第8話


 『不凋花の迷宮』の十階に到着した時、アスフォデルスは精も根も尽き果てていた。

 疲労の分量は荷物や徒歩の重さ三、度重なる戦闘に神経を擦り減らせたのが三、幾重にも続く石造りと暗闇に気が滅入ったのが四だ。

 途中途中で小休止をこまめに挟んだものの、体力は回復しても気力はじわじわと減り続けていく。だからバルレーンがどこまでも続く石造りの迷宮の、まるで出口の様に佇む茶色い両開きの扉の前で「今日はここを野営地にするよ」と言った時、一瞬彼女が赤毛の女神に見えた程である。

「よ、ようやく終わったんですか?」

「うん、今日はもうこれで終わり」

 扉を開く。まず目に飛び込んだのはランタンがいらない程の明るい光。次いで、半径二十メートルはあろうかという大きな地底湖だった。扉の手前には分厚い白の花崗岩で作られた足場があり、恐らく直近で他の徒党が使ってたのであろう、中央には木切れの燃えカスが残っていた。

「ここだけは光苔が生えててね、それでこれだけ明るいんだ」

 野営地の設営は簡単な物で、この階にいる魔物をある程度間引いた後、バルレーンが野営地の前にある左右の分かれ道に鳴子の罠を仕掛けただけだ。トイレの場所は元々階ごとに冒険者間で決まっており、彼等の野営地から五メートル離れた場所にある。後行った事と言えば、そこら辺に転がっていた石でフライパンを置く台を作ったぐらいか。 

「あー、すっごい疲れた」

「お疲れ様、アスフォデルス。身体は大丈夫?」

 アスフォデルスは結局今日は一回も使わなかった魔法銃を杖にし、その場にへたり込んだ。そこで、バルレーンが赤革の籠手の位置を直しながらそう声をかける。

 戦闘はほぼほぼファングインが方を付けていた。アスフォデルスはおろか、ユーリーフもバルレーンすらも出番はなく、当の本人と言えば今は何となくやりきった顔でパイプを蒸かしている。

「冒険者って、いっつもこんなキツイ事してるんですか?」

「それが日常だからね」

 そこでアスフォデルスは肩にかけた革の水袋に手を伸ばす。今は中身が入っていない。しかし、彼女が古代語の彫られた金属の蓋を外すと、途端に水袋が膨れ上がる。口を付けると、アスフォデルスは喉を鳴らして水を飲み干し始めた。

「本当、何でもありな解決方法だね」

 これもまたアスフォデルスが荷物の重量を軽くする為考えたマジックアイテムである。

 蓋を外すと水で満たされる水袋。原理は召喚魔法の応用だ。街の井戸に召喚の呪文を刻んだ石を入れる。そして同じく座標と条件を細かく指定した呪文を本体と蓋に刻み、蓋を開ける度に革袋一杯まで水が満たされる様にしたのだ。

「これといい、重さが殆どない道具といい、売ったら高く売れると思うなぁ……」

 ついでに作ってもらった自分の水袋を手に取ると感慨深くバルレーンは呟いた。

「売って評判になったら、絶対に私を捕まえに来る奴が出る。……いや、出ます。今そんな危険は冒せません」

 身体の疲れから一瞬言葉に地が出た。

「じゃあ、ボク達を護衛で雇うってのはどう!? お安くしとくよー?」

 したり顔で両手を揉むバルレーンの言葉に、アスフォデルスは先程までたった一人で向かってくる敵を片付けたファングインを思い浮かべる。

 右手に握った何の変哲もない剣一本で並みいる敵を尽く倒したあの強さ。ランタンに照らされる顔と銀髪。

 もしも。

 もしも、自分の顔が元に戻ったら。綺麗になったら彼女は隣にいてくれるだろうか? 自分に夢中になってくれるだろうか?

 ユーリーフもバルレーンも美人だ。ユーリーフの太ももまで届く黒い長髪に薄紫の瞳は、男はきっと強く惹かれるだろう。バルレーンはその燃える様に艶やかな赤髪と赤瑪瑙の瞳は稀有な物である。それに身体つきだって良い。それに比べて自分は――

「アスフォデルス、大丈夫?」

 そんな考えにふけり始めた矢先、アスフォデルスはバルレーンの声で現実に引き戻された。

 自分は一体何を考えていたのだろう。まるで力と姿を取り戻した後もこいつ等と一緒にいるのを望んでいる様では無いか。用が済めば別れる程度の仲だと言うのに。というか、そもそもファングインも女で自分も女じゃないか! 何故か痛む胸を押し殺した後、彼女は何でもない様に答えた。

「あ、あぁ。……そうですね、ファングインさんなら雇ってもいいかな?」

「って、ボクとユーリーフは?」

「ユーリーフさんは私の研究の助手、バルレーンさんは……知らない」

「なんだよ、ケチー。バルレーン・キュバラムを雇えるなんて凄い事なんだぞー」

 そんな事を喋りながら、穏やかに時は過ぎていく。

 彼等は早速夕食を取る事にした。倒した魔物が持っていた槍の柄や弓矢を割って作った薪と魔物除けの薬草をくべ、それでベーコンを炙る。立ち込める煙はユーリーフが風を起こす魔術を使って排煙した。本来洞窟や鉱道等で焚火をするのはもっての外である。というのも、立ち込める煙での窒息と石が火で熱せられる事により、熱膨張が生じひび割れ、最悪の場合崩落する事もありえるからだ。しかし迷宮は違う。

 構成する魔力により、迷宮は常に人間で言う所の呼吸と似た現象を起こしている為、煙で窒息する事もなければ崩落する事もないのである。……尚、右も左も分からない新米冒険者が迷宮と天然洞窟をごっちゃにして火を起こした結果。燻され呼吸困難になって死んだり、崩落を起こし死ぬのは割と良くある事である。

「いざベーコンの匂いを嗅ぐと、お腹空いてきますね」

「……迷宮って降りるだけでも体力を使いますからね、一杯食べましょう」

 後はパウンドケーキとドライフルーツをそれぞれ鞄から出す。それが本日の夕食であった。

 アスフォデルスは脂ののったベーコンをフォークで刺すと、そのまま口に運ぶ。疲れ切った体に炙ったベーコンは染みる程美味かった。

 パウンドケーキは中にナッツが入っており、噛むと口いっぱいに甘味が広がる。ドライフルーツはレーズンと林檎と木苺であり、一口つまむとパウンドケーキとはまた違った甘酸っぱさがあった。

 迷宮での食事は必要不可欠だ。もし食事を取らなければあらゆる生き物は体内の栄養を使い切り、倦怠感や吐き気、重篤になれば意識を失う等の症状を起こす。これを俗にハンガーノックと呼び、冒険者が気を付けなければいけない事柄の一つである。

「……ここまで来る間。全く見なかったね、他の冒険者の跡」

 ユーリーフがそう言うと、バルレーンがベーコンをパクつきながら応える。

「確かに、全滅したにしては十階まで綺麗過ぎる。死体の一つや二つ転がってもいいくらいだよね」

 バルレーンの言う通り、普通に全滅したのなら徒党の一人や二人の死体が転がっていておかしくはない。

 だが、ここに来るまでその跡は一切ない。それにバルレーンが憶えている限り、今日相手にした魔物達の装備に変化は一切無かった。

 これがどういう事かと言うと、もし魔物によって冒険者が倒された場合、魔物達はその装備を利用する習性がある。しかし、今まで出くわした魔物にはいずれもその形跡はなく、使ってる武器は迷宮に呼ばれた時のままであろうプレーンな物だった。

「……少し、おかしいよね」

「今は何とも言えないかな。『不凋花の迷宮』の十階までなら、ある程度の実力あれば突破できるし」

 ユーリーフがパウンドケーキを頬張る合間にそう言う。もしかしたら十階以降から死体なり何なりが転がっている可能性はある。そう踏まえての返答だった。

「……食事中に死体とか言わないでください」

 口に運ぼうとしていたベーコンを途中で下げ、些かげんなりした顔でアスフォデルスはそう言った。そこで二人ともようやくこれが食事時に話す話題でない事に気付いた。

「ごめんごめん、話題変えよっか」

「……そうだね、バルちゃん」

「それじゃあ言い出しっぺの法則で、アスフォデルス! 何か良い感じの話題を!」

 赤髪の女盗賊は口元に付いた脂を親指で拭うと、若干のしたり顔を浮かべてそう言った。

「うぇ!?」

 確かに話題は変えて欲しかったが、自分に流れ矢が来るとは思ってなかった。が故に、パウンドケーキを頬張っていた所で彼女は思わず素っ頓狂な声を上げる。正直これで喉を詰まらせなかったのはちょっとした奇跡であった。

「へいへーい、まさか自分から話題を変えて欲しいのに、ネタは持ってないってのかーい?」

「あー、効率的な霊薬の作り方とか?」

「やだ」

「ゴーレムの稼働時間を劇的に伸ばす方法とか?」

「パス」

「えーと、じゃあ教会秘伝の朝食の材料で簡単に出来る、どんな魔物にでも効く聖なる武器の作り方とか?」

「それは……ちょっと気になるけどパス」

 そこで気が付く。今まで魔術の研究をしてきたのが人生の殆どで、自分には会話の引き出しが全くと言っていい程ない。

 研究の事を話せばこの時間どころか一週間でも時間は足りないが、さりとて盛り上がるかと言えば否だ。どうしようと思いを巡らせ、アスフォデルスは二人にファングインの事を尋ねてみる事にした。

「あの、ファングインさんって本当にどういう人なんです? この人、明らかに冒険者でいていい強さじゃないですよ」

 アスフォデルスに武術の心得はない。しかし、それでもこの前の夜や先程といいファングインが見せた剣の腕が並外れた物である事は理解出来た。それこそこの腕なら冒険者に身を窶すより、文盲だとしても他に幾らでも仕事があるだろうに。当のファングインと言えば、特に何も気にする事なく炙ったベーコンを口に運んでる。

「うーん、答えたいけどボク達も過去を知ってる訳じゃないし。多分この中で一番付き合いが長いのはユーリーフだよ」

 バルレーンとユーリーフは一度互いの顔を見合わせると、疑問を投げかけたアスフォデルスにそう言った。

「そうなんです?」

「うん、ボクは前の仕事の折にこの二人と出会った。それが大体半年前かな」

 前の仕事、というのがアスフォデルスは気になった。正直バルレーンが仕事をしてるという所が全く思い浮かばないのである。まさか木の股から生まれた訳ではないだろうが、妙に浮世離れしてる風にも見える。果たして、この人は一体何をやっていたのだろう?

「……わたしは、実家に住んでた時にひょっこりファンちゃんが現れたんですよね。で、その一か月後にバルちゃんと出会ったんです」

「ファンと出会ってから本当短い間で吃驚する位人生変わったよね……」

 二人は感慨深げに頷き合う。そして我に返ったかの様に、赤髪の女盗賊はそこから言葉を繋げた。

「まぁ、そういう訳だからボク達もそこまで長い付き合いじゃないんだよ。ユーがいた街はパルトニルだったけど、それ以前はボク達ですら知らない」

 そこで、バルレーンは額に右手人差し指を当てそれを中空に移す、何処か芝居じみた素振りを見せる。舞台演劇でよく見る考えてる様な動きと似ていた。

 ……ただ正直、バルレーン以上に気になるのはユーリーフだ。ゴーレムを使える魔術師という事と、黒い髪に薄紫色の瞳。それに魔力の糸を通しゴーレムを操る方法は――と、そこで遠い日の親友の姿が過ぎった所にバルレーンの声で再び現実に戻された。

「ただ、一つ考察出来る要素が有るとしたら技かな」

「技?」

「うん、ファンが使ってるのは北の地でよく見られる技が多い。最も、本人は結構他人の技を盗む事多いから分かり辛いけど。……一番最初に骸骨の槍の上に乗った技は、あれ元はボクのだよ」

「……やっぱり、北ですか」

 そこで、アスフォデルスは自分の推測を話す。彼女は自分の隣に座るファングインの――その深緑のローブに目を向けた。よく見ると、ローブの生地には目を凝らしてようやく解る程の細い銀糸で蔓草が刺繍されていた。

「エルフっていうのは氏族社会で。その土地によって細かな文化が違います。このローブに刻まれた細い銀糸でされた蔓草の刺繍、これ隠し刺繍って言って北のエルフの衣装――それも功を立てた戦士に刻まれる物です」

「そうなの? 時々光ってるのは見た事あるけど」

「昔、エルフの技術を調べる為関わった事があって。そこで聞いたんですが隠し刺繍の文化は北の地以外には殆ど無いらしいです……でもエルフは大抵が閉鎖環境、特に北のエルフは領地から出る事ないですからこれ以上は……」

 滔々と自分なりの推測をアスフォデルスは語る。するとバルレーンは、話の内容より茶色い髪の少女の様子に興味が惹かれたらしく、こう尋ねた。

「……そんなにファンの事気になる?」

「ファングインさんは、まるで謎のパッチワークです。持つ筈のないエルフの名前と服を持って、冗談みたいに強く、それでいて過去を知れる術を持たない……正直強く興味が惹かれます」

 そこで二百年を経た魔女は、傍らに座る緑ローブの剣士に目を向ける。

「ファングインさん。貴方はどこで生まれ、どう育ち、何を求め、何処に行こうとしてるんでしょうか?」

 その銀髪と左目の琥珀の瞳、右目は髪が覆って覗く事すら出来ない。それすらも謎とでも言う様に。

「どうして、貴方は私を助けてくれたんでしょう。まるで師匠みたいに……」

 そこで茶髪の彼女は一度その青色の瞳を向ける。だが当の本人と言えば常と変わらず、穏やかな顔を浮かべていた。舞い散る火の粉が、一度銀の髪を照らす。……しかし、本当に美しい顔だ。まるで人間ではないかの様に。

「あの、どうして皆さん冒険者徒党を組んだんですか……? それこそ皆さんでしたら、旅を一緒にするにしても他に生きていく術があると思うんです。特にユーリーフさんなんて、普通にゴーレム使ってるだけで何不自由なく暮らせるじゃないですか?」

 世の魔術師の大前提として、ゴーレム遣いは稼げる。才能こそ必要だが、二本足で立てて指の何本かが使えるのであれば、建築や運搬の界隈で十分食っていけるのだ。ましてや複数のゴーレムを使えるなら尚更である。

「最初に酒場で話した時、冒険の目的はお金とは言ってましたが……」

 ある理由からとそれを隠してるとアスフォデルスは聞かされているが、その詳細を彼女は知らない。ただお金を稼ぐというなら、冒険者なんかやらずにゴーレムを操っていた方が遥かに稼げる訳である。アスフォデルスは彼女がゴーレム遣いである事を隠す事に疑問を感じずにはいられなかった。

「……その、えっと」

 アスフォデルスがそう言うと、ユーリーフは少し動揺を見せた。一瞬躊躇ったのは、この話を膨らませて自分の冒険の目的を話すかどうか迷ったからだ。しかし――

「……すみません、それに関しては保留でお願いします」

「ほ、保留?」

 アスフォデルスがそう言うと、バルレーンとユーリーフは頭を抱える。しばらく唸りながら悩んだ後、バルレーンは一度こう断りを入れた。

「うーん、それを言うとかなりややこしくて、どう説明したらいいもんか……ごめんちょっとユーリーフと相談するね」

 そう言って、アスフォデルスから少し離れた所で小声で話始めた。

「……ごめん、何からどこまで話そう」

「えーと、とりあえず出会いに関しては……ちょっと言い辛いけど。最初のパルトニルの事から話す? それともエスカオズの件から行く?」

「……ファンちゃんの三つの剣について、どうやって説明するの? それと『右目』」

「は、『花の剣』と『歓喜の剣』に関してはまだ形而学上の法則に沿ってるから説明出来るよ。出される結果がおかしいだけで、……最後の『是無の剣』はうーん。で、『右目』についてもか」

「……どこまで説明できる? わたしは、『右目』と最後の剣はちょーっと無理かな。だってあれ多元――」

「あ、あの……そんな相談しながら悩む物なんですか……?」

 端に置かれてからという物、ユーリーフとバルレーンが刻一刻と深刻に悩んでくのを見てアスフォデルスは思わず声をかけてしまった。

「ごめん、アスフォデルス。ちょっとどうやって説明したらいいのか悩んじゃって、……この件も保留でいいかな?」

「保留が多いですね……」

 会話の端々が聞こえて来たが、どうやらファングインには三つの剣技と何やら右目に秘密があるらしい。そこでアスフォデルスはふとファングインを見ると、銀髪の大女の顔――右半分は深い髪の毛で覆われており垣間見えもしなかった。

「それじゃ、逆にアスフォデルスに質問ー。師匠って、誰なの?」

 バルレーンのその声に一度アスフォデルスは飲んでいた水を吹き出す。少しばかり咽た所をファングインが背中を摩り、落ち着きを取り戻す。

「何処からその話を……?」

「最初に言ってたじゃん、姿を取り戻して師匠に会うって。どんな人だったの?」

 彼女がそう言うとアスフォデルスはしばし考え込む。一拍置いた舌の周りは少しばかり重みを増していた。空気が少し底冷えする。

「師匠の名前はファルトール」

「ユーリーフ、ボク全然知らないんだけどファルトールさんって有名なの?」

「……研究者界隈ではそこそこ、初代アルンプトラやガノンダール老。アスフォデルスさんよりかは無名って感じです」

 魔術師について疎いバルレーンがそう言うと、ユーリーフはそう答える。まぁ、確かにそうだろう。元々名前に興味がある人では無く、人の身体や心といった分野の研究論文に名前が残ってればいい方だろう。

「……昔の魔術師の弟子って酷い扱いで、貴族主義の温床でして。で、私って娼館上がりなんですがなまじ才能があったもんだから、もうギッタギタにされちゃってたんです。でも、今更行く所も無いですから我慢して通ってたんですが。ある日、悪ふざけで薬……かけられたんです」

 そこで彼女は急に明るい口調に変えた。それは忌まわしい記憶を語るのに耐え切れず、叫ぶ様であった。

「いやもう熱いのなんのって! しかも奴等かけたのは霊薬で、治そうにも回復魔法がかからないんですよ! 身体を骨から弄って、ようやく消したけど!」

 叫ぶ事で考えない様にする。それが長くをトラウマと共に生きた彼女の処世術である。……顔の右半分をごしごしと服の袖で拭うのを見て、全員が恐らくそこが火傷の跡があったのだろうと察した。

「それでガノンダールに言ったら、やられたお前が悪い。やられる方がどうかと思う……だけ! 何にも止めやしないんです! おかしい、おかしいだろこれ! 止めろよ! こっちは右目まで潰されてるんだぞ!」

 そこで一度嗚咽が短く漏れるものの、飲み込む。酸欠の様に、徐々に彼女は言葉に詰まっていく。二百年の時の中、凝り固まった思いを何とか言葉にしようとしているのだ。

「あぁ、クソ……年甲斐もなく涙が……」

 一度鼻を大きく啜る。心と身体の反応は徐々に掛け違っていく。心は冷静でいようとするが、身体は悲しみの運動をしている。それで徐々に心も悲しくなって行ってしまう。これでは駄目だ。

「い、今から面白い話をしますよ……一周回って面白い話です」

 むりやり取り繕って笑みを浮かべてアスフォデルスはそう言う。しかし、ファングイン達にはそれが微塵も笑えない話だろうと想像はついていた。

「そしたら、次はホムンクルスを胎で育てろって。お前の胎で育てた方が、質が違うからって……普通そんな事頼まないでよ。でも、顔の火傷の所為で何処にも行けなかったからさ……」

 そこでアスフォデルスは一瞬俯き、喉を鳴らす。嗚咽を飲み込むかの様に。そしてか細い声で再び言葉を紡ぎ始めた。

「結局、断れなくて、三体も」

 両まぶたを目一杯開け、そう言った後。茶髪の少女は、再びむりやり取り繕った笑みを浮かべた。

「ここからが笑えるんです。

 ホムンクルスって人の胎で育てる場合、かかる時間は五ヵ月。

 まず、最初に張型で膜を破くんだ。その後、投薬と水薬で子宮を広げて入れる場所を作って、それで柔らかくなった子宮口から直接ホムンクルスを入れる。中の物が熟しきったら傷付けない為に胎を裂いて直接摘出。先生は喜んでたが、他の弟子は実験動物扱い……人としてすら見ていない」

 笑えるというその言葉であったが誰も一切笑う事なく、バルレーンは右手で顔を隠し、ユーリーフは顔を青褪めながら絶句。ファングインは静かに在りし日の彼女を悼む様に沈黙を守った。

「娼館上がりって言ったって、私は元々下働きで客なんか取った事ない。いや、そもそも好きで娼館に行ったんじゃない。村に迷宮が出来て、魔物が溢れなければ父さんも母さんも姉ちゃんもッ。……それまで男の人と、手を繋いだ事すら無かったんだ」

 誰も何も言う事はできなかった。謎に包まれたアスフォデルスの一生がこれ程重い物とは思っていなかったのである。

「女を何だと思ってる。人を、子供を何だと。違う、あれは……あれは、私の子じゃない。私の子じゃないッ!」

 この時、アスフォデルスは俯いておりファングインの顔は見えておらず、ファングインが顔を曇らせ痛みに堪える様な表情を浮かべてる事に気付く事はなかった。

「そんな時、師匠が来てくれたんだ」

 その時一瞬、声音が明るい物に変わる。

「師匠、魔術師ファルトール。……宴で酒を飲み過ぎて厠と私がいた部屋を間違えたらしい、それが師匠との初めての出会いだった。私の姿を見るなり、血の気と酒気が一気に引いた顔をしてさ。事情を話すなり師匠はガノンダールの所に私を連れてくなり、こう啖呵を切ったんだ。“こいつは私が連れて行く、貴様には過ぎた宝だ!”って。それで、それで……」

「それで?」

 バルレーンが冷静にそう相槌を打つ。悲痛に暮れていたアスフォデルスの声に活気が戻って行くのが彼女は解った。恐らく、彼女にとって大切な人であった事も。

「私の面倒を見てくれた、そりゃあ破天荒な人だったけど、母にも姉にもなってくれた人だった。右目をもう一度見える様にしてくれて、身体を直してくれて――美しい人だった。師匠は私の光で、私の救い主で、私の母さんで、全てだった。全てだったんだ……。それで、師匠みたいになりたくてさ、顔の傷を無くしたくてさ師匠の姿を真似たんだ」

 語りながらアスフォデルスは思い出す。自らと瓜二つとなった弟子の姿を見た師の姿。……言葉は一瞬で潮が引いた様に感情が抜けた。

「私を力一杯抱きしめて、涙を流しながら“済まなかった”とだけ言ったんだ。そして、その日から私の前から姿を消したんだ……そこからずっと一人で待ってる。今も。……飛竜に食われかけた時、師匠を呼んだ。でも来なかった」

 気付くとアスフォデルスの眼から涙が伝っていた。傷口から滴る血の様な、静かに流れる涙だった。

「ずっと、考えてるんだ。どうして師匠は姿を消したんだろうって。でも、これ程の年月が経ったんだ師匠はもう……」

 そうぽつりと漏らした直後、反射的に彼女は両手で口を塞ぐ。それは口にしてはならない滅びの言葉を漏らしたかの様に。そうして、数拍の後喉を一度鳴らし抑えた何かを飲み込むと。

「いや、違う。師匠は生きているんだ、あのガノンダールが生きているんだ。師匠が生きていない筈がない、師匠なら何かの術を見つけて今も生き延びてる筈だ……そうに違いない。アルンプトラは死んだ、悲しかった。でも、師匠は生きているんだ。だから、私は今も生きなきゃならないんだ。会うんだ、私は……師匠にもう一度」

 その言葉は、序盤は狂気の熱が籠っていたが後半になると色褪せる様に急速に冷めていく。言葉は妄念から教条に変わっていく工程をまざまざと見せていた。

 それが、アスフォデルスが今も生きる希望。その根源なのだろう事を、全員は察した。

 ……彼女がそう言った直後、ファングインは左腕を伸ばしアスフォデルスの肩を掴むと自分に引き寄せる。

 ファングインに身体を引き寄せられた瞬間、突然の事にアスフォデルスは心が追い付かずしばし呆けた様子を見せ、ようやく理解が及んだ時にはもう抜け出す事が出来なかった。……さながら、体躯の大きな犬が泣いている子供に黙って寄り添う様である。

 一瞬、アルンプトラという名が出てきた時。ユーリーフが僅かに反応する素振りを見せたのだが、生憎アスフォデルスはそれに気づく事は無かった。

「……すみません、いつの間にか敬語じゃなくなって」

「いや、いいさ。話を振ったのはボクだからね」

 口元を覆っていた右手を外し、バルレーンは笑みを浮かべながらそう言う。

「会えるといいね、師匠に」

「会うんです、私はもう一度師匠に。絶対、絶対会うんです」

 それを見て、バルレーンは内心でこう思った。これはドグマの怪物だな、と。

 苦境の中で差し伸べられた手に目を焼かれ、自分の事が見えなくなった怪物。憧れから崇拝に変わるまではまだ可愛い物だ、行き過ぎれば彼女の様にそれがドグマ――教条となる。最早アスフォデルスにとって師匠と会う事が生きる理由の全てなのだ。

 とても健全であるとは言えない。しかし、それを今指摘し突きつけた所で何もいい事は無いだろう。

 古今東西、怪物は自分が怪物であると知った時、自らの存在に耐えきれず崩れ落ちていく物なのだから。 

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