第2話


 ひとしきり泣きじゃくった後ボロボロになった黒いドレスをどうにか纏い、彼女は誰もいない街道を裸足で歩いていた。足がもつれ、その場に倒れ込むと太陽で水溜まりが照らされ今の彼女の姿が露になる。

「か、顔……私の顔」

 零した涙が、何滴か水たまりに波紋を作る。そして鼻を啜りながら立ち上がると、再び街道を歩いた。

 何故こんな事になったか、自分でも全貌を理解しきれない。ただ、惜しむらくはあの爆発は強大な魔力を注がれた魔術の物であろうとは推測していた。……誰がやったかに関しては、日頃の行いから心当たりがあり過ぎる。

「あうッ……」

 普段なら飛行魔術で難なく移動していたが、今彼女にあるのは二本の足だけ。胸の賢者の石には罅が入っている。そして姿は妖艶な美女ではなく、貧相な十歳の子供になっている。

 “不死の花”、“赫奕たる異端”、“背きし者”、“大歯車遣い”とまで呼ばれた魔術師の何と惨めな事か。

 それでも、彼女は死んでしまいたいとは思わなかった。希望は無いが、死ぬのだけは怖くて出来なかった。

 死にたく無かった。こんな寒くて、冷たくて惨めな場所でなんて。

 理想の姿の頃は「この美しさを失うくらいなら死んだ方がマシ」等とのたまっていたが、実際に何もかも失うとただ一つ残された命まで手放すなど考えられなかった。

「……嫌だ」

 弱音で折れそうになるのを言葉で叱咤し、彼女は当てのない歩みを進める。その矢先だった。

 大きな羽音が鳴り響く。

 人間が街から街へと移る時、冒険者を雇い護衛するケースがある。それは街道での魔物に対する物だ。現在の季節は春、それは冬眠が明けた魔物が活動を開始する時期でもある。

 例としては飛竜などだ。

 アスフォデルスが空を仰ぐと、目算で高度四十メートル程から自分に向かって滑空している赤い飛竜の金の瞳と目が合った。飛竜にとって、この貧相な十歳の子供は、丁度よい食料に見えたのだろう。食べる部分は少ないが、弱っているから今でもすぐに捕まえられる、と。

 ――その赤い羽ばたきを目にした瞬間、彼女は即座に目算で彼我の距離を測り、最適な魔術を選択する。

 ここは重力を繰り、空から叩き落とした後に原子崩壊と行こうか。そう思った直後呪文を自然と口にしていたのは、一重に魔術師としての習性の発露であろう。

「《高きから低き――》」

 しかし古代語を口にし身体から魔力を通した途端、身体中の内臓が破裂しそうな程の激痛が走った。思わず、酸欠になりかけその場に倒れかかるも何とか踏ん張る。そこでようやく得意だった魔術すら一切使えない事を彼女は思い出した。

「……そうだ、私もう……」

 その隙に、竜が空から舞い降りた。

 飛竜は体長十五メートル程。赤い鱗に覆われ、恐らくは齢百五十歳の成体と言った所か。金の瞳は一直線にアスフォデルスを見つめた。

 賢者が記した書物を開くと、飛竜は竜種の中でも下位に位置する。知能も精々トカゲに毛が生えた位だとも記載されているだろう。

 だが、それでも街道で遭遇する魔物の中では上位に食い込む。火こそ吐かない物の、その爪や牙は牛や馬などの家畜を葬って余りあり、まして何の力もない十歳の少女など一口で済むだろう。

 飛竜はその乱杭歯を剥き出しにし地響きの様な唸り声を上げると。

【――――――――――――――――――――ッ!】

 アスフォデルスに向かって口を大きく開けて咆哮を浴びせ、咆哮は彼女のなけなしの意気地を折るのに十分過ぎた。

「わぁぁあああああ!」

 そこで彼女は一目散で逃げ出した。普段は歯牙にもかけぬ雑魚だった為、飛竜と出会った時の対処方法などとうに忘れ去っていた。……飛竜と出会った時にやってはいけないのは、飛竜に背を向けて逃げる事である。十歳の少女が竜種の翼から逃れられる訳もなく、竜は先回りし彼女の進行方向上を陣取ったのは当然の結果だった。

 竜にとっては軽く掠める様に右前足の爪が振るわれる。……アスフォデルスの身体は、その風圧と衝撃だけで吹き飛び地面を転がった。その拍子に額を切ると、何処からともなく百合の香りが漂い始める。

「し、師匠……助けて下さい……」

 親でなく兄弟でもなく、彼女が最後に縋ったのは今も敬愛する師匠であった。その名を呼んだ時、アスフォデルスの身体から最後の力が抜ける。

「た、助けて! 助けて、師匠!」

 飛竜が一度首を引く。……それは獲物に喰らいつこうとする為の素振りであり、それを理解した瞬間恐怖から彼女は咄嗟に目を閉じた。

 その時、何かが肉を断つ音が一つ。アスフォデルスが恐る恐る目を開けると、そこにはまったく奇妙な光景が映っていた。

「うー」

 気の抜けた女の声が響く。二メートルもの大女だった。体型は細身なのは、頭まですっぽり覆う深緑のローブから見て取れる。被ったフードから垣間見える髪は銀。それがアスフォデルスの前に立ちふさがり、あろうことか右手に両刃の長剣を抜き払っており、……代わりに赤い飛竜が右前足から憤血を流していた。

「な、何?」

 誰でなく、何と彼女が漏らしたのも無理のない話である。赤い飛竜が苦悶の呻き声を上げ、それが徐々に恨みの震えに変わる。痛みを怒りでかき消した後、竜は左前足で振り上げ――降ろす。

 対し、女はその場から一歩も動かなかった。剣すら構えず、まるで棒をそのまま持っただけの様に。そして飛竜の爪牙が太陽を覆った刹那。

【――、――――ッ、――――――!】

 アスフォデルスが気付くと空は晴れ、今度は左前足から血を流して竜が苦悶の唸りを上げていた。

 何が起こってるのか意味が分からなかった。

 女の刃には血が一滴も着いておらず、袖の余るローブなのに衣擦れの音一つ聞こえず、そもそも右腕を動かした挙動すら見えない。……まるで花が人知れず開くかの様に。

 それは最早怪異である。

 飛竜が女に対し睨みを利かせる。それは今目の前に映る剣士を敵に回してまで、その後ろにいる痩せぎすの子供に執着するべきか。そんな野生の葛藤の発露であった。

 唸りが止む。刹那、双翼を羽ばたかせ飛竜は空に帰って行った。……あまりの事にアスフォデルスが言葉を失っていると、緑ローブの女は彼女の様子に気付いたらしい。血に塗れていない剣をそのまま左側に吊り下げた茶色い皮の鞘に入れると、そのフードを降ろす。

 髪の色はやはり銀であった。腰までかかる程の長さを一房の三つ編みにして首に巻き、右側は髪の毛に隠れている。左目は琥珀色をし、肌の色は白く、先程まで竜と一騎打ちをしたというのに汗どころか血管すら見えない。

 目元は涼しいが、顔の形は幼さを残しており熟しきれていない少女の様だった。

 ――世の不幸と幸福は互い違いに編まれた縄の如くと人は言う。住処も財産も美しさも魔術も失ったのが不幸だとすれば、これは間違いなく幸福であった。

 大女の左の琥珀色の瞳が大きく見開かれたのは、一体何を思ってかアスフォデルスには察しすら付かなかった。しかし彼女は一度考え込んだ後――

「うー」

「ひっ!」

 彼女が笑顔を浮かべアスフォデルスに一歩を向けるのと、少女が怯えをぶり返らせ大女から一歩引くのは同じだった。こいつは困ったな、と言いたいのだろうか。眉を下がらせて左頬を掻くと、彼女は自分の母親代わりの人がこう言った事を思い出す。

 小さな子にはまず目線を合わせる事が大事である、と。大女はその答えに辿り着くと、途端その場にしゃがみ込んだ。……アスフォデルスはまた一段怯えた猫の様に身を竦ませるが、その場から動かず、長い手足を折りたたんで座り込み、まるで猫の注意を惹くかの様に声を掛け続ける。

 その様にアスフォデルスはようやく少しばかり身を緩ませ、そこで彼女はようやく目の前の大女が何をしたのか思い至った。

「あ、あの……」

 震える喉から出て来たのは、怯えながらの敬語だった。

 アスフォデルスに声をかけると大女は笑みを浮かべた。しかし怯える彼女に近寄る事なく、深緑の裾を微動だにさせずその場に座り続ける。

「も、もしかして。貴方は、私を助けて……くれたん、ですか?」

 彼女がそう口にした時だった。

「ねぇ、大丈夫ー?」

「……大丈夫ですか?」

 両方とも女の声であった。途端アスフォデルスの背後から、衣と鉄の擦れる音が迫ってくる。アスフォデルスが振り向くと、そこには二人。瞬間大女が明るい笑みを浮かべる。

「あ、女の子と一緒にいる! ちょ、しかも何か凄いボロボロだし!」

 ――一人は赤い花の様な少女だった。

 背中まで届く赤い髪を後ろで纏めた少女だった。全身を革鎧で固め、顔以外地肌は見えない。

「……回復魔法、今かけます」

 ――一人は黒い花の様な少女だった。

 真っ黒い髪を太ももまで流した女だった。黒いローブを纏い、同じく黒い鋼鉄のゴーレム馬の上に腰掛ける様に乗っている。彼女が湛えたその薄紫色の瞳がやけに目についた。

 黒髪の女は呪文を唱えると、両手に灯った淡い青の光をアスフォデルスに翳す。……そこで彼女の胸に嵌った赤石を見て、一度大きく目を見開いた。

「この子を見つけたから走ったの、ファン?」

 赤髪の女がそう言った。どうやらこの大女の名は、ファンというらしい。

「女の子になると、本当鼻がよくなるねファンは!」

 赤髪は白い八重歯を覗かせて笑いながらそう言うと、しゃがみこんで大女の鼻を右手で摘まんだ。ついで、彼女は目を動かすとファンのその先を見る。地形に残った巨大な足跡、そして土に吸われつつあるそれなりの量の血。ついでファンの剣に目を移す。柄の革紐は乱れておらず、鍔にも――おそらく刃にも――血は滴っていない。それにこの少女から香る仄かにえぐみを含んだ百合の香りは……と、それで赤髪は全てを察した。

「相変わらずバカみたいに凄い腕だね、ファン! ちょっと辺りを間引いてくるからさ、ここは任せたよ」

 赤髪の少女はそう言うと、草むらの中に姿を消す。その様をアスフォデルスは茫然としばらく眺めていると、回復魔法をかけている黒髪の女魔術師がおずおずと話しかけて来た。一瞬、何故だかその姿が遠い日に過ぎ去った親友と重なって見えた。

「……初めまして、大丈夫ですか……? 話せます……?」

「はい……」

 回復魔法のお陰で昨晩からの生傷は塞がり、気力も僅かながら回復していた。アスフォデルスも徐々に理解が追い付いてき始め、黒髪の女の質問に頷いた。

「……それで、貴方のお名前は?」

「わ、私は……アスフォデルス」

 自分の名前を答えた瞬間、ユーリーフは何かを言いかける前だったバルレーンを制し、そのまま会話を続ける。

「……住んでるとこはどこ? お父様やお母様は……?」

「私は一人……」 

 私は一人、とアスフォデルスがそう答えた直後だ。一晩中を歩き続け、既に身体に蓄積された疲労は限界だったのだろう。黒髪の女の穏やかな口調が安らぎに誘う。

 身体から一気に力が抜け、その場に倒れこんだ。意識が薄れ行く感覚は、水底に落ちてく感覚に近い。三人の声はぼんやりと聞こえるが、意味を理解する前にアスフォデルスは深い眠りに着いた。


 ×    ×    ×


 遠い昔の話。魔術の才能溢れる一人の少女がいた。

 その当時、魔術は限られた特権階級が持つべき物であるという風潮があったものの、あまりの才能の高さから平民の生まれ――正確には突如発生した迷宮から魔物が溢れた事で村ごと両親を失った後に娼館に引き取られたのだが――ながら彼女は魔術師ギルドの重鎮・魔術師ガノンダールへの弟子入りを許された。

 当然の事だが、その待遇は憎みや妬みを産むには十分過ぎた。

『アンタ、娼館の出らしいわね。汚らわしい』

 畢竟、彼女は苛めの対象となる。例え、客を取っていない下働きであったとしても。

 生まれを詰られ、顔以外の目立たない所には暴力の痕が刻まれた。目立つ部分の顔は不細工と揶揄され、言葉の暴力を思う存分浴びせられた。馬鹿にされ、侮辱され、殴られいたぶられなかった箇所など無かった。

 その惨状を、一度自分を拾ったガノンダールに訴えた事がある。しかし帰って来たのは――

『ならば、馬鹿にされぬだけの実力を身に着ける事だ。こんな下らん事を訴えてる暇があるなら、研究に励まぬか!』

 であった。……渡される実験道具や魔道書は何時だってボロボロに使い古された物であり、それが彼女を一層惨めな気分にさせた。

「あぁ、そっか私の顔不細工なんだ……」

 長かった茶色の髪は無理矢理切られ、ショートヘアになった。切られた髪は彼女の右手に握られている。そして、何時の日か彼女はこう思うに至った。

「こんな目、こんな鼻」

 鏡に映った自分を見つめるその目は、憎しみと嫌悪に満ち始めていく。

「こんな口、こんな頬、――こんな髪」

 青い瞳に涙がうっすら目に溜まっていくが、それを右腕で拭う。

「こんな姿、全部全部大ッ嫌い!」

 最初の頃は常に泣き腫らしていたが、涙が枯れた時決意する。自分は偉くなってやる、偉くなって何処までも何処までも凄い魔術師になってやると。そして何もかもを見返してやるとも。

 魔術だけ極めるんじゃない、美しさだって手に入れてやる。顔が不細工なら、誰よりも綺麗になってやる。

 そして、それは。

「か、顔がぁッ!」

 ただの悪ふざけで顔右半分を焼かれた事を経て、そして右目を失った事で決意から呪いに変わる。彼女の心という器がそこで歪んだ。

 全ては、遠い遠い昔に過ぎ去った話。それでも苛む過去の名は、地獄。

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