第13話


 まさしく魔物の大攻勢という態である。『不凋花の迷宮』の三十階、アスフォデルス達がいるそこに目掛け、迷宮中の魔物が今まさに押し寄せる真っ最中であった。

 それを、たった一人でバルレーンは相手にしている。彼女が陣取るのはこの工房に続く、本来の入り口である。人二人が通れる程の広さの一本道で、大量の魔物が押し寄せて来るとは言え、ここを押さえてしまえば相手するのは一体か二体の先頭だけでいい。

 問題は針の数が間に合うかだけである。

「その脳いただき」

 大振りに右の手斧を振り下ろしたミノタウロスの腕関節を、針を走らせる事で解体。密度の高い筋骨隆々とした腕は、まるで湯がいた麺が解れるかの様に筋繊維が外れ、右肩から先は地面に落ちる。直後バルレーンは針を一閃し、宣言通りミノタウロスの脳を狙った。

 右耳を通して滑り込ませた針を引き抜くと、その先には生白い蛭の様な物が付いていた。色合いは死脳喰らいのそれと酷似している。

「死脳喰らいのお土産か」

 恐らく、物理的な肉体を持った奴は全員これが脳に巣食っているのだろう。そう考えると、正直頭が痛くなってくる。

 バルレーンが戦ってるそんな中、アスフォデルスは哲学者の卵――巨大な水晶の卵いっぱいに琥珀色の霊薬を湛えたそれに身体を浸らせている。そしてユーリーフはアスフォデルスの指示の元、世話しなく計器の間を行きかい操作をしていた。

 ファングインはそれに追従する形でユーリーフの指示を聞いて手伝い、時折バルレーンの作った穴を通りやって来るレイスなどの幽霊系の魔物の相手をしていた。

「《我、神の名においてこれを鋳造する。目覚めよ、汝等の名はアンオブタニウ・ゴーレム。刻まれし銘をグレッツコット》」 

 ゴーレムの駒を地面に投げ、ユーリーフは手早く呪文を唱える。生まれたのは二十センチ程の、それこそマリオネット人形の様なゴーレムだった。四本の腕を持った小人の様な姿で、顔に目鼻はない球体で、頭頂部には四角錐が帽子のように乗っかっている。それが七体、魔力の糸を通すとユーリーフは直様ゴーレムを走らせ、部屋の機械類の操作を行った。

 周囲には不気味な異音や怪音が響いている。漏れない筈の蒸気が、配管の至る所から漏れ出た。

 ……実験器具には状態保存の魔術がかけられ、多少は目視で確認したとは言え、二百年前の実験器具をいきなり動かした訳である。整備が不十分であちこちに負荷がかかっているのだ。

「……ファンちゃん、次はそっちの地下水門を開けて! そのハンドル、それ!」

「うー」

 目下、最大の問題はアスフォデルスの賢者の石を修復するのに魔力が足りていない事である。魔力電池だけでなくユーリーフの賢者の石も使ってる訳だが、彼女が腰に吊り下げた賢者の石は言わば低品質の物であり、アスフォデルスの賢者の石を修復するのに必要な魔力を満たしていない。水晶の卵の中では、まるでその表れかのように不気味な泡が立ち始めている。

 ぱん、と何かが弾ける音がした。それは連続して上がり、次いでファングインは腰の鞘に手を伸ばすと鍔を指で弾いて剣を投擲する。

 投擲された剣は、ユーリーフの頭上に落ちる筈だった一メートル程の歯車に柄が直撃し、落下地点を逸した。

 ……咄嗟の事に反応できず、少し遅れて黒髪の女魔術師は口を半開きにするのと、ファングインが逸した反動で自分の方に向かって回転する剣を鞘に収めたのは全く同じであった。

「……あ、ありがとうファンちゃん……」

 ようやく言えたのはその一言だった。直後、彼女達二人を地響きが揺らす。周囲の石畳はまるで土塊の様に砕け始め、バルレーンが作った天井の大穴からは瓦礫が数個落ちた。……この工房が、迷宮を形作る魔力すら吸い上げ始めたらしい。

 ファングインは剣を、ユーリーフはゴーレムの駒――杯の騎士のそれを取り出す。

「《我、神の名においてこれを鋳造する。目覚めよ、汝等の名はアンオブタニウ・ゴーレム。刻まれし銘を杯の騎士!》」

 魔力を回し再度杯の騎士を作ると、魔力の糸が繋がった瞬間彼女は杯の騎士の機構を繰る。漆黒の騎士人形は左の薔薇が彫像された盾を地面に突き刺すと――

「《機構の二つ、城塞なる左!》」

 杯の騎士を中心に四本の黒い柱が生まれ、それぞれは崩落しそうな箇所に向かって支えた。そして銀髪の大女は剣を引き抜くと両手で柄を逆手に持ち、刃を地面に突き刺すと彼女の剣を中心に小型の地震が生まれた。

 これもまた魔剣であった。『歓喜の剣』という、彼女が剣を両手で握った時に使われる剣である。防御に難があるものの威力は極めて高く、彼女が使えば剣で小型の地震すら起こせる程だ。

 この魔剣により迷宮で起こってる地震を中和し、均衡状態を保つのがファングインの狙いである。力を微細に調整し剣から力を流し込むと、工房の地震は徐々に潮が引くように治まっていった。

 その最中。

「あ、折れた」

 バルレーンが右手に握った、最後の一本の針が折れる。丁度、サイクロプスの右の一撃を針で受け止めた頃だった。一撃を殺しきる事が出来ず、赤髪の女盗賊はそのまま腹に拳が直撃する。身体は大きく吹き飛ばされなかったものの、数センチその場から退歩してしまった。

 ふと見ると、サイクロブスの単眼からは死脳喰らいの分体が数匹生えている。通常のサイクロプスより膂力が強いのは、どうやらこれが原因の様だ。

「工夫する知恵まで付けてきたみたいだね」

 少し漏れてしまった血反吐を床に吐き捨てた後、バルレーンは陽気な調子を崩さずそう言った。……単眼の巨人の背の向こう側には、まだ魔物の群れがひしめき合い長蛇の列を作っていた。

 針が折られた直後、サイクロプスや背後にいる数匹の魔物達は口元を歪ませ嘲笑った。どうやらあざ笑う事も覚えたらしい。

 それに対しバルレーンは、その隙を突きサイクロプスの懐に一瞬で潜り込むと――両腕を胴に突き刺し、そこから筋骨隆々とした自らの背丈の倍ある魔物を両手で引き裂いた。

 ――大陸に伝わる風聞の中で、バルレーン・キュバラムという名は様々な側面を持つ。かつて大陸が動乱の時代を迎え、現在全土を統べる王国が興った時、既に彼ないし彼女は伝説の暗殺者としてその存在をまことしやかに伝えられていた。

 曰く、手を翳すだけで命を奪える。

 曰く、時の鎖から抜け出す術を知っている。

 曰く、男でも女でもない者。

 曰く、エスカオズに降り立った稀人。

 曰く、薄暗がりに潜む怪。

 曰く、血を好む化生。

 曰く、暗命剣なる秘奥を振るう悪鬼。

 曰く、脳の見せる幻影花。

 曰く、〈紫鳶の座〉なる暗殺者集団の頭領。

 曰く、万年を生きる不老不死の者。

 そのどれもが胡散臭さに彩られ、歴史の闇の中へかの存在を埋没させている。しかし、真実と虚構は常に紙一重。いずれもが真実であり、そして虚実である。

 そしてもう一つ、これもまた真実であった。

 ――曰く、怪力の主。

 彼女は両手に握った残骸を、一度腕を水平に上げた後に何処か芝居じみた素振りで離す。

「こっからは素手で行くよ」

 そうして、バルレーン・キュバラムは次の獲物に指をかけた時、彼女でも解る程に空気中の魔力が急激に減った。

「……魔力が、まったく足りません!」

 ユーリーフの焦燥に駆られた声が上がる。哲学者の卵が吸い上げる魔力の量を上げたのだ。水晶の卵の内には不気味な泡が満ち、もうアスフォデルスの姿は見えなくなっている。

 計器の操作だけではどうにもならない事を、ファングインは理解していた。根本的に魔力自体が足りないのだ。出力自体を上げなくては、魔力が足りず迷宮から吸い上げる事で迷宮が劣化し、施設が壊れそれを補う為更に魔力を吸い上げる……という悪循環に陥ってしまう。

 ごくり、とファングインは息を呑む。そして彼女は深緑のローブの裾を翻し、突如疾駆した。

「……ファンちゃん!?」

 剣すら置いて、突然駆け出したファングインをユーリーフは薄紫の瞳で追う。ファングインが駆け込んだそこは、魔力電池の瓶が置いてある部屋だった。

「……」

 瓶の前に立つと一度右の袖を捲くると、黒革と布で出来た篭手を外し素肌を露にする。その後彼女が取り出したのは、長さ三十センチ程の両刃の短剣だった。

 刃を引き抜くと、彼女は鞘を口に咥え奥歯で噛み締め、まず刃が貫く程深く手の甲を突き刺した。

 ――一瞬、えぐみを含んだ百合の香りが立つ。

 更にファングインは手の甲から刃を抜くと、手首から肘にかけて螺旋を描く様に刃を走らせた。滴り落ちる血が床に溜まりを作っていく中、砕け罅の入った鞘がそこに落ちる。

 そして彼女は瓶の中にその右手を入れた。……アスフォデルスの血が混じった水に、ファングインの血が混じる。

 刹那、工房が息を吹き返した。

 ファングインが血塗れの手を入れた直後、工房を駆動する機械類が魔力が急激に満ちた事により本来の動きを取り戻したのだ。傷口から止めどなく流れるファングインの血で、瓶の中の水が赤みを増すに連れ、外から聞こえてくる歯車や配管の異音も地響きも治まっていく。

 工房の機械の出力が安定してく中、ファングインは考える。……傷はユーリーフに治してもらうとして、香りはどうしようか。とにかくアスフォデルスにこの香りがバレてはいけない。なんとか誤魔化す術を考えなくては。

 出血多量で気が遠くなりかける中、工房の駆動音が一段階変化する。それは散らばっていた物が纏まり、一つに収束する様な音だった。

 大いなる業が成る。


 ×    ×    ×


 バルレーンは鮮血に塗れ奮戦する中、背後から突如湧き起こった強大な魔力の奔流を確かに感じ取った。

 この場にいる誰もが――魔物すらも一瞬視線を移す。水晶の中の培養液が徐々に目減りし始める。なみなみ入っていた筈の琥珀色の液体は、蒸発と共にその嵩を減らして行き、やがて零となる。

 後に残ったのは卵の中を埋める大粒の泡。しかしてそれも、水晶の卵が台座との連結を切り離され、まるで蓋が外れる様に滑車に括り付けられた鎖によって上に上げられると弾けて消える。最後に残ったのは――喩えるならそれは羽化したばかりの蝶。よろよろと台座を降り、微妙に見開かれていない眼で鏡の前に近づく。

 罅の無くなった、胸の赤い石が魔力の乱反射で煌めいた。

「あ」

 一度短く感嘆の声が漏れると、そこで鏡に顔を付け身体を震わせる。

「見てくれ皆、姿が――私の姿、元に戻ってる!」

 姿見に映った姿は、まず髪は金。背中の半分まで伸びたそれは、今は培養液に浸されていた為か、濡れて背中に貼りついている。

 白目に大きく広がった瞳は淡褐色。青と黄と橙が混ざったその色は、魔眼の様に人の気を惹く引力を持つ。濡れそぼった顔は整った目鼻立ちでありながら、あどけなさと美しさが綯い交ぜになった黄金比で成り立っている。

 一度口を開くと、牙の様に鋭かった歯はそこに無く、大理石の様に白い歯が並んでいた。胸元に埋め込まれた赤い賢者の石も、それまで昏い血の色であった筈だが、今は鮮血の様な輝きを放っている。身長こそ百三十センチと変わらず、身体つきは幼いままだが、その姿は全くと言って良い程様変わりしていた。……そこに初めて出会った時のか弱く傷んだ面影の無い、二百年を魔道に生きた魔人――大魔術師のアスフォデルスがいる。

「ごめん! 悦に入ってるとこ悪いんだけど、ちょっとこれ何とかしてもらっていい!?」

 バルレーンがそう叫ぶと、アスフォデルスはそこでようやく気付いたという素振りを一度見せ、悠々とバルレーンの方に向かう。一歩を踏み締めると、アスフォデルスの身体を銀の樹枝が絡み始め、まるで魚の鱗の様に全身を覆った。……賢者の木という、賢者の石の前段階に生まれる結晶である。

 そしてそれは地面を走り、まだいる夥しい魔物達の身体にまるで茨の様に絡んだ。暴れれば拘束が強まり、しばらくしない内に呼吸する音以外聞こえなくなる。

「《理に沿い、解へ至る。万象を為すは塵芥》」 

 二歩目にアスフォデルスは右手の人差し指を一本前に出す。胸の赤石が眩い光を灯した。

「《是なるは創造の対極、虚無の顕現。万物は是この光の前に影はなく、是この闇の前に光はない》」

 そうして動きを止めた魔物の一匹の前に、いつの間にか白い闇の灯った人差し指を向けて軽くそれを付けた。

 瞬間、魔物が溶ける。否、溶けたのではない極細の塵と化して影すら残さず分解されたのだ。魔術の名前はディスインテグレイト。大量の魔力と繊細な調整が必要とされる、原子崩壊を起こす魔術である。

 アスフォデルスは一体を葬ると、その裏にまだ夥しい数の魔物がいるのを見て、しばし考える間を見せる。そしてある考えが思い浮かぶと、にたりと笑った。

「《賢者の木に命ず、汝は鎖。我が魔を繋ぐ鎖なり》」

 古代語でそう唱えると、魔物達に絡んだ銀の枝が赤く染まる。そして彼女は手近にあった賢者の木に原子崩壊の灯った人差し指を付けた。

 そこで原子崩壊が連鎖する。

 彼女が人差し指を付けた瞬間、魔物達は絡め取られた樹枝結晶諸共塵芥に変わり、跡形もなく全て消え去った。

「終わった」

「今、何したの?」

「原子崩壊は取り回しに難有りの魔術。こうして一匹ずつ指で触ってくのも面倒だったからな、足止めしてた賢者の木を媒介にして魔術が連鎖する様にしたんだ」

 口調が変わったのをバルレーン・キュバラムは聞き逃さない。

 鮮血に塗れたバルレーンがそう訪ねると、アスフォデルスは事もなげに言った風を装って自慢げに話す。聞かれた事に答えた振りをしてるが、言葉には力を振った事の歓喜があった。

 バルレーンは知っている。これは力に酔った者の言葉だ。身分不相応な力を手に入れた時、人はこうして力に溺れて破滅する。

「あぁ、すみません。敬語、外れちゃってましたね……」

「いいよ、今更取り繕っても嫌味なだけさ」

「そうか? じゃあ、お言葉に甘えようかなぁ……」

 アスフォデルスはまず両頬に手を当てて、そのまま両手で顔を撫で回す。それは元に戻った自分の顔の感触を楽しむかの様に。

「顔、私の顔……師匠の顔……魔術、力、命、不老不死……ようやく戻った」

 両手が自らを抱きしめる様な形になった時、アスフォデルスはそこで膝を落とし地べたに座る形になる。ふわりと金の髪が一房揺れた。そうして、しばらくすると押し殺した様な笑いが聞こえてくる。

 ……その隙にバルレーンは赤瑪瑙の瞳を右に走らせると、そこにはユーリーフが瓶の部屋から両手をバツにしていた。それに対しバルレーンは右手で小さく丸を作る。あれの意味する事は唯一、時間を稼げだ。

 何故今まで足りなかった魔力が急に増大したのか。理由は恐らくたった一つだろう、……赤髪の女盗賊には理由が大体察しがついていた。

 なら、今はユーリーフに手当を任せるしかない。それと匂い消しも。

「ねぇ、アスフォデルス――」

 バルレーンがアスフォデルス相手に時間稼ぎを始めた間、ユーリーフはまずファングインの瓶に浸かった右腕を引き上げた。鮮血混じりの水が滴る腕には、普段戦闘でなら彼女に絶対付かない傷が深く刻まれている。

 ユーリーフは手早く回復の呪文を唱えると、まず傷口を塞いだ。しかし、ファングインの顔は青いまま、回復魔法で傷口は塞がっても失われた血液は戻らなかった。

 むせ返る様な百合の血臭が香る。それは稀血特有の香りだ。

「……ファンちゃん、しっかりして!」

 涙を浮かべながらユーリーフはそう言う。黄金の血の持ち主には一つ弊害がある、それは誰にでも血を分け与えられる代わりに、黄金の血だけは同じ黄金の血の持ち主だけしか分け与えられないのだ。

 今この場でファングインが血を補給する術はない。否、一人だけいるがそれをファングインが選ぶ事はないだろう。

「……うー」

「……どうしたの、ファンちゃん!?」

 青くなった唇で一度唸ると、ファングインは自分の左手を緑のローブのある箇所に当てる。

 ユーリーフはそこに右手を入れると、中からある物を取り出す。それは黒壇で出来た何の変哲もないパイプだった。三十センチもある柄の長いものだ。色は黒。形は煙草の草を入れる筒先を中心に、上へめがけ六十度緩やかなカーブを描く吸い口の棒がある。

 ファングインの数少ない趣味がこれだ。煙草の煙でこの稀血の香りを消すという事だろう。この事がアスフォデルスに勘付かれる前に。

「……剣士様、どうしてあの人の為にそこまでするの?」

 剣士様、というのはユーリーフがファングインといる時だけ使う呼び方である。……ユーリーフには今のファングインの行為は度が過ぎてる様に見えた。彼女の惨状に心動かされたとは言え、哀れみや慈悲にしてはこの献身は異常だ。これではまるで無償の愛である。

「……貴方にとって、あの人は一体何なの……どうして同じ黄金の血を持っているの、どうしてそうまでして命をかけられるの?」

 それに対してファングインは左手ユーリーフの華奢な身体を引き寄せると、彼女の顔を自分の胸に埋める。そしてその黒髪を軽く撫でた。

「……今、答えるのが面倒くさくなったから抱きしめで誤魔化したでしょ?」

「うー」

「……いつだって、そうなんだから」

 そう言うと、ユーリーフはもう一度ファングインの懐に手を入れると今度は茶色い革袋を取り出す。中には薬草を煎じた煙草の葉が入っており、黒髪の女魔術師はそれを黒い筒先に詰めると魔術で右の小指に火を灯すと、口に咥えてから火を葉に移す。

 一吸いで蒸せ、二吸いで蒸せ、三吸いでようやく灯った物をファングインの口に咥えさせた。

「……もう少し時間を伸ばしてもらおう、この百合の香りが煙草の煙で消えるまで」

 ――――。

 ――。

「あぁ、見てくれユーリーフ! ファングイン! 元に戻ったんだ、私の姿が!」

 歓喜に浸るアスフォデルスに、二人が今まで一体何をしていたのか気にする事は無かった。その様を見て、一瞬ユーリーフは顔を曇らせるが、バルレーンが右手人差し指を唇の前に立てると作り笑いを浮かべ誤魔化した。

 ファングインは少し離れた所でローブを目深に被り、口元でパイプを蒸かしている。けして顔色がバレない様に。

「……よかったですね、アスフォデルスさん」

「ありがとう! 全部お前達のお陰だ! 本当に、本当にありがとう!」

「口調の事は気にしないであげてユーリーフ、今は力と自信取り戻した真っ最中だから」

 バルレーンが注釈を入れる様にそう言う。アスフォデルスはこの短い会話の中で何度も顔を触っていた。特に右の顔半分を。しかし、不意にその淡褐色の瞳がファングインに向く。

「ファングイン!」

「……」

「どうしたんだ、そんな所で! お前も頑張ってくれたんだろ、こっちに来いよ!」

 そんなアスフォデルスの呼びかけに対し、ファングインは黒檀のパイプから煙を燻らせるだけで近寄ろうとしなかった。その姿を不思議に思ったアスフォデルスは一度小首を傾げると、彼女の元に歩み寄ろうとするが、それはバルレーンに止められる。今はまだ薬草の香りの中に百合の匂いが仄かに混じっているからだ。

「まぁ、ファンの事は放っておこう。それより、工房だけど結構壊れちゃったけど大丈夫?」

「あぁ、このぐらい大した事ないさ」

 彼女がそう言うと、胸の赤石が一度眩い光を灯す。右手を楽団の指揮者の様に横薙ぎに振ると、工房の歯車が一回転した。

 がこん、という音がすると彼女達の視線の先の床から二メートル程の長方形の箱がせり上がって現れた。次いで箱に仕掛けられた糸が巻き上げられる音がすると、正面の蓋が観音開きに開く。

 そこから現れたのは百八十センチ程の五体を持った人形達だった。歯車が駆動する音をさせ、人形達は箱の中から出ると次々工房に散らばり、壊れた箇所を修復し始める。

 彼女の異名の一つが、大歯車遣いなのはこれが理由であった。

「アルンプトラは既存のゴーレム技術を極め、私はこういう物を極めた」

 そう言うと、アスフォデルスは改めて彼女達に向き直り。

「ようこそ、私の工房へ」

 ――とりあえず身体を覆っていた賢者の木を剥がし、今まで身に着けていた服を着直し金の髪を梳かした所で、それでようやくアスフォデルスは何時もの通りに戻った。

 見た目こそ影も形も変わっているが、椅子に座り右手で一度梳く癖を見て徒党全員はやはりこの場にいるのはアスフォデルスなのだと思う。そうして一息吐いた所で徒党が行ったのは、報酬の品定めであった。

 とりあえず目的とした物は全て有り、ユーリーフが鑑定した所状態も良く、これなら高く売れるだろうという結論に行き着いた。

「持って行く物の目星はついたみたいだな」

「あー、そこら辺に関してなんだけどさアスフォデルス」

 バルレーンは自分の考えを伝える事にする。

「とりあえず、今回はある程度売れそうな物だけ持って行く事にするよ。流石に国一つ変える魔導書は年単位じゃないと売れない。……それにユーリーフや君の事を考えると、最悪魔術師ギルドが敵に回る可能性もある。だから、出来れば高額な魔導書はここで保管させて欲しい」

「なるほど。いいだろう」

「でも、タダとは言わない。君への保管料の一つとして今回持ち帰った報酬はきっかり四等分したいと思っている。これは事前の装備代を差っ引いた額だよ。アスフォデルスだって力を取り戻したばかりとは言え、無一文な事に変わりはないだろう? 色々と物入りの筈だ、それと合わせて――」

 一息置いて、バルレーンは言葉を紡ぐ。

「更に高額な魔導書の保管料代の一つとして、今後の君の身辺警護を買って出たい。……恐らく、この魔導書を冒険者ギルドに提出すればボク達がこの『不凋花の迷宮』の最奥に辿り着いた事が噂で知られるだろう。そうなれば、君を狙う不逞の輩が現れる筈だ。原因不明の魔族の件もあるしね」

 人の口に戸は立てられない。勿論バルレーンは、この後に魔族の事も含めて委細を冒険者ギルドに説明するつもりだ。その上である程度の情報開示は控えてもらう腹積もりでいる。

 だが、それでも噂というのは立ってしまう。現に自分達が賢者の石を見つけた時も、建前上は公になっていないが現在冒険者には公然の秘密ならぬ公然の事実として知れ渡っていた。人というのはそういう物である。

「実質タダでファンやボクちゃんの警護が受けられる。君がどれ程力を取り戻してるかは分からないけど、悪い話じゃないと思うんだけど……どうかい?」

 確かに、バルレーンのその提案は魅力的な物だった。この取引の最大の利点は、アスフォデルスには何の損もない所である。ただ読み飽きた本を自分の部屋に置いとくだけで、多額の金と信頼のおける護衛が手に入る。むしろ断る分損であろう。

 だが、ここで少し色を付けてもらう事にしよう。

「良い提案だ。だが、こちらとしても条件がある」

「何だい?」

 何時もと変わらぬ口調で、赤髪の女盗賊はそう訊ねた。バルレーンは交渉事の鉄則を知っていた。……こういう時は平静を保つ物なのである。

「私はこれからある程度の魔術の研究を売ろうと考えてる。ただその研究資料の編纂の為には、一人じゃ手が足りない」

「なんとなく想像はつくよ」

「少し色を付けて欲しい、冒険の合間で良いからユーリーフを助手として欲しい。……勿論、本人の意思次第だがな」

 それが意味する事はただ一つ。魔術の徒弟として、ユーリーフを認めるという事だ。学びを実利ではなく名誉として取るなら、魔術師アスフォデルスの名前はあまり価値がないだろう。正体不明の魔術師というのは、騙ろうと思えば幾らでも騙れるからだ。しかし、学を実利として取るなら魔術師としてこれ程魅力的な話も無いだろう。

「……良いんですか?」

「お前さえよければ」

 返事は黒髪の女魔術師に浮かんだ喜びの表情で充分であった。

「まぁ、でも実質。今回の報酬の分配以外、特に今までと何の変わりもないんだよね。別にアスフォデルスがこの徒党から抜ける訳じゃないし。でも、契約は契約だ。……力を取り戻した所で悪いんだけど、ボク達と誓約を結んでくれるかな?」

 この場で言う誓約とは、法と力が双方に作用する。

 事、物理法則を改竄して自らの望む結果を引き起こす事が出来る魔術師という存在は、約束という物に関して極めて不安定だ。

 故にけして違えてはならない約束を結ぶ時、立法と共に呪いをかける。約束を守ろうとする者には加護を、破ろうとする者には祟りを……という具合に。

 これで一番有名なのは冒険者になる時に結ぶ誓約である。内容としては定期的に仕事を取れ、街が有事の際は逃げずに戦え、仕事の報告はちゃんとしろ等である。その代わりに仕事には筋力や魔力の向上と言った加護が与えられるのだ。

 ……バルレーンとしては、アスフォデルスへの感情を一旦脇に置いて、物品の売買が長期になるなら保証が欲しい。アスフォデルスが横紙破りをするとはあまり考えていないが、それでも人の心の移ろいやすさを考えれば誓約を結んで欲しいと思うのは当然の心理だろう。

 人情と損得は時と場合によって変化する。ならば、その時と場合を先に排除するのは冒険者として極めて合理的な選択だと彼女は考えた。

 もし誓約が断られるのであれば、一番信用されてるファングインを利用して仲間に引き込もうと思っている。少なくとも今の関係は続かせなくてはならない。

 ……ユーリーフとしては、今の状況で自分は一番得をする状況だと思った。経済的な事もさる事ながら、アスフォデルスの助手として一緒に研究が出来るのは魔術師として非常に魅力的だ。

 それに魔導書が売れるまでには時間がある。恐らく言えば、売れるまでの間閲覧する事も許可してくれるだろう。……よしんば誓約の遵守までは断られても、アスフォデルス自身が研究の助手として自分を欲しいと言ったのだ。第一目標は達成しているだろう。

 そしてユーリーフ自身、アスフォデルスとは何かと話が合う。人格としてはやや危うい所はあるが、魔術師としては折り紙付きで優秀な人物だ。この取引、何から何まで怖い位自分に損が無い。

 ……ファングインとしては、正直元の姿でいて欲しかった。

 誓約が断られるのであれば、それでいい。それはアスフォデルスの自由だから。でも自分はこの人を放っておけないから、ついて行こうと思ってる。

 そんな思惑が交差する中、アスフォデルスは――一瞬三人を見る。研究に盲目的な所はあるが、アスフォデルスとて伊達に長い人生を生きてはいない。三人が細かな思惑を抱いてる事ぐらい流石に分かる。それを咎めるつもりはない、人間関係にはある程度の利益があって生じる事は彼女にだって解ってる。

 ……誓約でこれまでと変わらず身の安全が保障されるなら、こちらとしても断る理由はないだろう。それにバルレーンが言った様に原因不明の魔族の件もある。

「あぁ、いいとも。お前達なら誓約は違えないだろうしな」

 そういうアスフォデルスの口調は、今までの必死さが幾らか失せていた。

 ――ユーリーフが持ち込んだ仄かな色味がついた羊皮紙が、条文で埋まるまではざっと三十分。羽ペンで綴られた誓約は概ねこういう物である。

 誓約主は魔術師アスフォデルス、誓約従はバルレーン・キュバラムとユーリーフとファングイン。

 結ぶ内容は今回の報酬について、力ある魔導書の保管期限について、魔術師アスフォデルスの生命の安全保障について。

 誓約主と誓約従の互いの攻撃の禁止、約定の遵守には加護を、約定の離反には互いの死を以って締結とする。……最後に全員の血判を押す事で、これを結ぶのが当人達である事の絶対証明となし、それを以って誓約となる。

「おぉ、流石は命賭けた誓約。加護も凄い」

 バルレーンはそう言うと、土壁に向かって右手を閃かせる。髪より細い針は、一瞬で三本。三本が一つに連なり――まるで一本の長針の様に突き刺さっていた。

 想定以上の加護による力の後押しに、バルレーン・キュバラムは感嘆の声を上げた。筋力と魔力の向上、それが誓約の加護である。

「どうだ、凄いだろ?」

 自分の金紗の髪を右手で流し、自慢げにそう言う。

「うん、――これで帰りの道中もあんまり疲れずに行けそう!」

 瞬間、アスフォデルスの顔は凍り付いた。ここに来て、アスフォデルスは思い出す。迷宮の奥に潜れば潜る程、帰りもまた歩いて行かねばならない事に。迷宮の奥に辿り着いたら終わりではない、そこからまた上に上がらなければならないのだ。

「ま、また? またあれを歩かなきゃいけないの?」

「そうだよ、でもこの加護があれば大丈夫! 今度は大して苦労しないだろうさ!」

 ここに至るまでの間、泥だらけの汗だくになりながら迷宮に潜った事を思いだすと、途端アスフォデルスの顔は青く染まっていく。

 しかも、行きはよいよい帰りは怖いの言葉がある様に、ここに来て地上に上がるに至って足される物があった。つまりは、今まで倒した怪物から拾った金銀。死脳喰らいに喰われた冒険者の装備。そして何よりも分厚くて重い本達。……これを持って上り道を上がるのである。

「よーし、じゃあ行こうかアスフォデルス!」

 いつもの笑みを浮かべ、地獄の鬼みたいな事をバルレーンが言うと。

「待って、待ってくれ! 地上への帰り道は私が何とかするから!」

 半ば泣きそうになりながら、アスフォデルスはそう叫んだ。

 ……結論から言えば、アスフォデルスは重たい荷物を持って上り道を上がらずに済んだ。彼女が出した答えはこうである。

 まず、手のゴーレムを大量に生み出し工房の床に大規模な魔法陣を描く。それと同時に作成したバルレーンが先程まで使っていた鼠のゴーレムを作成。この工房の座標を刻んだ石を持たせ、最初の赤樫の扉に続く階段の前まで行かせる。

 最後にアスフォデルス自身が膨大な魔力を魔法陣に込め、召喚魔術の応用で自らを座標の石まで召喚。それで殆ど労する事無く重たい荷物と共に、地上に出た。

 赤樫の扉を潜り抜け、建屋の外に出れば広がる空の色は青と赤。畑の畝の様に広がる雲を、暮れてゆく太陽が燦々と照らしている。……そこでバルレーンは一度、背中を伸ばした後。

「流石大魔術師、本当君がいると便利だね」

「……だろ、魔法陣はそのままにした。新しく魔法陣を刻めば工房には何時でも行けるから、な? な?」

 まるで懇願するかの様にバルレーンへアスフォデルスはそう言う。

「ボクは君との冒険楽しかったけどね」

「私、しばらくいい」

 そういうやり取りの中、ユーリーフはと言えば。

「……本来の日程を大幅に短縮して上に来たのは良いですが、生憎私達の送迎の幌馬車が来るのは一日先ですね」

 迷宮から行くのに馬車を使ったなら、迷宮から帰るのにも馬車を使う。基本的には大体の帰る日時と時間を伝えておき、迎えが来るまでに何とか帰還するのが常であった。

 よしんば予定より早く帰還した場合は、大抵が仲間に一人はいる魔術師が適当な鳥を捕まえて即席の使い魔にし、それで城郭都市にいる幌馬車業者に連絡を取り来てもらう。しかし、生憎空には鳥は見当たらない。

 それにユーリーフは実力こそ高位の魔術師であるが、そんな彼女にも一つ弱点がある。それはゴーレム以外の使い魔を使えないという物だ。だが、ユーリーフのゴーレム魔術は露見するのはまずい。

「なんとかなる、アスフォデルス?」

「ゴーレムを使わず目立たず、幌馬車に連絡を取りたいか――なんとかなるぞ?」

 バルレーンのその問いに、アスフォデルスは即座に頭で算段を立てると実行に移す。歯で右手親指の皮を食い千切り、血を地面に垂らす。

「《此れなるは黄金の権能。肉には土を、魂には鳥を。我が血を以って、汝を生み出す》」

 古代語で呪文を唱えると、血を落とした土塊から卵が産まれる。それは直に孵化し、灰色の鳥の雛になったかと思えば、瞬く間もなく成長。翡翠の羽を持つ鳥となる。そして鳥は一度羽ばたくと、アスフォデルスの肩に乗り小さく啼いた。

「今、何したの?」

「鳥を捕まえるのもめんどくさいから、鳥を作った。で、後は手紙でも足にくくれば良いだろう」

「ゴーレムなのそれ?」

「基本は似てる。これは、ちょっとした応用だ――この身体はな、私自体が生きて歩く一つの魔術だ。だから我が血肉を以ってこの鳥を作った。どうだここら辺にいる鳥に似てるか? 似てないなら作り直すぞ?」

 何でもない事の様にアスフォデルスはそう言うのを、徒党の誰もが言葉を無くし驚愕してみていた。

 生命の創造。それは最早魔術の域を超えていると言って良いだろう。自分の意思一つで土から生命を作る等、それは最早神話時代の神々に片足を着けていると言って良いだろう。

 不死の花。赫奕たる異端。大歯車遣い。そして何より、背きし者。……数々の名で彩られた大魔術師アスフォデルスの復活の狼煙としては、今はたったこれだけでも十分過ぎたに違いない。

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