」

白戸は立ち上がり、内線で職員に声をかけた。


白戸「勉強するのは良いことだ。教わる前に自ら学ぶ。それから聞いてもらったほうが確かに理解しやすいだろうね。私に聞きたいことがある時はいつでも事務所へ連絡しなさい。職員がいつでも対応できるように伝えておくよ。ウチの職員は優秀だから、私よりも説明が上手いかもしれない。」

白戸はそう言うと、はははと笑っていた。

麟「学びて思はざれば則ち暗し、思いて学ばされば則ち危うし。ですよね。」

白戸「ほう!海藤さんは論語をご存知なのか。しっかり勉強しているようだね、感心感心。」

二人のやり取りを聞きながら、澤井は少し頬を緩ませていた。


澤井「それでは先生、本日はありがとうございました。また連絡いたします。」

麟「ありがとうございました。」

澤井と麟はコピーを受け取り、白戸へ頭を下げた。

白戸「いつでも連絡して良いからね。」

白戸はニコリと微笑んでいた。


事務所を出ると澤井は車の後部座席のドアを開ける。

麟「あの、おじ…いえ、澤井さん。私、頑張ります。」

澤井「乗りなさい。」

澤井が少しだけ微笑んでいたように見えた。

澤井「このまま直接自宅に戻っても良いかな?」

麟「はい、お願いします。」


麟の自宅に到着すると、澤井はまた連絡する、と言い麟を降ろす。

麟「ありがとうございました。今からこれ(5年分の決算資料)を勉強します。」

澤井「決算資料の見方を勉強するなら、財務会計を学ぶより株式投資から学んだ方が良いかもしれない。まぁ、自分がやりやすいと思う方法で勉強しなさい。」

麟「はい、そうします。」

麟は一礼をして、澤井を見送った。


麟「決算資料ってこんなに分厚いのね…」

そうつぶやきながら自宅に戻ると、やるべきことを整理した。

・決算資料を理解する

・自社株について調べる

・韓非子をもう一度最初から読む

キッチンからパンと紅茶を準備すると、自室にこもり父に買ってもらったノートPCを開けると検索窓に「決算資料の見方」と打ち込んだ。何がポイントなのかもわからない麟は検索順位の上から見ていくことにした。いくつかのサイトを見ていくと共通している点があり、麟はいつものノートにメモを取り始める。

・貸借対照表(BS:バランスシート)→左半分(借方)がお金の使い道、右半分(貸方)がお金の出所

・左半分(借方)は資産の部と言われる

・右半分(貸方)は負債の部と純資産の部と言われる

・右半分(貸方)のお金をどのように会社が保有しているかを左半分(借方)に書いてある

・負債の部は言い替えると借金。いつか返さないといけないお金

・純資産の部は会社が稼いだお金

・出所と使い道なので、総額は必ず一致する

・損益計算書(PL:プロフィットアンドロスステートメント)→いわゆる家計簿。会社の1年間の家計簿だと思えば良い。収入-支出=利益

・変動損益計算書→損益計算書の支出を変動費と固定費に分けたもの

・変動費→会社の売上に比例して増えていく費用。例えば材料費など

・固定費→会社の売上に関係なく必ず必要になる費用。例えば人件費など

・売上-変動費=限界利益(通称粗利)

・限界利益=固定費となるところが損益分岐点(黒字と赤字の境界線)

・キャッシュフロー計算書…


ダメだ…集中力の限界…

麟は空になったカップに紅茶を淹れ直そうと、立ち上がった。

お父さんもこんな勉強したのかな…家でこんなの見ているところを見たことないけれど。

そう思うと、ふと父の部屋が気になり、覗いてみることにした。


静かな父の部屋。つい先日まではここに父がいた。静かな部屋。ガランと感じる部屋。おーい、麟と呼ぶ声がしていた部屋。

母が早逝(そうせい)し、祖父と父が育ててくれた。厳しかったが、愛情に溢れていた。

お父さん…おじいちゃん…

慌ただしい日々の中で麻痺していた感情が溢れ出した。本棚の前に座り込み、溢れる涙を拭う。


ふと見上げると本棚には経営に関する書籍がたくさんあった。社長が知っておくべき財務諸表、銀行員はココを見る、帝王学、などなど。お父さんも勉強したんだな…と思いながら本を手に取りパラパラとめくる。ところどころに鉛筆で丸をつけていたり、澤井に相談と走り書きしていたりしていた。

麟「なによ、汚い字…」

そう思いながら麟は本を抱きしめた。







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