第19話


 感じる物は全て痛みと快楽。既に自分がどうしてここにいるのかすら、もう分からない。助けて欲しいのか、ここにいさせて欲しいのか、もうそれもよく分からない。どうして涙が出て来るのだろうか。

 さっき、賢者の石の作り方が吸われた。自分の名前も吸われた、いや自分の名前はまだ解る。私の名前は■■ルー■だ。……今まで嫌いだと思ってたそれが、私に残った唯一の縁である。

 あぁ、そうしてまた痛みと快楽に喘ぐ。もう喘ぐ喉も無いのに――


 痛みの走る方向を辿って屋敷の中をファングインは駆ける。バルレーンと同じく誓約が刻まれた右手を上に向けると痛みは弱く、下に向けると強くなるので彼女はアスフォデルスが地下にいる事を察した。

 次に行ったのは屋敷の構造の把握である。彼女は両手に握った剣を床に突き刺すと、魔力を流し込んで再びの地震を起こした。それは屋敷全体を震わせ、振動の反響で地下に至る入り口を把握する。

 ――歓喜の剣を使い、ファングインは屋敷の構造を把握する。

「うー」

 屋敷の構造を知ったファングインは迷いのない足取りで再び駆ける。途中立ちはだかった番兵のアイアンゴーレムを一瞬の内に数十の突きを入れて砕片と化し、地下へ続く分厚い樫の扉にも剣を振り下ろし同じように砕こうとするも刃は通らなかった。

 その切っ先が扉に触れた瞬間、真空の刃は消失して剣自体も紙一枚切れない程、切れ味が落ちたのが彼女は感覚で解る。

 ファングインはその場から十メートル程離れると、今度は右手だけで鞭の様に腕を下から上に振り真空の刃を放つ。飛飯綱とも称される技だ。

 しかし、本来ならば鉄すら断ち切る程の威力の真空斬りも扉に触れた途端煙の様に消えてしまった。どうやらこの扉には触れた攻撃を無力化する魔術がかけられているらしい。……そこで彼女はバルレーンが先程言った言葉を思い出すと、腰の麻袋の中身を取り出した。

 それは握り拳大の黒い鉄の球である。上には十字の装飾が付いており、使い方はバルレーンが合流した時に教えてくれていた。

 ファングインは十字を――聖なるピンを――引き抜き、三つ数えた後に扉に向かって放り投げる。そうして起こったのは鼓膜を破りそうな程の轟音と爆発である。

 肉、魚、オートミール、野菜、香辛料、果物。これを適切な手法で加工し、儀礼に則り定められた入物に収めると大爆発を起こす物となる。とある神の教派の秘伝とされるこの武器の名は、“聖なる鉄炮”という。この“聖なる鉄炮”の厄介なのは、爆発の威力もさることながら熾ったその火は祝福された聖火である為に魔力を祓い清める効果を持つ。

 ガノンダールが施した守りには天敵の様な物で、炎が収まると扉には彼が潜れる程の大穴が空いていた。その先には地下へと続く階段がある。

 邸宅の地下に明かりはなく、冷たく底冷えする闇しかない。誓約の履行痛に従い、その闇の中をファングインは降りていく。彼女が一度魔力を通すとローブに施された隠し刺繍がぼんやりと光ってその蔓草模様を青みがかって光らせ、地下を仄かに照らした。

 どうして北のエルフが刺繍を隠したのか、その理由がこれだ。普段は木々や闇夜に紛れて動く為無地を好むが、この様な場合は魔力を通して光る方が好まれる。

 瞬間、左右から何かが襲いかかってきたのをファングインは香りで敵意を判断――同時に右回りに一回転しその刃で斬り伏せる。

 ぼとり、という水っぽい音と共に落下したのは生々しい白の不定形の怪物であった。一方は上半身の人型を形成しており、それはまるで不調化の迷宮で見た死脳喰らいを小型化した様な物だ。もう一方は丸い体に無数の腕が生えており、尻にあたる部分には薄い半透明の殻――卵胞の跡が付いている。

 それらは次々と襲ってきて、ファングインは沈痛な面持ちでそれを握る刃で斬り払い続けた。

 ――耳がその啜り泣きを拾う。何かいる。

「ファングインさん……?」

 少し進むと、そこには金髪の髪に淡褐色の瞳。青いチュニックと黒いスカートこそ泥で汚れているものの、アスフォデルスがいた。彼女の鼻腔が僅かにひくつき、耳が僅かに動いた。

「助けに来てくれるって信じてました! ファングインさん、ファングインさん!」

 手や足には何も嵌っておらず、大女を見ると彼女は一挙に駆け寄る。そしてそんなアスフォデルスに対し彼女は――右手に握った剣を走らせた。灼く様な一閃であった。音も影もない刃で彼女は無感情に斬り捨てる。左下から右上にかけて両断されたアスフォデルスは、その身体を地べたに無残に転がす。心臓の音は既に止まっていた。

 ファングインは血も残らぬ刃を右手だけで風車の様に回すと、いつの間にか左手で握った鞘の中へ縦に収める。

 ……柄頭が顔の前に丁度来た時、アスフォデルスの身体は地面を転がった。

 力に溺れたアスフォデルスはさん付けをしない。それは力のない時だけ、ファルトールの姿を模らないありのままの姿の時の口調であるからだ。

「いやはや、まさか些かの躊躇もないとは恐れ入った!」

 彼女がその死骸から視線を前方に向けると、深い闇から浮かび上がる様に白い衣を着て右手に錫杖を持った老人が現れる。ファングインはその老人に、そこはかとない魔の気配を感じた。

「臓器や骨格まで精巧に造ったのだがな、看破されるとは」

 ガノンダールがそう言うと、床に転がっていたアスフォデルスの死体が途端溶け始め、その材料である生命原形質に戻る。ファングインは知っていた。アスフォデルスの呼吸と心音、何より匂いがまるで違う。故に彼女は躊躇いもなく切ったのである。

「改めて名乗らせていただこう、儂の名はガノンダールという。一時期はアスフォデルスの師匠でもあった。さて、何用かな?」

 その問いに対し、ファングインは冷たい視線を左の金に称える。ガノンダールからは腐臭がした、淀んだ魔力の匂いが。それに紛れて白々しい嘘と喜悦、嗜虐心が香ったのだ。

「恐ろしい、こんなに恐ろしいのは老人には堪えるな。ならば、一つ守ってもらおうかのう……」

 ガノンダールが演技染みた様にそう言うと、途端彼女は背後に跳躍。瞬間先程までファングインがいた所には天井から突如現れた鋭い爪の付いた触手が三本突き刺さる。

 ファングインが左の琥珀の瞳を向けると、そこには大型の獣大にまで肥え太った芋虫の様なのがいた。それはべちゃりと這っていた天井から墜ちると、ガノンダールを守る様に這って前に出る。

 この背筋を走る奇妙な怖気。間違いない、『不凋花の迷宮』のより存在は弱いがこれも魔族だ。しかし、同時に彼女はその気配が気になった。ファングインの鼻が一度鳴る……その左目が何かを定めるかの様に僅かに細まる。

「さぁ、奴を殺せ」

 ガノンダールがその錫杖の石突を叩くと、不定形の魔族は身体から触手を五本出し彼女に襲いかかる。ファングインは再び剣を抜き、右手のみで柄を握ると花の剣で弾いた。四本は弾き、一本は浅く斬る。それで確かめたい事があったからだ。

 直後走るのは胸を貫く様な鋭い痛みと、右手の甲に焼鏝を押される様な熱い感覚。それは誓約を違えた時の痛みである。なるほど、どうやら間違いないらしい。……表情を変えなかったのが気に食わなかったのか、舌打ちの音が一つした後。

「そなた、何故涼しい顔をしてられる? 儂に絶望の表情を見せろ! 今ここにいるのはアスフォデルスなのだぞ!?」

 生臭い腐臭の奥に香る一筋の甘い百合の匂い、そして誓約の違反痛。ガノンダールが言う通り、この魔族はアスフォデルスであった。

 ――背後からの殺気を辿り、左に一回転し剣で払う。……そこには地面に生じた黒い泥の様な所から触手が八本、鋭い爪を尖らせ彼女を狙っていた。

 同時に剣の柄に走る衝撃をあえて殺さず、伝わる振動で相手を見た。不定形の怪物と言えども人間一人を内包すれば、必ず筋肉は淀み――動きを阻害する瘤が出来る。しかし今の一撃にそれはない。なるほど、どうやらアスフォデルスの身体は溶けきっていると見てよいだろう。

「うー」

「今のを防ぐだと、そこに生じる影を喰らい我が物とする魔族だぞ……だがよい、どうせ四方は影。影喰い沼相手に、いつまで持つかな?」

 ガノンダールの言う通り彼女が放つミスリルの淡い光以外、四方は闇。右の頭上と左の腹横に水音が同時にしたと思うと、そこから触手が生じる。右回りに一回転しそれを払うも、静止した直後に生じた所を背後に生じた触手が掠める。

 緑のローブは総身をミスリルの糸で補強し、更に布自体も特殊な液で染める事により全身鎧以上の硬さを誇っているが、それでもどうやら触手の方が威力が勝るらしい。掠めた肩が破けた。

 何より、動きが良い。……その理由は恐らくは、死脳喰らいと同じと見て良いだろう。

「奴の何もかもを奪った後、醜い化物に変えてやった! 死脳喰らいの時とは違いあの黒髪の女もいない、こうなってはもう救われん! 諦めろ! 絶望せよ、そなたにはこの化物に殺される運命しかないのだ! それに見よ、奴の力が徐々に儂に流れてゆく――」

 狂笑と共にガノンダールはそう告げると、闇の中周囲の魔力が徐々に変化していく。周囲一帯の魔力量が爆発的に膨れ上がり、それは一挙にガノンダールに流れ込んだかと思うと、彼の身体は徐々に老いから若きに変化していった。

 感覚で察する。それはアスフォデルスの賢者の石の効果であると。そして若返っていく最中のガノンダールは呪文の詠唱を始める。

「《それの生死は流転する。命は焔が如く燃え盛り、羽ばたく物である》」

 しかし、ファングインの左の目に絶望の色が浮かぶ事は何故か無かった。


 ――その時、ユーリーフとバルレーンはその技の気配を感じたのは一度ファングインに斬られていたが故である。虫の知らせの様に彼女達にはそれが解った。

「……来るね」

「結構早かったね」

 彼女がその技を放つ時には一定の予兆がある。空気は底冷えし、魔力は冴え、周囲の動植物がざわめき始める。

 それまで蕾だった筈の赤い花が一瞬きの後に花開いた状態で枯れていた、木で羽化を待っていた蛹がいつの間にか空になり蝶として羽ばたいていた。彼女達以外には最初から花は枯れており、蝶が羽ばたいていたのである。それは因果を斬られた彼女達にしか解らない特異点の兆しだ。

 運命の環が流転する――

 

 丁度百本目の触手を弾き飛ばした時、ファングインの右目が髪の隙間から現れる。その眼窩には左の琥珀の色と違い、瞳の色がない目が嵌っていた。

 予兆は彼女自身にも起こっていた。視力のない筈の右目が徐々に焦点が合っていく。しかし彼女が見通すのは今の風景ではない、ファングインが右目で見ているのは様々な世界の波紋だ。

 自分が百一本目の触手に足を絡め取られて殺められる世界、魔族と化したアスフォデルスを歓喜の剣で殺めてしまう世界。そう言った数々の世界が彼女の右目に幻の様に映っては消え、どうすればその因果に辿り着くか理解出来る。

 ――空気は帯電し、熱量が生まれ始める。火の粉が生まれたかと思うと、それは焔となり、やがて彼の頭上で鳥を模り始めていた。

「《生は虚実、反転する永世輪廻。高きにあらず、低きにあらず》」

 焔に照らされ呪文を唱えるガノンダールの姿は、既に老翁ではない。白い髪や髭は黒い色を取り戻し、皺は失せて三十代の姿となっていた。

 ……ガノンダールの唱えてる呪文の未来も見える。次に続くのは《そなたは諸共を焼くもの、そなたは触れ得ざる神秘の焔、我はそなたを籠より放つ》という物であり、アスフォデルスの触手が拘束した瞬間焔で出来た鳥で諸共自分を焼くという物だ。

 これを阻むには両手で柄を握り、アスフォデルスに切っ先を向けるしかない。しかしそうすれば誓約の効果により自分は死ぬ。

 その世界が見えたが故、銀髪の大女は百十八本目の触手の刺突を花の剣で受けると同時に背後に跳躍。同時に先を読んで襲い掛かる触手を、真空斬りを地面に当て着地をずらして躱す。

 刻一刻と垣間見る世界の数は増えていく。撤退の手はなしだ、その場合はアスフォデルスが死ぬ。

「《そなたは諸共を焼くもの、そなたは触れ得ざる神秘の焔》」

 時ここに至りて呪文は完成直前を迎え、それと同時にファングインは自らが望む世界を見た。左手を柄に回し両手で握り締め、右の腰に刃を置いて彼女は魔族に向けて疾駆する。

「なっ!」

 その光景を目の当たりにした瞬間、詠唱の最中にも関わらずガノンダールが思わず驚愕の声を上げた。

 ――その技は何時でも使える技ではない。然るべき時と然るべき場所が合わさり、極限までの生命の危機に陥った時に初めて使える物なのだ。

 混沌の理論に曰く、蝶の羽ばたきが遠い異国では竜巻になるとされている。ならば、その蝶を斬れば竜巻が生じる運命は消失する筈だ。この技はつまりそう言う論理で成り立っている。

 名を、是無の剣という。

 花の剣が導くのは、一撃必中の結果。

 歓喜の剣が導くのは、一撃必壊の摂理。

 そして是無の剣が導くのは、一撃必変の因果。その刃が切断した物は生きざる者を生かし、死せざる者を死させる。

 ……右から左にかけて一直線に生まれた白銀の流星が、魔族と化したアスフォデルスの身体を通り抜け誓約の魔術すら切断し、やがて彼女の運命に達する。魔族の身体が一切の動きを止めた。そして数拍の内に途端魂すら穢すという魔族の肉が溶け始める。溶けた肉体はまるで蛍の様な緑がかった光になっていく。

 その中から、まるで吐き出されるかの様に茶色い髪をした少女の身体が現れた。

 溶けかけた魔族は一度、弱々しく触手を伸ばした。それが意味するのは魔族としての本能、食欲、一元性への回帰。……あるいは死脳喰らいと同じ、母を求める子の本能か。

「カ、アサン……カ……サ」

 低くくぐもった、男とも女とも付かない影食い沼の声が響く。しかし、アスフォデルスは意識を失ったままで、それが届く事は無かった。ただ影食い沼を打ち倒した張本人であるファングインは、一度泣き出しそうな顔を浮かべそれを堪えた後一度。

「……うー」

 死脳喰らいの時と同じ、低く沈んだ声音で一度唸る。それはあたかも訣別の言葉かの様に。

 その弱々しく伸ばされた触手の先に、ファングインは剣を突き立てる。それは死脳喰らいの時と同じ様に、墓標を意味していた。望まれず生まれ利用され、それでも母を追い求めた存在に対する彼女なりのせめてもの鎮魂である。何より彼等は彼女にとっても――

「き、貴様今何をした……?」

 血振るいの様に一度刃を振って鞘に収めたファングインに、ガノンダールはうわ言の様に尋ねた。まさに信じられない物を見ていた。姿は既に年老いた老人に戻っていた。

 魔族に取り込まれた者に救いはない。その大鉄則に背き、この男はたった今単なる鉄の剣で魔族を斬り、あまつさえ取り込まれたアスフォデルスを救い出した。そんな事あり得る筈がないのである。そんな物は、神の御業に他ならない。

「何をやった、どうやってやったのだ!? 答えよ!」

 しかし、その問いに彼女は答えなかった。一瞥すら与えず、ファングインは倒れ伏したアスフォデルスを両手で抱き上げる。身体には何も付けていないが傷は無い、一つ変わった事があるとするならその茶色い髪の毛が腰程の長さになっている事ぐらいだ。

「ファン、グイン……」

「うー」

 気が付いた彼女が反射的にその名を呼ぶと。まるでよかったと言わんばかりに、ファングインは笑みを浮かべそう応えた。そこで銀髪の大女は膝からその場に倒れ込む。……ローブの中、ナナカマドの木片が垣間見える。

 運命を斬る絶技の代償としては余りに安いものの、疲労の蓄積はここで頂点に達していた。何とか腕の中の彼女を離さずにいたが、既にファングインには一歩も動く気力も無かった。

「ま、待て! 逃がすものか……ッ!」

 ――この機会を逃さなかったのがガノンダールである。彼はどうやら精魂果てて力尽きかけた彼女等を逃すまいと、錫杖を向ける。

 彼にはもう怒りはない。魔族こそ一匹も残っていないが、その代わりに得難い実験材料を二匹手に入れられるのだ。そう思い古代語を唱え様とした矢先。

 ぱちり、とアスフォデルスの脳は閃いた。一瞬で没入感が彼女を覆うと、アスフォデルスはファングインの左腰に右手を滑らせ、ナナカマドの木片に手を伸ばす。

 銃把を握り締め、呪文環を回し、撃鉄を下ろし引鉄を引く。刹那、赤い光が迸った。

「……いいか、ガノンダール。魔術っていうのは、こう使うんだ」

 魔法銃の銃口を降ろし、アスフォデルスはあの時と同じ様にそう言う。弾丸は装填されていたが、炸薬が足りなかったらしい。魔法銃から発射された矢の呪文は、魔力の殆どが衝撃に変換されガノンダールの身体を吹き飛ばすだけに至った。

 それが長きに渡る彼女の因縁の結末であった。魔術師ガノンダールは王国に引き渡され、研究所は閉鎖。彼が率いていた一門は方々に散る。魔族に関しての研究はトルメニア王国と魔術師ギルドの協議の結果、全て焼かれる事となった。

 それが、魔術師ガノンダールに言い渡された裁きの全てである。

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