第10話
死脳喰らいを戦って打ち倒すしかない。そういう結論となった。
彼女等が立てた作戦――というよりも、最早方針と表現すべき物はとりあえず探索を続け、襲撃されたら死脳喰らいの足を止めてその場で討つという物だ。
十階の休息地点で襲撃を待つ事も考えたが、その案は安全は確保できるが食料の消費に関し、逆に兵糧攻めを取られるので却下。
これまで以上の警戒心を持って、彼等は何処までも続く闇の石迷宮を進んでいく。先頭をファングイン。中間にユーリーフとアスフォデルス。後方にバルレーン、最後尾にアンオブタニウム・ゴーレムである。
一見ファングインが掲げるランタンの灯だけを頼りに無作為に歩みを進めている様に思えるが、彼等の徒党の十メートル先にはユーリーフが作ったゴーレムが斥候を果たしていた。ネズミを彷彿とさせる形状をしており、顔には小指の爪程の乳白色の魔力結晶が嵌められ、それはバルレーンの左目に繋がっている。操作権も彼女の左手に移行していた。
何故バルレーンがゴーレムを使ってるかと言えば、バルレーンの耳目が徒党の中で一番良いのと、何かあった際は彼女がアスフォデルスを守る役割を買って出たからであり、その二つを両立する為であった。
「うん、今の所は問題なし。壁に亀裂もない」
死脳喰らいは迷宮の裂け目の中を移動する。死脳喰らいは探せども、身のこなしに難があるユーリーフやそもそも戦闘技術のないアスフォデルスが襲われる事を懸念した故、彼等は逐一亀裂を警戒して移動していた。それにそもそも、彼等は無作為に進んでいる訳ではない。彼等には死脳喰らいの居所と襲撃のタイミングを辿る術もあった。
「触手をこう使うとはね」
アスフォデルスに巻き付いていた触手に五芒星を刻んで、ユーリーフに予め教えた呪文を唱えさせる。それにより触手は本体の死脳喰らいを求め、まるで蛇の様に彼等の足元を這っていた。
「見つけたら蛇が鎌首をもたげる様に縦に立ちます。その時は合流する前に銀器で殺して下さい。もし、何らかの魔術が来た場合は直ぐに教えますから」
居所を辿るのは死脳喰らいの尻尾に、死脳喰らいが何らかの魔術を使ってきた場合は魔力の熾りで何の魔術か察知出来るアスフォデルスが教える事になっている。
――一行がそれまで通っていた一本道を抜ける。
喩えて言うなら、そこはこの迷宮の背骨の様な所だった。広大な空間に八メートルはあろうかという柱が幾つも乱立し、目の前にぽつりと出口が存在する。
「大広間だ……奴が仕掛けるならここだろうね」
バルレーンがぽつり、とそう言うと。
「待って、何か転がっている……なんか棒みたいな物」
彼女達は恐る恐る前に近寄りそれを拾った。
それは魔術師が使っていたと思しき杖だった。長さは百二十センチ程。造りは非常に簡素で、削り出された木材に古代語が刻まれ、仕上げ用の上薬が塗られているだけである。
アスフォデルスは杖を拾うとつぶさに調べ上げる。そして青い瞳を細く狭めた後、皆に向けて話しかけた。
「これは櫟で出来てます。杖に刻まれた古代語から察するに、作られたのは数年前。全体に塗られた仕上げ用の薬は所々剥げ、使用者の魔力がよく杖に馴染んでいるのは使い込まれた証拠」
彼女は杖の頭を少しだけ鼻に近付け、左手で軽く煽いで匂いを嗅ぐ。
「杖にこびり付いた甘く眠りを誘う残り香、眠りの霧を出す『スリーピング・ミスト』の魔法をよく使ってたらしいですね。これからは手ぬぐいを口と鼻に当てた方が良いでしょう」
……その時である。うなじに霧が触れる感触が走ってから一拍置いて、ちかりと右側で緑色の光が一度瞬く。
「眠りの霧、来ます!」
「《眠りに誰彼なく、嫋やかなるものは速やかに降り場を包むべし》」
闇の風に紛れ、古代語で唱えられる呪文が全員の耳に確かに届いた。
――射干玉の闇の奥、緑色の甘やかな香りの霧が速やかにやって来る。
足元の触手が鎌首をもたげるとバルレーンは手のひらを翳し、身を這った刹那触手は溶ける様にその場から永久に消えた。
「あ……」
そこに、なにかこの場で聞きたくない類の声がした。
バルレーンが赤瑪瑙の瞳を周囲に走らせると、ファングインとユーリーフは手ぬぐいを当てているが、アスフォデルスはなんと手ぬぐいを床に落としていた。彼女の知識が正しければ先程耳に入ったのは『スリーピング・ミスト』の最後の一節、既に手ぬぐいを拾おうとしても遅い。
ファングインは霧と共にやって来た五本の触手の襲撃を弾き、ユーリーフはそれによりアスフォデルスの様子に気付くのが一拍遅れ、当のバルレーンも先程触手を攻撃した為膝を折って手ぬぐいを拾い、再度彼女の口に当てる等時間が足りず行えない。
本来ならば。しかし、奇しくも彼女はバルレーン・キュバラムであった。
赤い瞳が一度収縮する。
傍から見れば赤い髪が揺らめく残像にも見えただろう。彼女は無いに等しい僅かな時の中、膝を半ば折って地面に落ちた手ぬぐいを拾うと、霧の粒子が何もかも覆う寸前でアスフォデルスの鼻と口を塞いだ。……まるで時という鎖から抜け出したかの様に。
そして、緑の霧が全てを覆う――
眠りに誘う霧の中、矢継ぎ早に容赦なく襲い掛かる触手をファングインは凌ぐ。
対敵の姿全体が見えないという状況、密集した一方通行の通路、呼吸を邪魔する眠りの霧、一本また一本と増える触手の同時攻撃。そのどれもが死脳喰らいを有利にする筈であるというのに、……二十本目の触手が弾かれた時から、死脳喰らいの心は徐々に白くなっていく。
一手、また一手と自らの手が防がれる度に脳から技や経験を読むのが遅くなっていった。まるで水が沸点を迎え、急騰する様に触手との刃の応酬は一つの結末を迎える。
刃を迎えてから百数合。刃圏の内に入った全ての手を時に弾き、時に斬り落としたファングインであったが、死脳喰らいが見せた僅か〇.一秒の隙を突きそれを切った。
「うー」
たった一声。風切り音も影もなく、ただその一声があの時と同じ不可避の破壊の兆しであった。
周囲を包んでいた眠りの霧その物が、その一声と同時に一切霧消する。後に残ったのは彼女の右手に握られた刃の煌めきだけ。……ファングインは、たった一本の剣だけで魔術の霧を斬ったのである。
「アスフォデルス、大丈夫?」
「えぇ、何とか。助かりました……」
「そうか、よかった。ユーリーフは?」
「……うん、わたしも大丈夫」
バルレーンは二人に声をかけながら、左手を走らせ斥候用ゴーレムで周囲を見回させる。すると大広間の天井に、醜い不定形の肉塊が張り付いていた。丁度アーチの要石の裏側に隠れており、普通に攻撃しても要石が壁となって防がれるだろう。
「そこか。――ユーリーフ、あそこに一発強いのを当てて!」
「……うん、分かった!」
そう応えると、黒髪の女魔術師は右手を上に上げる。ふわりと彼女の黒いローブが腰までめくれ上がると、そこには真鍮製の筒が二対吊り下げられていた。それに魔力の糸が通ると、中央に填められていた数字が刻まれた円環が回転し始める。
名前を傀儡環という。ゴーレム教団の魔術師達が、ゴーレムを繰る際に使用する道具であった。
彼女が指を動かすと杯の騎士はメイスを持った右手を突き出す様に上げ、次いで手首を拘束で回転させ始める。
「《機構の一つ、撃炮なる右》」
古代語でそう唱えると、杯の騎士の右手が爆ぜた。右拳は錐揉み回転をし、鎖を手首から伸ばしながら丁度死脳喰らいがいる所に直撃する。ゴーレムの拳は、速度と衝撃をもって花崗岩の要石を砕き、死脳喰らいを地面に叩き落とす。一体何が起こったのか混乱する素振りを見せる魔族に対し、バルレーンは短く指示を飛ばした。
「ユーリーフは奥の手の準備。アスフォデルスは魔法銃を引けるようにして――ファン! 予定通り今から百二十秒持たせて!」
死脳喰らいと遭遇した場合、それぞれ決められた役割に徹する事となっていた。
バルレーンは死脳喰らいの足止め。それに対敵の妨害とアスフォデルスの護衛。最後の止めがユーリーフ。持っている切り札を切り、魔族の息の根を確実に止める。
そしてユーリーフが切り札の準備をしている間、魔法を含めた攻撃は全てファングインが防御し、アスフォデルスは魔法銃で常に安定した攻撃を続けるのが振り分けられた役割である。
ここで戦略の難点になるのが、切り札の準備時間だ。ユーリーフの呪文詠唱にかかる時間が百二十秒。……二分の間、この怪物から生き残らなくてはならない。
「……バルちゃん、足止めお願い!」
「ほいさ!」
その返事と同時に、彼女が軽く両手を握ると指の間に得物が収まる。右手に握ったそれは酒場でアスフォデルスに見せた影打ち針よりも細い、……目を凝らしてようやく見える程の針だった。
体内中に大量に隠した――ともすればちょっとした力で折れてしまいそうなそれが、彼女が使う本当の得物である。
バルレーンの赤い髪と瞳が揺れる。すると一瞬闇が銀に切り裂かれ――
「あ、ああぁぁアアアぁaaAAああああ!」
聖なる金属に焼かれる、老若男女が入り乱れた複雑な声音の悲鳴が響いた。……見ると死脳喰らいの足元には無数の銀の針が刺さり、白煙を出しながら魔族の足を焼いていた。
「奴の足を封じられたよ!」
ユーリーフは無言で頷くと背後のゴーレムに対し右手を振り、鎖付きの拳を戻す。ゴーレムの右拳が戻ると彼女は懐からある物を取り出した。それは錫で出来た一本の試験管であった。白銀に輝くそれは中に何が入っているのか知る事は出来ない。
黒髪の女魔術師は左手で魔力の糸を繰ると、背後の鎖のマントを巻き上げ背中を顕にした杯の騎士の中に、右手に持った試験管を入れた。
そして彼女は目を瞑り古代語で呪文を唱え始める。アスフォデルスは銃弾と霊薬を手早く装填し呪文環を回し――
「はい、もっと左側に修正。そこでストップ。で、少しだけ上に角度を修正。はい、撃って!」
そのままバルレーンの指示に従って引鉄を引く。銃口から霊薬の煙が立ち上り、破裂音を上げて魔法で覆われた鉄の弾丸はファングインの脇を通り抜け、赤い光は魔族のエクトプラズムで編まれた身を穿ち、そのまるまると肥った腹に当たり霊肉を散らす。
そこで、うなじに雷が走る感覚が一つ。
「雷来ます!」
「ほいさ」
アスフォデルスの叫びに駆られ、バルレーンの針が再び闇を切り裂いたのと。
「《理を以って手に灯す、雷よ奔れ》」
死脳喰らいが喰らった冒険者の一人の脳から引きずり出した雷の呪文――ザップを唱え、青白い稲妻が瞬いたのと全く同時だった。
閃光が目を晦ます――
ザップは雷呪文の中でも低位であるが、矢の魔術以上の威力があり、冒険者四人を為す術なく飲み込んで余りある。しかし、その防ぎようが無い筈の魔術は同時に放たれたバルレーンの針によりほんの僅か、一瞬だけ中空に停滞する。そしてそれをファングインの影なき刃が切り消した。後に残ったのは再びの暗闇である。
アスフォデルスはそのまま装填した魔法銃の引金を放つ。
二発目の弾丸は、敵を穿つ筈だった魔術が理不尽にも防がれて空白になった魔族に難なく当たった。次いでバルレーンが針を投擲し、死脳喰らいから短い呻き声が連続して響いた。
三発目の弾丸と霊薬を入れ、呪文環を回す。そして後は引鉄を引くだけという所で、三度目のうなじが騒ぐ感覚。今度は風がそよぐ物だった。風に紛れ死脳喰らいから呪文が聞こえる。
「《空にいまし鳥の御霊に希う。風よ、壁となれ》」
瞬間、地下迷宮に風が息吹いた。風は彼女等の髪も服も強く靡かせると、そのまま死脳喰らいの元に集まり分厚い空気の壁となる。
度重なる攻撃に晒され痛みに耐えながらも魔族が百ある魔術から選んだのは、数日前に喰らったハーフエルフが使うウインド・プロテクションの呪文だった。そうして作った暴風圏の中、死脳喰らいの赤黒い身体の各所が一度ぼこんという大きな泡立つ音を立てて裂ける。そしてそのまま歯と舌が生え、身体中が口で覆われる形となった。突如生えた口は、皆それぞれが古代語の呪文を詠唱し始める。矢が掠める感覚が八、さっきより強い雷が一、暖かな光が一とアスフォデルスに走る。
「矢の魔術が八発来ます! それとさっきより威力の高い雷が一つ、最後の一つは治癒です!」
わかった、という様にファングインが唸った直後。闇の中から様々な古代語が響いた。
《力は矢、意思は弓》
《理は雷を模る。光芒を招いて募り、満ち足りる其は貪婪たる破壊》
《傷を癒すは我が手なれば》
……その様を見て、バルレーンは眉根も動かさずに呟いた。
「撤退を諦めて、風の障壁の中に籠り、相手に攻めを許さない為絶えず攻撃を仕掛けつつ傷を癒し、その隙に大技の準備をするってとこか」
ファングインが触手の猛攻と共に入り混じり始めた赤い魔法の矢を剣で叩き落とす中、バルレーンはもう一度針で闇を閃かせる。すると、闇の中で一度短い呻きが上がった。その響きは、まるで刺す様な痛みに堪えた様である。
「やっぱ駄目か、風で威力が殆ど殺される。銀はさっきので全部使ったし。――で、アスフォデルス。あれ何とかなる?」
バルレーンが仄かに顔を顰めそう言うと、アスフォデルスは真顔で表情を崩さないまま。
「えぇ、簡単です。とりあえず、あの風の呪文を唱えた奴の口の位置を教えてくれますか?」
そう言ったアスフォデルスにバルレーンが位置を教えると、そのまま茶髪の少女は鬼火の様に赤く瞬く魔族に照準を合わせて引鉄を引いた。
死脳喰らいに魔術が迫った直前、風は集い分厚い壁となる。そして、それは防がれる予定の弾丸に接触し――風の壁が消失した。そのまま鉄の弾丸は再度死脳喰らいの霊肉を抉り、右胸に出来た口ごと吹き飛ばす。それはウインド・プロテクションの呪文を詠唱していた口である。
たったその一射で、風の壁はあっけなく霧散した。
「当たったよ。残り百十、……でもなんで?」
「理由は後で教えますよ、今は石を交換しないといけませんから」
アスフォデルスはそう言うと、魔法銃を垂直に立てて撃鉄の先の螺子を緩める。そうすると挟んでいた魔力結晶がぽろりと外れた。乳白色の結晶体は魔力が抜けきった結果、石畳に落ちた途端砕け散る。
「三発、まぁ持った方です」
魔法銃の欠点がこれである。消費される魔力を魔力結晶の火打石で代用してる代わりに、魔力結晶が消耗しきったらその都度交換しなくてはならない。
その時、アスフォデルスの心臓が強い一打ちをする。それはスケルトンの時と同じ感覚であった。しかし、その考えを走らせかけた直後それはバルレーンの針の投擲に掻き消される。
「《雷霆は須ら――がaッ!》」
風の守りが失せた直後、針が雷の呪文を詠唱していた口に突き刺さる。それは舌と上顎を貫通し、魔族に使役される脳までに達した。彼女達が会話する間もファングインは、襲い掛かる触手の猛攻と矢の魔術を弾き続ける。現在数百合を超えたかというのに、銀髪の剣士は未だ息切れ一つ見せない。
ユーリーフは漆黒のアンオブタニウム・ゴーレムの背後で、古代語による詠唱をし続けていた。
「残り百!」
× × ×
――次々に生まれる死線を、刃で撹拌し防ぐ。ファングインは死脳喰らいとの戦いの中で、息切れ一つする事なく防衛線を張り続けている。
右から来る触手の大振りの一凪にファングインが手繰る刃が交錯したかと思うと、それはするりといなされて軌道を大きく逸らされる。外した触手は真横にあった石柱に激突し、花崗岩で出来た胴体を横真っ二つに砕いた。
「うー」
間髪入れず死脳喰らいから一呼吸の内に三度突く大技が放たれる。しかし、たった一瞬――一合で技は不発に終わる。
放った初弾の突きは、ファングインの刃と合った途端。いつの間にか斬り落とされていた。いかなる技術か。剣の刃が触手に当たったかと思った瞬間、当たった箇所から全ての力が――膂力は言うに及ばず、速力や推力、破壊力すらも――その一切合切が消失し静止する。
これがファングインが使う第一の魔剣、『花の剣』である。どれ程の威力を誇ろうとも、彼女と剣を合わせた瞬間花開く力より儚く霧散させられる。
……花の剣に機先を取られ続ける中、死脳喰らいは取り込んだ脳から剣技の知識を引き出し続けるが、これを破る術は見つからない。
「あっ、あっ、死ぬ、死ね、殺して、殺す――」
縦一閃に振り下ろした直後、触手を折り返し直に振り上げる技を出す。剣を合わせた瞬間ファングインの刃を跳ね上げ、隙を見せがら空きになった頭を潰す為の一打。
それも一合で霧散。その攻撃は銀髪の大女を仕留めるどころか、その緑色のローブにすら届く事はない。
……ファングインが前線で盾となっている中、その横から赤い光が横切る。それはアスフォデルスが魔法銃から放った矢の魔術であった。放たれた魔術は次々に命中し正確に死脳喰らいが取り込んだ脳を潰していく。
そんなアスフォデルスは妙に騒ぎ始めた内心を押さえながら引鉄を引き続けていた。魔族に対する恐怖心ではなかった。それとは違う何か嫌な感覚、禁忌を犯すような忌避感が徐々に心を占めてくようになっていた。
それにスケルトンと対峙した時の様に、妙に上がっていく鼓動と息の事も気になっていた。頭は冷静なのに、身体は何故だか一拍また一拍と早くなっていく。ただ、あの時と違うのはまだ身体が沈む程の没入感は感じていない。
「アスフォデルス、大丈夫?」
バルレーンがそう言いかけた時だった。
死脳喰らいは盗賊の脳から知識と経験を無理矢理引きずり出すと同時に触手の筋肉を調整。その状態で盗賊の死体から剥ぎ取った短剣を十数本、霊肉の中から取り出すとそれを投擲する。
ファングインとバルレーンは咄嗟に起きたその攻撃を剣と針で殆ど防ぐも、ただ一本のそれが詠唱中のユーリーフへと向かう。
「あ、やっば――」
赤髪の女盗賊が一瞬そう漏らしたのが聞こえた瞬間、アスフォデルスの目に向かってくる短剣が点となって見えた。
その時、自然と息が止まり。代わりに身体が即座に思考の海に沈み込んだ。脊髄反射的に投擲された短剣の角度と速度、軌道に関する方程式を組み上げ、それを即座に解き明かす。……弾き出した算は、このまま行けばユーリーフの胸に短剣が命中し心臓を砕く事を示していた。
思考は加速する。瞬間思い浮かぶのは、ユーリーフが死んだ時の精巧な想像図だ。薄紫色の瞳孔が開き、黒い髪を乱して地面に倒れる。その赤黒い血が静かに流れる様が――その姿が遠い昔に通り過ぎ去った友の姿を思い出させた。
『それでも僕は、君の事を愛してるんだアスフォデルス。永遠に』
友の名前は、アルンプトラ。同じ魔術師ファルトールの弟子で、かつてパルトニルにゴーレム教団を築いた魔術師。彼もまたユーリーフと同じ黒い髪と薄紫の瞳を持っていた。
その姿が、重なる。
瞬間、脊髄反射的に彼女は次の行動を取った。
「――」
アスフォデルスは即座に自分の位置と魔法銃の威力、速度、軌道を計算。……そして直進する短剣の角度と速度から投擲位置と投擲形態を算出。その位置に銃口を合わせ、呪文環を回し、引鉄を引いた。霊薬が錬金術反応で弾け、赤の魔弾が射出される。
「ッ!」
赤い光が燐光を散らしながら爆ぜる。
吐き出された魔弾は進行方向上の短剣を一瞬で喰らい尽くした後、更には闇の奥にいる次の短剣を今まさに投擲しようとしていた触手を抉りきった。それまで短剣を握っていた触手は諸共屋の魔術の威力の前に跡形もなく消失する。
瞬間、死脳喰らいが悍しい声にもならない絶叫を上げた。
「ん、ぁ……」
「アスフォデルス!」
対して、アスフォデルスの口と目から血が溢れ出す。膝から力が失せ、地面に倒れかけそうになった所をバルレーンに抱きかかえられた。茶髪の少女の顔は徐々に血の気が引いていき青ざめていく。
呼吸もまばらで、体はまるで氷の様に冷えていた。これがこの行為の代償だった。元々肉体が貧弱だった所に、高速で殺到する短剣を銃弾で撃ち落とし更に奥にいる二発目を潰すという神業を行ったのだ。その反動はあって然るべきである。
バルレーンは即座に彼女の身体に針を刺し、気道に詰まっていた血を吐き出させる。それと同時に血の循環を促進させる為に十数本針を打つ。……むせ返った様に数度咳き込むと地面に血反吐を吐き出し、それでようやくアスフォデルスは体温と呼吸を元に戻した。
それを見てバルレーンはファングインに叫ぶ。
「ファン、こっちは大丈夫! 生き返らせた――残り五!」
彼女のその声に、ファングインはこくりと頷きを返すと同時に剣を振るう。そこに柄を走って奇妙な感覚を覚えた。
それは死脳喰らいの触手に込められる力が一段強まり、それに比例するように攻め方が単調になったきらいだ。まるで何かに心乱されるかの様に。
そして、この吐きたくなる妙な忌避感は一体なんなのだろう。
極楽百合の香りが周囲を包む中、剣戟は終局に向かう。
「四!」
ファングインが剣を右上に上げた隙を突き、数十本目の触手が直線の突きを放つ。
「三!」
ファングインは返す剣でそれを叩き落とすと、次いで矢の呪文が再び赤く輝く。ファングインは右回りに身体を一転させ、魔弾は円弧の刃に消えた。
「二!」
銀の髪が篝火に照らされる。魔族にはもうファングインしか見えていない。
「一!」
琥珀色の瞳が闇の奥を見通す。……死脳喰らいの目に剣の刃の煌めきが映り、魔族の命運はここで尽きた。
「《其は我が身に宿る神の髄液、其は灼け煮え滾る――》」
ユーリーフの詠唱が響く。
「《汝は杯、血を収める為鍛たれた不壊の器なり》」
その一節が唱えられた後、今まで瞑られていたユーリーフの目が見開かれる。
「……準備出来たよ、バルちゃん」
「よし、アスフォデルス。下がるよ」
言われるがまま、二人は事前の取り決め通り剣で魔法の矢や触手の猛攻を防ぐファングインを残し、対敵を目に収めながらゴーレムの背後に回る。
「零。――時間切れだ、魔族。もういい、戻ってファン」
その言葉に呼応する様に、ファングインは魔技を一つ見せる。
ひと時は、数十本目の触手が何気ない突きを放った時であった。感触の一切を残さずファングインの体が背後に吹き飛ぶ。
予想外の結果に、死脳喰らいは一瞬面を喰らった。そしてその隙を突きファングインはあろうことか螺子の様に、背走で壁を――五メートルの高さの天井すらも逆さのまま――ぐるりと一回り駆ける。ファングインが左からアスフォデルス達の元に戻った時、死脳喰らいの目に映っていたのは二メートルの黒色の騎士像だった。ユーリーフはゆっくりと鉄の騎士を前に歩ませ始める。
「……魔族は銀器――即ち聖なる物に弱いと聞きます」
ぽつり、とそれまで影の薄かった長い黒髪の魔術師が唇を開く。その時、死脳喰らいの霊肉で模られた身にぞくりと浅い戦慄が奔った。
「……バルちゃんの針ですら外せないのです、貴方達魔族にとって聖なる物は致命的なのでしょう」
なにか、嫌な予感がする。
死脳喰らいがそう予期し鉄人形が一歩一歩重たい足音を響かせる度、徐々に色が変わる。黒から赤、赤から白に。色は熱量を帯び、やがて自然と火の粉を散らし始める。
その頭も、右手に握ったメイスも、左の盾も、鎖で形作られたマントですら。その全てが白熱化し、周囲の空気を焦がし尽くしていく。
「……ならば、わたしは魔族の天敵と言っても過言ではありません。なぜなら、この身には神の血が流れているのですから」
神話において、神の血を受けた鉄人形はその膂力によって全てを壊すだけでなく、自らに近づく者を身に流れる神の血を燃やす事で全身を白熱化し灼いたという。
ゴーレム教団の秘儀、アンオブタニウム・ゴーレム。その真実は卑金属変換によって疑似的にオリハルコンを精製し、そこに人体で培養された神血を投入する事により、神鉄の巨兵を再現する事を指す。それが、ゴーレム遣い・ユーリーフ――ユーファウナ・ルアルフォス・アルンプトラの切り札である。
ゴーレムの名が“杯の騎士”である理由はここにあった。
「《最後の機構、――赫奕たる神鉄》」
杯の騎士が灯すのはただの火ではない。それは神から人にもたらされた文明の火である。この火は文明をもたらして滅ぼす権能そのもので、あらゆる物を焼き尽くす文明喰らいの性質を持つ。
余りの神々しさを少しでも阻む様に死脳喰らいは懸命に矢の魔術を放つ物の、それはアンオブタニウム・ゴーレムの肌に当たってもたたらすら踏ませない。ゴーレムと魔の者の距離は徐々に縮まり、やがて零となった。そして、メイスが振り下ろされる。
その一瞬、メイスに灯った焔が一閃を描き、それは槍を彷彿とさせた。
「何かあるとは思っていましたが……」
「やっぱり気付くよね」
焔に染まったメイスが死肉を焼き、死脳喰らいが苦悶の絶叫を上げる中。ぽつりと呟かれたアスフォデルスの言葉を、バルレーンが拾った。容体は先程よりかは少し落ち着いてるが、声から察するに具合はよくない。バルレーンに介抱される形となりながら、アスフォデルスは会話を続ける。
「学者崩れにしては学があり過ぎますし、稼げるゴーレム遣いで冒険者をやってるなら誰だって何かあるとは思います」
「それは確かに」
ゴーレム教団の、彼女の親友であるアルンプトラが築き上げたものの結末はこうだ。
交易都市を中心にゴーレム教団はこの二百年の中で利益と権勢を広げ続け、肥大化を続けた。それは大元である魔術師ギルドからも疎まれる程に。
そして、つい一年前に当時の教主アルンプトラがとうとう魔術師ギルドとの破局を宣言しその結果蜂起。魔術師ギルドは王国と結託し、ゴーレム教団に王国への叛意有りと判断し討伐軍を結成。その泥沼の戦いの結果、太古の神造兵器である神鉄の巨人を目覚めさせるも、その場にいた冒険者の手により討伐し組織も壊滅したという。そして教主アルンプトラの血族――一人娘のユーファウナはこの事件を機に姿を消したというのが世に知られる大まかな事の顛末だ。
「ボクと出会う前ファンって、ゴーレム教団とやりあってね。ゴーレム教団を壊滅させて、神鉄の巨人に取り込まれたユーリーフを攫ったというのが真相」
「それはまぁ、言い辛いですよね」
「うん。で、ユーリーフってば教団のお姫様だったもんだから復権を目指す残党に狙われててね。それで身を隠す為に冒険者やってるって訳……ユーリーフのゴーレムは目立つからね」
そう言った後、アスフォデルスは改めてユーリーフの顔を見る。その腰まで届く黒髪といい、瞳の色といい、何処か通り過ぎ去った友の顔がちらついたのにも全て道理が行った。……否、己を振り返れば気付くべき物は色々あった。ゴーレムの操り方や傀儡環、アルンプトラと繋がる物は幾らでも上げられる。恐らく、無意識の内に考えない様にしてたのだろう。ただアルンプトラの死を認めたくないが為に。
「ユーリーフさんがアルンプトラの子孫か……」
アスフォデルスが今は亡き、かつて同じ師匠と学んだ友の面影をユーリーフに垣間見ると同時。
何とかこの場から逃れようとする魔族の赤黒い身体を、目を覆いたくなる程熱せられた白炎が無限に焦がす。神の血に焦がされた騎士人形は、魔族にとって全身が銀器以上の凶器であった。ゴーレムが左手に握った盾を押し付けると、丸々と肥った腹の肉がまるで酸を浴びたかのように焼かれ溶ける。
それまで呪文を唱えていた口達も、一緒になって苦悶の叫びを上げ、やがてはそれも枯れ果てた。
――魔族に取り込まれた者に救いはない。
それは単に生きながらに脳を摘出されたというだけでなく、死脳喰らい――ひいて魔族は取り込んだ獲物の死後の魂、その在処すら穢してしまうのである。
魔に取り込まれた者はそのまま魔となり、魂は天に昇らず地にも落ちない。輪廻の環から外れ、ただ己が存在を嬲られるだけ。故に、彼等を救うとすれば魂を一片も残さず消滅させる他ない。
魔族に穢されるというのはそういう事であり、魔族から救うというのはそういう事なのである。
騎士人形は無慈悲に右手のメイスを振り下ろし続ける。その切っ先が魔族の霊肉を抉り焼く度、死脳喰らいは溶けて消えていく。その時、一度死脳喰らいの身体がぼこりと大きく泡立った。その肉の泡は徐々に人の形を取っていく。
やがて出来たのは獣人の男の姿だった。色こそ赤黒いが、短く切りそろえられた短髪まで再現されている。
「な、なぜだ。なんで俺達が死ぬ……」
それは人間の様に見えるが、魔族によって再現された在りし日の姿にしか過ぎない。その苦悶の生々しさも、単なる肉体反応にしか過ぎないのだ。
「いやだ、いやだいやだいやだ……」
次いで、泡はハーフエルフの女の姿になった。
「なんで、アンタ達が生き残るのよ! なんでなんでッ! わた、わたしわたしが……あ、溶け」
その赫奕たる神鉄が振り下ろされ、ハーフエルフの女の泡が弾ける。次々に湧き上がる苦悶の声を、杯の騎士は次々に潰していった。メイスが振るわれる度、焼け焦げた赤黒い肉片が飛び散る。
その一瞬。
――あぁ……火が、かあさん!
死脳喰らいの中から、子供の様な声で誰かがそう言った気がした。やがて霊肉の焦げる匂いすら薄くなり始めた頃。
「なんで、なぜ……俺は死ぬんだ……」
「君達が生き、ボク達が死んだ事に特別な理由なんてないさ……君達が死んだのは運が悪かったの一言で片づけられる」
末期の魔族に答えたのはバルレーンだった。アスフォデルスを介抱し続けながら声音は極めて平坦で、それはまるで死神を思わせる。
「あぁ、でもそれ以上の理由があるとするならば――」
「なぜ、なぜ……」
「迷宮とはそういう場所で、君達は迷宮を侮った。背中に気をつけろ、迷わず放て、魔力を切らすな――龍には手を出すな。……新人冒険者が教わるその警句を君達は破ったが故、こんな事になった。それが君達の敗因さ」
まるで弔いの聖句の様に告げたその言葉が、死者に届いたかは分からない。泡は弾け、後には痙攣する魔族の肉が横たわるだけだ。
――その時、一瞬魔族の触手がアスフォデルスに伸びた。
そして、一拍遅れファングインの鼻が一度鳴り、その左の琥珀の瞳が大きく見開かれる。
一本の触手は恐る恐るというべきか、彼女に向かってゆっくり伸びるものの、それはファングインが突き立てた剣の刃にあえなく遮られた。
「なんで、……なんで私のとこに?」
何故自分の所に触手を向けたのか、未だ理解出来ていないアスフォデルスは困惑の声を上げた。そしてその声に反応する様に死脳喰らいはその肉を蠕動させる。その時、彼女が斜め上から見たファングインの顔は何故だか曇っていた。まるで痛ましい物を見る様に、視線は憐れみが籠っていた。
「……うー」
声音も低く沈んでいた。先程の激戦からの生還した喜びはない。ただ、突き立てられたファングインのその剣は死脳喰らいへの墓標の様であった。
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