第2話 洗耳恭聴(せんじきょうちょう)
火葬、納骨、死後の手続き、麟には為すべきことがたくさんあった。火葬の際に澤井の部下、林に今後の手続きが一覧になった書類を渡され、一通りの説明は受けていたが、何一つ学校で教わることがない手続きや仕組みに麟は戸惑うばかりであった。
(何度も役所に行かなきゃいけないのね…。何よこの仕組み。一度で終わるようにしなさいよ。あとオンラインでできることが何もないのもどうかしてる。行政も時代に追いついて来てないのね。まぁ、ボヤいていても始まらないし、私がしっかりしなきゃ。相続のことも書いてくれているけれど、もうちんぷんかんぷんで、調べることたくさんありすぎ!)
告別式から7日。落ち着かない日々を過ごしているうちに月が替わり4月になっていた。新社会人として巨大IT企業で優雅に働くことを夢見ていた麟にとっては、訃報から今日までの日々が今でも夢のように思えて仕方なかった。スマホを片手に書類の山と格闘しながら、ある出来事に麟は絶望する。
麟「金庫の開け方がわからなーーーーーい!!!」
幸い、健康保険証などは二人の鞄から見つけたので役所の手続きで必要になりそうなものは手元にあった。なので金庫は後回し!麟はそう思った。
役所で一通りの手続きを終え、役所の食堂で昼食をとりながら、麟は考えていた。
(おじさんから落ち着いたら電話してって言われてたな。明日にでもかけてみよう。それから…あと何をしなきゃいけないんだっけ…。そうだ!社長をどうするか決めないといけないんだった!社長かぁ…。何をするのよ、社長って。何も知らない私が社長をするよりもおじさんにお願いしたほうが良いのかな。でもそれだとお父さんに怒られそうな気がするのよね。『それでも俺の娘か!』って声が聞こえてきそう。あぁ、大学で経営とか経済を学んでおくんだった…法学部は失敗だったかな…。気が重いよ…おじいちゃん、お父さん…。)
はぁ…と溜め息をつきながら、食堂を出て、役所の出口へ向かう。
自動ドアが開くと、思い切り春の日差しを浴びる。
麟「眩しい!」
思わずそう声を出すと、右手でひさしを作り目を細めた。
麟「よし、行くか!」
麟は卒業したばかりの大学へ歩き始めた。
(何から始めて良いかもわからないし、ここは大学の先生たちの力を借りよう。はぁ…こんなことになるのなら、もっとちゃんと勉強しておけば良かったな。後悔先に立たずとはよくいったものよね。)
麟「さて、学生課で先生と連絡とってもらうかな。」
大学に着くと法学部学生課へ向かう。
麟「すみません、今年卒業した海藤と申しますが、安東先生はいらっしゃいますか?」
職員「安東先生ね、少しお待ちください。」
職員はそう言うと電話機で安東にコンタクトを取る。
職員「先生、今窓口に今年卒業した海藤さんが来られていますが…ええ、はい、わかりました。お伝えします。」
受話器を置くと麟の方へ向き直す。
職員「先生はお部屋にいらっしゃいます。今ならお時間とられるそうなので、お部屋に行かれてください。」
麟「ありがとうございます。あ、そうだ、これ皆さんでどうぞ。」
麟は道中で購入してきたお菓子を差し出し、職員へ手渡す。
麟「もう卒業してますから、学生からの利益供与にはなりませんよね?」
麟はニコリと微笑み、職員の顔を見る。
職員「お気遣いありがとうございます。では、ありがたく頂戴しますね。」
少し戸惑いながらも両手で受け取り、麟に微笑み返した。
コンコンコン
安東の部屋に着くと、麟は部屋をノックした。中からどうぞと声がする。
安東 光義(あんどう みつよし)
大学法学部学部長
近代法制史を担当し、法の何たるかを学生に説く。
法学部着任当初は「鬼の安東」と呼ばれ、学生の半分が単位を落としたという伝説がある。
口癖は「法とはなァ!!!」である。
学部長就任以降はすっかり丸くなり、「仏の安東」と呼ばれるようになっているが、法を語ると熱くなるのは変わっていない。
麟「今年卒業した海藤です。失礼します。」
麟はそう言うとドアを開く。
安東「やあ、海藤くん。君は就職したのではなかったかな?」
麟「はい、あの、これ、つまらないものですが先生のお口に合えばと持参しました。」
安東「これはどうも、ありがとう。そこにかけなさい。」
安東は麟に座るように合図する。
安東「お持たせで申し訳ないが、お茶を淹れよう。」
麟「え、あ、はい。ありがとうございます。」
安東「就職して働いているはずの君がこうしてここに来たのは、何か理由(わけ)があるのだろう?」
安東はお茶を淹れながら麟に問いかける。
麟「はい、実は…」
麟はここ数日で起こったことを安東に話す。
安東「なるほどねぇ、それは大変だったね。まずはお悔やみを…」
安東はお茶を麟に差し出すと、麟に一礼をする。
麟「お気遣いありがとうございます。」
安東は椅子に腰掛けながら続ける。
安東「それで、私に何を聞きたいのかな?」
麟「父が遺した会社を誰に委ねるのが良いのか迷っています。」
安東「もう君の中で答えは出ているのではないかな。」
安東は麟の顔を見て、ニコリと微笑む。
麟「私が継ぎたいと思っています。でも私なんかで会社の経営ができるのか、従業員の皆さんの人生を背負えるのか不安なんです。」
安東「子曰く『知らざるを知らずと為す、是知るなり』だよ。君は経営のことは何も知らないのだろ?であれば知らないことを認め、知ることから始める以外に無いのではないかね?」
麟「認めます。私は何も知りません。何を知れば良いでしょうか?」
安東「知識に無駄は無いよ。役立てようと思えば、どのような知識でも役に立つものだ。まずは自分で学び、考えなさい。学びて思わざれば則ち暗し(罔し)だよ。」
麟「ですが、そんなに時間も無くて…先生、先生が私の立場でしたら、何から始めますか?」
安東「あまり無責任なことを言えるものではないが、私が君ならまず自分が賢人か凡人かを考えるだろうね。」
麟「賢人か凡人かですか?」
安東「うん。世の中には優れた人物がたくさんいる。傑物(けつぶつ)とでも言うかな。君はそのような人物と自分を比べてどう思う?」
麟「とても敵(かな)わないと思います。」
安東「そうだね。私も同じだ。とても敵わない。だが凡人でも平和に国を治めた王はたくさんいる。なぜだと思う?」
麟「……。」
安東「お茶が冷めてしまうね、飲もう。」
安東は麟にお茶をすすめながら、自分も口をつける。
安東「私は自分が法制史の研究をしているからか、考えが凝り固まってしまってね。法の力というものをよく考えるのだよ。」
麟「法の力ですか?」
安東「そう、法の力。国を治めるにも会社を経営するにもルールや制度は必ず必要になる。国民や従業員にどのようなルールを設けるか、またどのような制度があればやる気になるか、それらは等しく法と呼べるものだと思わないかい?」
麟はハッとする。
安東「おかしいなぁ、私はずっとこの話を講義してきたつもりなんだけどね。」
安東は笑いながら、麟に問いかける。
麟「すみません。」
安東「いやいや、もっと面白く講義ができるように頑張るよ(笑)」
安東「凡人が国にしても会社にしても治めていくには優れたルールや制度を学び、それを厳しく実行していくことが大切だと私は思うよ。」
麟「はい、ありがとうございます。」
安東「何をするにしても最初の一歩だ。君は君の経営を考えなさい。他人の言葉に惑わされてはいけない。参考にするのは良いけれど、決めるのは君だ。海藤君、いろんなプレッシャーがあると思う。雑音も多かろう。だが君の人生だ。君の信じる道を進みなさい。驕(おご)らず、こうして私を訪ねてくれた君ならきっと良い経営者になれると思っているよ。思いて学ばざれば則ち危うしだ。さ、お菓子をいただこう。」
安東はお菓子に手を伸ばし、口に入れる。
安東「お、これは美味しいな。海藤君も食べなさい。」
その後10分ほど麟と安東は雑談を交わした。
麟「先生、今日は突然の訪問にもかかわらず、お時間をくださいましてありがとうございました。」
安東「講義が無い時は暇を持て余しているから、またいつでも来なさい。」
麟「はい!ありがとうございます!」
麟は深く頭を下げ、退室しようとした。
安東「おう、そうだ!これを持っていきなさい。」
安東は机の上にあった本を1冊、麟に手渡す。
『韓非子』
表紙にはそう書かれていた。
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