第4話
ユーリーフ達から離れた卓にて。
「で、お前一体何考えてんだ。バルレーン?」
タダ酒の盛り上がりも少しばかり引き、バルレーンがしばし向かいの卓の様子に意識を割いていた時。短槍の男が声をかける。
「いきなりなにさ、おっちゃん」
自分に顔も向けない赤髪の少女の横にエールが注がれた木のジョッキを置き、彼は隣に座る。
「なぁ、俺はお前の事を買ってるんだバルレーン。お前は若いのに上手く世を渡ってる。色々器用だし、さっきだって俺がキレる前に腕を回した」
「そーでもあるかなー、もっと褒めていいよおっちゃん」
「皆はお前の事、口だけのバルレーンだの何だの言ってるが俺はお前を買ってるぞ。で、だ」
そう言うと、短槍の男は本題を切り出す。
「実はウチの徒党、この前シーフが足抜けして空きが出た。今の倍以上稼がせてやる、ウチに入れ」
ここで言う足抜けしたというのは、冒険者が死んだ事を意味する。死という言葉を使って酒を不味くしない冒険者特有の隠語だ。
バルレーンが今朝知った噂では、魔術師ギルドが出した大規模な山狩りの仕事で運悪く飛竜に襲われ死んだらしい。それも彼等の徒党だけでなく、この街にいるそこそこの徒党の冒険者がそれで亡くなったとか。……百五十歳の成体の飛竜が相手なら、都市環境でゆるゆるになった冒険者では確かに分が悪かろう。
「うーん、今の口説き文句はちょーっと品が無いかな? それじゃあここの給仕すら落とせないよ」
陽気さを崩す事なく、バルレーンはやんわりと断った。
「なぁ、バルレーン。お前はまだ若いのに、人並み以上の腕を持ってる。若いんだ今よりもっと上を目指せ、あいつらといても五級のままだぞ?」
冒険者には等級制度がある。一から十まであり、最高が一。最低が十。上に行くに連れ、貰える報酬が増えていく。大体どんな馬鹿や能無しでも真面目にやっていれば五級までスムーズに上がれるというのが、世間一般の評価だ。
「うーん、ボクの事褒めてくれるのは嬉しいけどさ。あの徒党離れるつもりはないなぁ……」
「戦闘の事を気にしてるのか?」
戦闘が不得意なシーフというのもいる。女子供、それに人間の子供によく似通った種族であるフローレスなどだ。
そういうのは武器こそ携えているが怪物が目と鼻の先まで近づくまで抜かなかったり、あるいはむやみやたらに大陸全土に伝われる武芸者の名前を騙ったりして極力戦闘を避けたりする。
例えば百年前にいた高名な槍使いの名前を騙る若過ぎる人間の冒険者、パチンコをもって厳めしい弓使いの名前を名乗る小人、大陸全土にまことしやかに語られる暗殺者――バルレーン・キュバラムを名乗る革鎧を身に纏い、双剣を吊り下げた女冒険者とか。
まぁ、はしかの様な物である。やってる本人は一時楽しいが、さりとて一年も経てば気恥ずかしさに身悶えする。気恥ずかしさを覚えたなら、その隙を狙って短剣の一つでも渡せば良い。そうすれば過去から目を背ける為全力で戦うのだから。
「ウチは戦闘に関してそんな気にせんでいい。自分の身は自分で守ってくれさえすれば前線には出さん。その代わり索敵や鍵開けやら罠解除、後状況によっちゃ陽動はしっかりやってもらうがな」
「別に戦闘の事は気にしてないよ。前の仕事でもちょいちょいやってたし」
あっけらかんとバルレーンはそう言う。
「なら、なにをそんなにこだわってるんだ? あそこにいてもお前が食い潰されるだけだ。見ろよ、あのエルフかぶれの剣。いつまで経っても綺麗なまま、使った跡があるか?」
エルフかぶれ、というのはファングインの事である。人間の癖にエルフ族の名前を持つ女を端的に表した仇名だ。
「確かにそうだね。……いやー、本当凄いよね」
「言葉も喋れなければ、出来て荷物持ちぐらいの女なんて関わる価値ないだろ」
「そんな事ないよ、ファンは薬草に関しても詳しい。薬草採取の仕事でもボクより凄いし。ユーがこの前お腹壊した時、ファンが煎じた薬がよく効いたんだ」
余談ではあるが、この後お腹を壊した事を口にしたとユーリーフに言ったらバルレーンはちょっと怒られた。
「薬草に詳しくて何になる! そんなの近所の子供でも出来るだろ!」
――ファングインの冒険者間での評価は大体こうだ。皆素面ではあまり口にはしないものの、一度酒を入れればこうも簡単に口を滑らせる。
エルフの名を持つ、言葉もロクに喋れない、格好つけだけで剣を持ち、図体が異様に大きい女。冒険者なりたての新人から、彼の様に経験を重ねた熟練まで大体は腹の底ではそう思っている。
「それにあの黒髪だって、あの年で冒険者なりたてって普通じゃないぞ。大方何かやらかして放逐された学者崩れだろ。あぁ言うのは、手間がかかるだけで割に合わんぞ」
魔術師が歩く道は二つ。学者とそれ以外の仕事に就く者だ。……ユーリーフの様に成人してから何年も経った魔術師が冒険者を目指すのは、それこそ彼が口にした様に何か問題を起して放逐された学者が糊口を凌ぐ為就くのが殆どである。
「おっちゃん、それ偏見だよ?」
「だが、偏見は身を守るぞ?」
彼がそう言うとバルレーンは笑みを絶やさず二の句を告げる。
「まぁユーリーフ、冒険者になる前いたトコ潰れちゃったらしいし、慣れてないのはしょうがないよ。でもユーは良いヤツだし、ファンだって言葉は喋れないけど味のある性格をしてる」
その時だ。
――喩えるならそれは風。自らの首を狙う感覚の一突きを、バルレーンは同じく感覚の中で間一髪避けた。
現実では何も起きていない。ファングインが斬撃のイメージをぶつけて来たのだ。感覚としては、勉強に退屈した子供が教師に内緒で隣の子にちょっかいをかける様に。
再び彼女が目を向けると、銀髪の女は口元に左人指し手を当て、構って欲しそうに上目遣いでこちらを見ていた。
勝敗に拘っていない様で負けず嫌い。執着がない様でいて執着心が強い。この前一緒に戦おうと言ったら袖にした癖に、今日は構って欲しくて仕方がない。……そんな面倒くさい女に天性の肉体と剣の才能を与えたのがファングインという女である。ちょっかいをかけた理由は、どうやら聞き耳を立てて徒党を移る移らないの話になったから行くな……と釘を刺したのだろう。
「ずっるいの、ファン」
「なんだ、どうかしたか?」
「なんでもなーい」
ファングインのみに向け、んべーと小さく舌を出す。これが彼女がこの徒党にいる理由の一つだ。
「それにお前、今度はあんな子供を連れ込んでどうするつもりだ?」
傍から見れば底辺徒党が、みすぼらしい子供を拾って何かをしようとしている。彼が意図を聞くのも無理からぬ話である。
「まぁ、ちょっとね」
「ちょっとって何だよ?」
バルレーンは考え込む素振りを見せた。後ろで纏めた馬の尻尾の様な髪の先を口元に持って来て弄ぶ。
「……ねぇ、おっちゃん人界の人間が二百年も生き永らえる事ってあると思う? それも若いまんまで」
「まぁ、普通は無理だな。有名な魔術師がそれなりにいるが、見た目年老いている奴が多い。この前有名なガノンダール老を見たが、どう見ても七十ぐらいにしか見えなかったぞ。魔術は生はなんとかなる、病もなんとかなる、だが老いと死はどうにもならんらしい」
「やっぱりかー、まぁそうだよね。……そう考えると、あの身体本当凄いな」
「おい、どうした? なんだよ一体」
訝しみ困惑する男を後目に彼女はどうせ信じる事はないだろうと思い、全てを語った。
「ねぇ、おっちゃん。例えば実はボク達、一か月前に『不凋花の迷宮』に潜ってその中で魔術師アスフォデルスが作った賢者の石を見つけ、最奥の開かずの扉と石が反応してるのを見たから扉を開ける術が有るんじゃないかと思い、伝手を頼って歴史家のおじいさんとこ行って伝説を調べたら、その帰りに偶然飛竜に襲われてる恐らく本人を見つけて拾った……って言ったら信じる?」
一息で語られたそれを、しばし間を開けて男は飲み込み、引き続き困惑しながらバルレーンに尋ねた。
「……なんで、飛竜に襲われかけてたんだ?」
「知らないけど、なんか魔法使えなくなってるっぽい。まぁ、身体が結構弱ってるのは確実だね」
「そもそも、お前……恐らく本人って何だよ」
「普通に考えてよおっちゃん、どれだけ頑張っても人間が二百年生きれると思う? それも明らかに若いままで。ボクちゃんクソ田舎育ちだけど、それは無理だって事ぐらいは解るよ」
「まあ、そりゃあ確かにな……」
「で、信じる?」
「信じない」
「じゃあ、この話はそれで終わりだね。そろそろ戻るよ」
バルレーンはそう言うと卓を離れる。
「待て、エールぐらい飲んでけよ」
「遠慮しとく。悪いけど、おっちゃんと飲む酒ちょっと美味しくなさそうだしね」
その言葉には、彼女のなりの仕返しが込められたのは言うまでも無いだろう。……それにあちらにはアスフォデルスがいる。思わぬ出物をどう利用するか、それが今一番の悩み所だ。
つまらない冒険者徒党にかかずらってる暇はない。
× × ×
アスフォデルスは自らの身に何が起きたか、洗いざらい全てユーリーフとファングインに話した。
「……なるほど、そういう事があったのですね……」
全て話して帰って来た答えがそれであったのは、彼女にとって些かの救いなのかもしれない。彼等はアスフォデルスのプライドに触れようとしなかった。少し話して気が紛れて来たのか、アスフォデルスの言葉からは徐々にぎこちなさが抜けて行く。
「爆発の原因は私にも分かりません。しかし、あれですね。結構酷い傷を負ったと思ったんですが……寝て起きたら立って動けるまでになるとは」
「……わたし、回復魔法得意で。それにバルちゃんも実家秘伝の処置してくれて」
「そうですか、二人共かなり腕が良いんですね」
アスフォデルスがその茶色い髪を一房いじると、対して黒髪の女魔術師は気まずそうな顔を浮かべた。そして張り詰めた顔色を数瞬浮かべた後、何事も無い様に振舞い、アスフォデルスはその様に少し気を惹かれはしたものの流す事にした。
「うー」
まるで何かいけない事を咎める様な声をファングインはユーリーフに対して上げた。
「あ、あの……その人ファングインさん、ですよね? こんな事聞いたらアレだと思うんですが、その人話せないんですか?」
気まずい空白を埋める為に出した適当な疑問だが、実際の所緑ローブの彼女に関しては気にはなっていた。人語を介しているので耳は聞こえてる筈であるが。
「……えぇ。ファンちゃん、喉には問題ないんですけど喋れなくて。文字も書く事は出来なくて、でも読む事は出来るんですよ。頭だってそんなに悪くないですし」
「うー」
頭だってそんなに、という所で少し気を悪くしたのだろう。ファングインはちょっとだけ批難する様な目をユーリーフに向ける。
「……怒ったって駄目、この前パイプは一日三回までって言ったのに破ったでしょ!」
そう言うと、ユーリーフは銀髪の大女の左頬を強く抓る。するとファングインは痛そうな声を上げ、手を離されると赤くなった頬を左手で摩った。
「こ、子供の頃から喋れないんですか?」
「……そこまでは分からないです、わたしも彼女と組んで一年足らずですから……バルちゃんはまだ一年ギリギリ立ってないですし」
「え、一年?」
「……わたし、一年前まで別の仕事をしてて。バルちゃんも、今とはまったく違う仕事をしてましたし」
「あの、それって……どういう仕事なんです?」
「……秘密です」
口元に右手人差し指を当てユーリーフが、ふわっと微笑む。肉体年齢が十歳になったお陰か、アスフォデルスは野生の勘が多少働く様になっており、それ以上詮索するのは危険と判断した。
「バルレーンさんは、どうして二人と徒党を組む事になったんですか?」
「……まぁ、それも仕事の折というか……ファンちゃんが実力でわからせたというべきか」
「わ、わからせ……?」
どうやら話せない事以外、彼女達にも原因は分からないらしい。これ以上掘り下げる事は出来なさそうだ。そういう事でアスフォデルスは次の話題に無理矢理変える。
「しかし、『不凋花の迷宮』ですか……」
「……どうかされましたか?」
アスフォデルスは卓に置かれた赤い賢者の石を指さす。青い瞳には観察と分析の色が奥深く、大地を走る地下水脈の様に流れている。
「そこにあるのは確かに私が精製した物です。この色、この大きさ、込められてる魔力に間違いない。ただ、『不凋花の迷宮』って名前初めて聞いて……」
「……ここより南四キロに。全三十階程の迷宮で、三十層の最奥の扉には不死の花の紋章が刻まれてます」
「それは、……私ですね」
不死の花はこの国で不吉の代名詞として扱われている。葬式に備えれば死者が天国にも地獄にもいけない等、不吉な逸話は枚挙にいとまない。歴史上、その花を紋章や名前として使ったのはアスフォデルスだけである。
「他に特徴はあるんでしょうか?」
「……最奥の扉なんですが、幾重にも封印が施されていて誰にも開けられません。三ヵ月前に見つかった当初は大発見だと持て囃されたんですが、最奥の扉は何時まで経っても開かない為、今はガッカリ遺跡として扱われています……。伝承によれば、アスフォデルスが集めた古今東西の魔導書が収蔵されてる筈なので、しばらくは冒険者でごった返してたんですけどね」
「門の堅さはどれくらい?」
「……噂を聞きつけた王都の魔術師ギルドの魔術師、それもかなり位が高い人が二ヵ月前に来て……手も足も出なかったそうです」
アスフォデルスとてこの二百年間、全く社会と隔絶した生活を送っていた訳ではない。少なくとも最低限俗世との関わりは持っていた。王都の魔術師ギルドと言えば、魔術研究の最先端を行く。そこでかなり位が高い魔術師となれば、大魔術師と表現しても差し支えないだろう。無論、彼女――アスフォデルス程ではないが。
「そうか、いやそいつには悪い事したな」
一瞬気が抜けて、口調は元の物になる。声はどこか嬉しそうであった。その様を見てユーリーフはこう思った。……あ、この人褒めて持ち上げれば何でも言う事聞いてくれそう、と。
「……伝説の大魔術師アスフォデルスの領域には、未だ誰も立てなかったという訳です……」
「そうかそうか! いやー、参ったなー! もうちょっと優しくしてあげたかったんだが、それは侮辱にもなるしなー!」
「……それで、迷宮に関して心当たりは?」
そう言うと、潮が引くようにアスフォデルスはまた冷静になる。
賢者の石、不死の花の刻印、大魔術師でも破れぬ封印、状況証拠はまず間違いなく自分が関係している事を示している。しかしここから南に居を構えた事など……と思った所で、記憶の糸はかすかな煌めきを見せる。
それこそ二百年前、短い間だが箱庭村を離れて居を構えた事がある。魔力が豊富な土地たる霊脈を見つけたので、そこに一時期逗留し賢者の石を精製したのだ。
記憶は次々と紐解かれていく。そう、その時必要な物は箱庭村に戻したが、持って行くのがめんどくさかったり、特に使う物じゃなかったりした物はそこに置いていったのである。“神秘の沼は深く、錬金の頂は高い、知の領は遥か遠きかな”と、彼女自身が合言葉を口にする事で開く様にした扉の奥底にと。
後、ついでに賢者の石の研究論文を纏めたはいいが肝心の精製した賢者の石を無くし、かなり困惑した事も思い出した。
「思い出した」
「……やっぱり、ですか?」
「あぁ、根城にしてた村に戻る際。持って行くのがめんどくさかった物は置いていったんだ、どうせ誰も入れないんだから物置にしとこっかって。研究資料とか器材とか一式……迷宮化してたのかあそこ」
「……中に入る事ってできます?」
「勿論!」
彼女の顔が喜びで浮かび、無意識から椅子から勢いよく立ち上がる。
「これで私は再びあの姿に戻れる! やったぁ! 運が向いてきたぞ!」
「……あ、あの……もっと静かに。他の人が見ちゃってます……」
その青い瞳に仄かな狂気の光が灯っている事に、ユーリーフは気付いた。まるで綺麗好きな人間が服の端に着いた泥に耐え切れないかの様に、目の前の茶髪の少女は自らの姿を徹底的に嫌悪し過ぎている。そんなあまりの様子にユーリーフは思わず気圧され、たじろいだ。
「こんな姿やだ、こんな姿やだ! 一秒だっていたくない、忘れたい忘れたい忘れたい忘れたい!」
狂気に迸る青い瞳がユーリーフに突き刺さる。
「――頼む! お二方! 私に出来る事は何でもする! 欲しい物なら何でもあげる! 金でも魔法書でも道具でも、全部全部だ! 代わりに私を迷宮の奥に連れてってくれ!」
それはユーリーフが引き出そうとした言葉だった。彼女の正体に関して半信半疑だったバルレーンから暗に頼まれたのは、『不凋花の迷宮』と賢者の石についての事を聞き出す事である。赤髪の女盗賊は正体こそ疑ってはいたが、胸に嵌った赤い賢者の石を見て、かの魔術師アスフォデルスと何らかの関係があると睨んでいた。
目的自体は達成した。が、まさかこの様な狂態を見せるとは彼女は思っておらず、しばし狼狽する。
「……ま、まずは落ち着いて下さい……」
その様子のおかしさを察し、こちらの卓に戻って来始めたバルレーンが訝しんだ表情を浮かべる。他の卓で飲んでいた冒険者達も、先程バルレーンに話しかけた短槍の男も怪訝な表情でこちらに注視し始めていた。
「直身体を戻さなきゃ、身体を戻したら箱庭村を作り直さなきゃ! 師匠が帰った時に迎えられない! やる事はいっぱいあるぞ!」
アスフォデルスが力いっぱいユーリーフの指輪が嵌った右手を掴んだ時。
「うー」
何とも間の抜けた声が店内に響いた。深緑のローブを羽織った銀髪の女、ファングインの声である。彼女はまるでそよ風の様にアスフォデルスの手の上に自らの右手を置くと、琥珀色の左目で彼女を静かに見据えた。それはまるで水面に映る月の様に。
くん、とアスフォデルスの鼻は微かなその匂いを嗅ぎ分ける。
それは、仄かに甘くて深い薬草の匂いだった。それは水ほうずきという、この地に自生し瞑想に耽る時に使う物である。……そう彼女の知識が半ば脊髄反射的に答えに辿り着かせた時、彼女の瞳から狂気の色は消えていた。ファングインのその声は、まるで人知れぬ奥地に住む静かな獣の様であった。そこで彼女はアスフォデルスの手から右手を離す。
「す、すみません、つい熱くなりました……」
「……いえ、大丈夫です」
そしてアスフォデルスもまたユーリーフの手から指を離し、おずおずと気まずそうに席に座った。
「なになに、どうしちゃったのさー?」
直後バルレーンが卓に戻って来た。顔にはもう訝しんだ様子は見えず、仲間である銀髪の女が場を呑んだ事を確認したからか、卓を離れた時と変わらぬ陽気な笑みが浮かんでいた。
「……バルちゃん」
「お疲れ様、ユーリーフ」
バルレーンはアスフォデルスの隣に座ると、陽気な笑みを崩さず語り掛ける。アスフォデルスはその様に少し物怖じした。
「ねぇ、アスフォデルス。君そんなに今の姿が嫌なの?」
先程まで自分の正体を疑っていた女が名を呼んだ事に一瞬たじろいだ後、アスフォデルスは赤い髪の娘の問いにそう答えた。
「――嫌です。こんな姿、不細工でちんちくりんで。髪の色、目の形、歯の形、肌の質……何一つ気に入りません」
貧乏くさい茶色が嫌、つり目の三白眼が嫌、ギザギザした獣みたいな歯並びが嫌だ、全部全部全部嫌だ。
過去が遠い木霊の様に彼女の中に響いてくる。“なんだ、その田舎臭い茶髪は?”、“獣みたいな歯だな、今にも殺されそうだ”、“お前のその顔見るとイライラするんだよ”、“この一門の恥だ”……昏く重たく沈殿した過去の澱は、彼女の心を毒の様に苛み続ける。
「うーん、君は君で結構可愛いと思うんだけど」
「どこが!? 見ろよ、この歯! ギザギザしてる! どう思う!?」
そう叫んだ後アスフォデルスは口を開けると、右人差し指で右の頬を引っ張って歯を見せつける。直後、正気に戻り。
「す、すみません何度も何度も……」
「別にいいよ、そっちが素なんでしょ? そういう風にかしこまったら疲れちゃうだろうし、元の口調に戻しなよ。ボク達気にしないから……」
「で、でも……」
「その代わり、ボクもこの口調を崩さない。まぁ、好きにすればいいさ……で、迷宮の件なんだけど潜るとしてだ。
ボク達はなるたけ沢山お金が欲しい。……念の為聞きたいんだけど、お金になりそうな物……あの扉の奥にあるよね?」
バルレーンにそう尋ねられると、アスフォデルスは一拍目を瞑って元工房に置いてきた物を思い出そうとする。多額の金になりそうな物は……まずはユーリーフの持っている賢者の石である。
自分からしてみれば品質に些か難があるものの、傍から見れば高額な代物だ。世俗から遠ざかって長いが、それでも学会には研究を度々発表してたが故自分が作った物の価値ぐらいは把握している。おそらく、それを売ればこの都市の一等地に豪邸が立てられるだろう。けして安くはない金額になる筈である。
それ以外はと言えば。
「少なくとも、元工房に置いてきた本には些か自信が、全部原本ですし……」
そう口にした時、ユーリーフの長い黒髪がぴくりと揺れた。魔術師の言う本とは、魔術師の秘奥が書き記された物である。魔術に関する本は基本的にはどれも高価であるが、原本ともなれば後の時代に出た版から削除された記述が存在する。たった一頁分の記述だけで、十倍以上の差が生まれる事などざらだ。
「へー、本か。どんなの持ってたの?」
「思い出せる範囲だと、『狂える法則について』が一冊」
そう言うと、ユーリーフが空かさず答えた。ここからアスフォデルスが本の名前を上げると、ユーリーフが現在の価値でどれ位の額になるかを答える形となる。
「……大家族が十年間遊んで暮らせる額になります」
「えーと、次が『驚異の礼賛』」
「……この都市の一等地に豪邸が立てられます」
「それと、『クルーナッハの呪文集』だろ」
「……魔術師ギルド一年間の活動資金になります」
「で、『無盡都市について』もあったな」
「……イシュバーンに駐屯する精鋭騎士団を一ヵ月借りてもお釣りが来ます」
「あ、『バルバ・ヒースギータ』もあった」
「……献上すればトルメニア王国の爵位が貰えます。それもぶっちぎりで高い位のを」
ユーリーフの答えが一区切りすると、汗を一筋垂らしながらバルレーンは口を開く。
「え、今上げたヤツ全部あるの? 本当?」
バルレーンは魔術書に関してはあまり詳しくない。だが、そんな彼女ですら今アスフォデルスが上げた題名は知っている物もあった。
「どれもこれも本棚圧迫しちゃうし。どうせあんまり読まないし、いっかなと思って……」
「凄い。言ってる事は共感できるけど、本の値段知ったら何一つ共感できないや」
「持ってる事すら忘れかけてた本ですから。欲しいなら全部あげます。それに――」
「それに?」
バルレーンは小首を右に傾げる。すると後ろに纏めた一房も右に傾いだ。それに対し、アスフォデルスは自らの額を右手人差し指で叩き。
「内容はとっくの昔に全部頭の中に入ってますから……」
「それなら、その知識使って魔力を高める薬とか作って元に戻れないの? 出来るなら、そっちの方が安全じゃない?」
「確かに、そういう薬作れない訳じゃないですが、潜らないと駄目ですね」
そういうと、アスフォデルスは灰色のチュニックの胸元をずらす。そこには卵型の賢者の石が罅割れたまま埋まっていた。
「まずこの賢者の石が、完全に逝ってます。これを直す為には、迷宮の奥の部屋にある哲学者の卵っていう物を使わないと直りません。それに身体に魔力を通した時、激痛が走ったから魔力を具象化する為に必要な全身の霊覚も恐らく損傷してます。何故かこうして動ける分は幸運だったかもしれませんが、霊覚も治すなら哲学者の卵を使わないと……」
「じゃあ、哲学者の卵さえあれば治るの?」
「確かにあれば治せますが、あれ自体かなり高価で巨大な器材です。この街には、吹き飛んだ方の私の家と迷宮の底に埋まった方の工房にしか無いですね。他は全部数百キロ以上離れた所に……あぁ、ここから割と近いパルトニルには有ったんですが。一年前に壊滅しましたし」
「ま、パルトニル今更地だからね」
バルレーンがそう言うと、一瞬黒髪の女魔術師は目を背ける素振りを見せたのだが、幸か不幸かアスフォデルスはそれに気づく事は無かった。
そんなやり取りの中、気を取り直しバルレーンはこほんと空咳を一つする。しかしそこに間髪入れずアスフォデルスは血相を変えた様子で食らいつく。
「ぜ、絶対連れてって下さい! や、約束ですよ!」
そう言うと、バルレーンは少し声を一段低くして話し始めた。今から言う事をなるたけ眼の前の茶髪の少女を刺激せず、腫れ物に触るかの様に。
「実は君を連れていくのに、少々問題があるんだ。結構大きな問題がね」
「な、なんですかそれ?」
そこでバルレーンは気まずそうに一拍置いた後。
「どうか落ち着いて聞いてほしい。君の身体、見立てよりも損傷は深刻だ。正直、君はいつ死んでもおかしくない状況だよ」
「え……で、でも私こうして」
唐突に告げられた余命宣告に、思わずアスフォデルスは凍った。周囲にいるユーリーフもファングインも顔を強張らせる。
頭がそれを理解できない事を見抜いたバルレーンは、一度懐に右手を突っ込むと人差し指と親指である物を取り出す。目を凝らすと、それは髪よりも細く小さな針だった。
「さっき、君は何故だか身体が動くと言ったけど、その理由はこの針さ」
「は、針……?」
「これは影打ち針。あまり知られてないけど万物には経絡点穴っていう力の流れる川があって、この針はそこに打ち込む事で肉体の回復や強化を促す物だ。普通の病人で十本打てば快癒する奴を君には百十八本打ってる……その内の一本を今から少しずらそう」
彼女がそう言うと、立ち上がりアスフォデルスの首の右を人差し指で弾く。瞬間覚えたのは心臓の強い動悸と呼吸の止まる感覚。視界がぐにゃりと歪み、平衡感覚が失くなって机に倒れ込みかけた刹那ーーそれは急に治まった。
バルレーンが首の右の一箇所を人差し指で押さえていた。荒れる心臓も急速に落ち着きを取り戻し、数秒後には全く気にならなくなっていた。息ももう普通に吸える。
「たった一ミリずらしただけでこれさ。容態は、まぁ良くはないよね」
「……わ、私死ぬんですか!?」
「正確に言えば死んでるかな。今は治癒力を目一杯上げて生き返らせてる。放っておけば大体一ヶ月後には墓に入るだろう」
アスフォデルスは目の前が真っ暗になる思いであった。何もかも失い、更に命まで失おうとしてると思うと再び恐怖が湧き上がってくる。ようやく、希望が見えた所なのに。
「ボク個人としては、もし君なしでも扉を開ける方法があるならこの宿で養生する事をおすすめする。今みたいな事も静かに暮す分には起きないだろう」
「迷宮は……違うんですか?」
「安全とは程遠いね。たとえ百回潜って安全だったとしても、百一回目に何かあるのが迷宮さ。おすすめは出来ない」
そこでアスフォデルスはごくりと息を呑む。考えが、死の恐怖の所為でまとまらない。
死ぬ、私が――いや、まずは身体の何が悪いか分析しろ――でも私は死ぬ、死ぬんだ――心臓に負荷がかかる事から察するに――まだ師匠に会えていない。師匠に会いたい。死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ――肉体を分析しろ――死にたくない死にたくない死にたくない、師匠師匠師匠助けて師匠。
冷静に分析するんだ! 助けて師匠!
その一瞬、生暖かい息が頭にかかった。没入から覚めると、そこにはファングインが何故だか彼女の頭に顔を埋め、これまた何故か紙風船を膨らませる様に息で頭を暖かくしていた。
……何してんだこの人、というのがアスフォデルスの率直な感想である。
「こらこらファン、ボク達結構重めの話をしてるんだから、そういうのは後でやりなさい」
「……駄目よ、ファンちゃん。今そういうのはよくないわ」
バルレーンとユーリーフも流石に呆気に取られたのだろう、二人揃って銀髪の大女を嗜める。ふと気づく、今まで狂いそうな程に湧き上がった死の恐怖がいつの間にか何処かに吹き飛んでいた。
頭も舌も、瞬間回り始める。
「扉についてなんですが、私が直接合言葉を言わないと開かないですね……私自体が鍵なんです。申し訳ないですが、連れて行って貰うのが大前提です」
「なるほど、やっぱり一緒に行かないと駄目か」
言葉に怯えが入る事なく言えた。死の恐怖は正直あるが、それがアスフォデルスの身を竦ませる事はなくなっていた。怪我の功名とでも言うべきか、ファングインが突如奇行に走った事で恐怖が希釈されたらしい。
一拍遅れ、もしかしてこの人はこれを見越して行ったのではないかと思った。
しかし、それを確かめる術はアスフォデルスは持っていなかった。というか現在進行系で今も頭は生暖かい。息継ぎなしにもう数分も息を吐き続けてるあたり、無駄に凄い肺活量である。
「……いい加減にしなさい、ファンちゃん。何これ、凄い力!?」
ファングインに腕を軽くかけたユーリーフが引き離そうとすると、銀髪の大女は微塵も動く事は無かった。
一瞬、他の冒険者に頼んだらどうなるのだろうという考えが脳裏を過ったが、彼女は即座に頭を振った。飛竜を何の加護や魔術の施されていない剣一本で追い払える女が、傍目から見たら嘘にしか思えない話を信じているのである。
目の前にいるバルレーンこそいまいち信用できないが、さりとてファングインだけでも十分過ぎる実力を持っている。それにもし他の冒険者を運良く説得して仲間にしたとしても、裏切る可能性がある。魔術師ギルドに引き渡されれば、最悪実験動物の未来が待っているだろう。
その点彼等は正体を判じても自分が目覚めるまで待ち、わざわざ世話を焼いた。他の連中を選ぶよりも、信用が置けるだろう。
恐らく、多分、きっと。
――こんな時、真偽を明らかにする呪文が使えれば。
――こんな時、契約のスクロールを作れれば。
――今、この場で何か魔術を一つ使えれば。
そういう様々な思いが心中を駆け巡るも、自分が置かれた状況は一向に変わらないと思い直して辞めた。ただ、絶対に力を取り戻すという意思だけを固くして。
「力を取り戻すなら、私何でもします! 力と美しさを取り戻して、それでそれで……」
一息置いて。
「……私は、絶対に師匠に会わなくちゃいけないんです。もう一度師匠にあって、それで今度こそ二人で幸せに暮らすんです!」
鼻息を荒くするアスフォデルスに対し、バルレーンは自分の前にあったエールを一口飲むと、調子を取り戻して笑いながら話す。内心で、いい感じに呪われてるなぁという言葉を押し殺しながら。
「わかった、じゃあそうと決まったら準備を始めよっか」
「……準備?」
小首をかしげたアスフォデルスに対し、赤髪の女盗賊は満面の笑みを浮かべ。
「勿論、冒険するならまず準備しなくちゃ!」
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