第3話 読書三到(どくしょさんとう)

『韓非子』

古代中国、秦の始皇帝嬴政が中華統一を果たす少し前、春秋戦国の世に記された名著。

荀子に学んだ韓非が記したものとされる。人の行動原理は利益であるとし、徳治主義を真っ向否定。統治に必要なのは道徳ではなく、法であると述べている。

※徳治主義→国を治めるには仁や礼といった、人としての道徳こそが重要であるとした思想。この思想を提唱した人物として孔子が有名。


自宅に戻った麟は韓非子を読みふける。

(難しい…難し過ぎる。これは全部理解しようなんて思わない方が良いわね。大切だと思った所を書き出していこう…)

麟はノートにメモを取る。

・人間の本質的な行動原理は利益である

・人間関係が整っていない人に自分の意見が通ると思うな

・統治者は感情や好き嫌いを表に出してはいけない

・優れた統治者は自ら知恵があってもそれを表に出さず、臣下に知恵を出させる

・他人を信用し過ぎてはいけない

・信賞必罰

・褒賞や罰は統治者自身が決める。他人に決定させてはならない

・一度決めた法は上下を問わず厳格に執行する

・褒賞も罰も噂で決めてはならない。確実な証拠のもとに決定する

・下の者は上の者が法に従い処罰されると、それによく従うようになる

・大事の前の小事。小さいことにもしっかり目を向けておくこと。特に越権行為は見逃してはならない。


麟「こうしてノートに書くと理解が深まった気がするわね。はぁ〜疲れた〜」

と麟が嘆いているときであった。


ブーブーブー(スマホのバイブレーション)


見ると海藤印刷からの電話であった。

麟「はい、海藤です。」

澤井「麟ちゃんかい?そろそろ落ち着くころだと思ってね。」

麟「おかげさまで役所関係の手続きはすべて終わりました。これもおじさんと林さんのおかげです。ありがとうございました。」

澤井「いやいや、お礼を言われることでもないよ。ところで明日は時間あるかな?」

麟「はい。特に予定はありません。」

澤井「そう、それは良かった。明日の朝9:00に迎えに行くから、出かける準備をしておいてもらえるかな。黒鉄先生の所に行くからね。」

麟「黒鉄先生ですか…用件は?」

澤井「黒鉄先生には先々代の遺言書を預かってもらっているから、麟ちゃんと一緒に中を確認しないと相続が進められないんだ。」

麟「わかりました。明日の朝9:00ですね。準備しておきます。」


相続か…。と麟はつぶやき、スマホで相続のことを調べ始める。麟以外に近親者はいない。であれば相続は麟のみである。祖父の遺言がどのようなものであるかはわからないが、おそらく父にすべてを譲るといった内容であろうと麟は考えていた。父は遺言書を書いているのだろうか?と疑問に思ったが、明日黒鉄から聞けば済むことだと一人で納得していた。


翌朝、約束の時間ちょうどに澤井がやって来た。澤井は車を降り、麟を迎えると、おはようと挨拶をした。麟もおはようございますと返し、そのまま車に乗り込んだ。

澤井「麟ちゃんは黒鉄先生とは面識あるよね?」

麟「はい、何度か自宅に来られていたので、挨拶くらいですが面識はあります。」

澤井「そうか、それなら良かった。」

麟「あの、会社はその後何か問題ありませんか?」

澤井「うん、特に無いかな。社長の予定を代行してるくらいで、現場はいつもと変わっていないよ。」

麟「そうですか、良かった。突然のことで、いろいろご迷惑をおかけしてすみません。」

澤井「気にしなくて大丈夫だよ。これは麟ちゃんがいてもいなくてもやらなきゃならないことだからね。」


麟は気になる言い方だなと思いながら、確かに自分がいてもいなくても葬儀はやるだろうし、相続にも会社として関わらないといけないよねと聞き流すことにした。


澤井「さ、着いたよ。」

黒鉄法律事務所。海藤印刷の顧問弁護士、黒鉄が代表を務める法律事務所である。先々代からお世話になっており、会社だけではなく海藤家のことにも深く関わっている。


澤井「おはようございます。黒鉄先生とお約束で参りました。」

澤井は受付で用件を伝え、取り次ぎを頼んだ。少しお待ちくださいから程なくして、こちらへと案内される。


コンコンコン


受付「先生、海藤印刷の澤井専務がお越しです。」

黒鉄「どうぞ。」

中からそう声がすると、ガチャリとドアを開ける。


黒鉄「時間通りだね。いらっしゃい。」

澤井「先生、お時間いただきありがとうございます。」

麟「先日はご会葬いただきまして、ありがとうございました。」

黒鉄「いやー、麟ちゃん、大きくなったね。式場での挨拶は素晴らしかったよ。さ、そこに座って。」

麟と澤井は硬めのソファに腰掛ける。

黒鉄「最後に会ったのはいつだったかな?5年前くらいかな。」

麟「いつか…まではすみません、覚えてないです。」

黒鉄「まぁ、簡単に挨拶したくらいだからねぇ。そりゃ覚えてないか。」

黒鉄は軽く笑いながら話を続けた。 

黒鉄「今日は先々代から預かった遺言書を麟ちゃんに渡すために来てもらったんだ。先々代とは私が先にあの世に行くかも…なんて二人で笑いながら話していたが、きちんと役目をまっとうできて良かった…いや、これは失言かな。」

麟「いえいえ、先生がいらっしゃると心強いです。」

そう話していると、お茶が運ばれてきた。澤井は出されたお茶を一口飲むと、静かに二人の話を聞いている。

黒鉄「さて、これが先々代の遺言書だ。公正証書にしてあるから、裁判所の検認は不要。どうする?麟ちゃんが開けるかい?」

麟「いえ、先生が開封してください。」

黒鉄「では、開けるよ。」

遺言書には『一つ、私の所有する財産は、そのすべてを子、海藤 志郎に譲る。』とだけ書かれており、財産目録が添付されてあった。預金と有価証券が先々代の遺した財産であった。

黒鉄「まぁ、ここまでは麟ちゃんも予想していたことだと思う。さて、先々代からは遺言書を預かっていたが、先代はまだ遺言書を記載していなかった。だから先代の相続については法定相続という形になる。遺族は麟ちゃんだけだから、先代の分もすべて麟ちゃんが相続することになるが、澤井さん、それで問題ないかな?」

澤井「社としては何も問題ございません。」

黒鉄「では、あとは私が責任をもって執行していくとしよう。麟ちゃんもそれで良いかね?」

麟「はい。おまかせします。」

と言いながら、ハッと思い出した。

麟「先生、金庫の開け方が…」

黒鉄「開けようとしたのかい?」

麟「はい…え、ダメでした?」

黒鉄「厳密にはダメなのだが、まぁ、相続人は麟ちゃんしかいないから問題ないか。」

麟「すみません…」

黒鉄「いやいや、法律で開けるな!って書いているわけでもないし、実際の相続を経験しないとなかなかわからないよね。麟ちゃんは法律の勉強はしたことある?」

麟「……法学部です…」

黒鉄「うん…まぁ…聞かなかったことにしておこう(笑)金庫の鍵と番号も預かっているから、私が執行者として、ご自宅にうかがうよ。」

黒鉄「最後に確認だけれど、麟ちゃん、今回の相続は単純承認ってことで良いかい?」

麟「祖父と父に負債はあるのでしょうか?」

黒鉄「そこは澤井さん、どうなの?」

澤井「プライベートな負債はわかりかねますが、会社の負債については先代が長期借入金の連帯保証人になっています。」

黒鉄「連帯保証か…。根保証かい?」

澤井「いえ、通常の連帯保証です。」

黒鉄「いくら残っているの?」

澤井「約2億です。」

黒鉄「保証抜けない?」

澤井「まだ銀行とは…」

黒鉄「そうか…」

澤井「ただ役員退職金を生命保険で合計2億5千万準備していますので、それで何とか。」

黒鉄「相続税の計算を急いだほうが良いかもしれないね。」

澤井「税理士の白戸先生にすでに話をしております。」

黒鉄「詳細がわかったら連絡くれるかね。」

澤井「はい、必ず。」

二人のやり取りに麟はついていけなかった。何の話をしているのか、どうやら会社で借りているお金の保証人になっているらしい…くらいしか理解できなかった。

黒鉄「麟ちゃん、単純承認すると会社の連帯保証人の地位まで引き継ぐことになる。仮に限定承認しても地位は引き継がれる。ここで問題なのは麟ちゃんが海藤印刷の株式をすべて相続することなんだ。株式の評価額によっては限定承認の意味をなさないことがある。相続税も高額になるかもしれないし、それを上手く払えたとしても株式評価のせいで手元にお金が無くても連帯保証を引き受けざるを得ない。株を手放すことができれば良いが、それだと会社の経営権に関わってくるかもしれない。わかるかい?」

麟「ええと…つまり…どういうことですか???」

黒鉄と澤井はうなだれる。

麟「すみません…無知でごめんなさい…」

黒鉄「いや、まだ20歳そこそこの若者にまくし立てたこちらも悪かったね。簡単に言うと麟ちゃんが海藤印刷を継いで、もし経営が悪くなってしまった時に銀行からお金を返せと言われたら、手元にお金が無くても返さないといけなくなるということだよ。」

麟「それが2億円ってことですか?」

澤井「要は麟ちゃんに会社の負債を背負う覚悟があるか?ってことだよ。今は2億だが、経営していればこれは減っていく。それに今すぐ返さないといけないものではない。だがそれを背負えるかって話だ。」

麟「会社で利益を出して、銀行に返せば問題ないですよね?」

澤井「はぁ…。印刷業界が今どういう状況かわかるかい?海藤印刷だって、赤字ではないがギリギリの状態なんだ。利益を出すのも簡単じゃない。」

麟「それでも…」

ふと麟の中で何かが弾けた。

麟「それでも利益を出して、従業員を守っていくのが会社でしょう!やる前から悪くなることばかり考えて何になるんですか!私は父から『下を向くな!前を向け!』と教えられて育ちました。説得力も何もありませんが、私がやります。海藤印刷を立て直して見せます!」

澤井「甘いんだよ!業界も現場も何もわかっていない小娘が、どうやって利益を出せるんだ!」

黒鉄「二人とも、そこまでにしなさい。」

黒鉄は息をつく。

黒鉄「澤井さん、若者をいじめるんじゃない。ここにいるのは未来の社長だ。君が懸命に会社に尽くしているのはよくわかっているよ。だからこそ綺麗事を並べられると腹が立つんだよね。ただ、これからって時に二人が言い争っても生まれるのは互いに対する悪意だけだ。良いことじゃない。わかるね。」

黒鉄「麟ちゃんもおじいちゃんとお父さんが頑張って築いてきたものを否定されたように聞こえてしまって、怒ってしまったんだよね。でも会社に貢献してきた澤井さんと言い争ってもその気持ちは晴れないよ。まずはきちんと現実を学びなさい。話はそれからかな。」

麟「すみません…でした。」

黒鉄「謝る相手が違うんじゃないかい?」

麟は澤井の方へ向き直り謝罪した。澤井もまた麟へ申し訳ないと謝罪した。

黒鉄「うん、さすが海藤印刷の幹部だ。よく話がわかる。さて、今日はここまでかな。」

澤井「ありがとうございました。これからこの足で白戸先生の所に行ってきます。」

黒鉄「うん、相続評価が終わったらまた連絡してください。あ!麟ちゃん、近いうちに電話するから、金庫はそれからね。」

麟「はい、ありがとうございます。」

黒鉄「では、気をつけて帰りなさい。」


黒鉄法律事務所を出て、澤井は後部座席のドアを開け麟に乗るように促す。

麟「さっきはごめんなさい。感情的になりました。お世話になったおじさんに対する言葉ではなかったと思います。」

澤井「良いから、乗りなさい。」

二人は車に乗り込むと、白戸税理士事務所へ向かった。


車中で麟は思う。


・人間関係が整っていない人に自分の意見が通ると思うな

・統治者は感情や好き嫌いを表に出してはいけない

・優れた統治者は自ら知恵があってもそれを表に出さず、臣下に知恵を出させる


帰ったらまた韓非子読まなきゃ…と。




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