消えたアスフォデルスの一生
ともい柚佐彦
第1話
稀代の魔術師アスフォデルスは全てを失い、ほうほうの態で森を歩いていた。
「どうして、……こんな事に!」
天与の才があると言われた魔術は一切使えず、自慢だった美しさは今や見る影もなく醜く変わり、築き上げた財産も一切無くなっていた。
「私、私が何をしたというのだ……!」
何もかもを失った女の悲鳴と慟哭が、燃え盛る森に響く。少女だった頃の、何もかもを奪われ続けていたあの頃の様に。
始まりは彼女が全てを失う直前にまで遡る――
月の冴えた夜だった。数百平米もある巨大な屋敷。そこは世間で大魔術師と称されるガノンダール老の邸宅兼研究所である。
王都に次ぐ大都市イシュバーンに拠を構えるガノンダール老と言えば、齢二百五十にして尚魔道の最先端にいる魔術師であり古代魔術研究の大家として有名である。
常人が百を生きるだけで奇跡と言われる世で、ガノンダールが二百を越え今尚生きている事はそれ自体が偉業と言っていいだろう。しかし、何故種族の寿命限界を優に超えた齢を生きれるのか、どの様な魔術師でもガノンダールの長寿の秘密を知る者はいない。
普段なら彼は数百人もの弟子と共に魔術の研究に没頭している筈だった。だが、この日は違った。重たく閉ざされた深茶の楡で出来た二枚のドアがある。そこに聞き耳を立ててるのは、緑色のローブを羽織った十歳程の若い徒弟の二人組だ。
「ねぇ、さっき入った綺麗な人がもしかして?」
「うん、あの人があのアスフォデルスみたい」
「嘘! 私、初めて見ちゃったよ!」
極小さな声で会話する内に、入ってくる音は徐々に喧噪の態を成して来る。
「《それの生死は流転する。命は焔が如く燃え盛り、羽ばたく物である》」
……ひとときは、決闘の只中であった。
水晶に灯った眩い光に照らされる中、白い髭を胸の辺りまで蓄え、紫色のマントとその下に白い本繻子で編まれたダルマティカ――余裕のある丁字の形をした衣――に身を纏った老翁が頭に血管を浮かべる程の怒声混じりに呪文を詠唱する。
老翁の名は、ガノンダールという。彼こそが世に大魔術師と呼ばれ、魔道の重鎮と知られている男だ。
ガノンダールが右手で錫杖を彼女に向けながら諳んじるのは、魔術の行使に必要な古代語の詠唱だ。それは杖を媒介にし決められた通りに呟くと、物理法則を改竄する。
彼の足元から途端赤く鮮やかな焔が生まれ、それは旋風の様に逆巻いていく。
――ガノンダールにとって、そして彼の弟子達にとって目の前の存在はけして許せるものではなかった。
「あ、それまだかかります? 終わったら言ってもらってもいいですか、丁度今趣味のチェスが良い所なんですよね」
そこにいたのは身長は百六十センチ程。ガノンダールと同じく紫色のマントを身に纏い、金の髪を腰まで流した美女であった。
雪の様に白い肌に、青と黄と橙が入り混じる淡褐色の双眸。マントの下に着ているのは黒いドレスで、露になった豊かな胸の中心には赤い卵型の石が嵌っている。
彼女の名はアスフォデルス。ガノンダールと同じかそれ以上に名の知れた魔術師であり、見た目は二十歳程に見えるがその実ガノンダールと同じく二百歳を超える怪物である。ガノンダールの長寿の秘密が誰にも知られていないのとは対照的に、彼女の長寿の秘訣は明白だ。胸に収まった赤い石――賢者の石により、全身を巡る血液は高濃度の霊薬と化して彼女に強大な魔力といつまでも若々しい肉体を約束していた。
彼女は杖を抜くどころか椅子に座り、あまつさえ近くの卓に持ち込んだチェス盤で一人チェスに興じていた。……ガノンダールには一切興味がないという素振りで。
「悪手だな。クイーンを動かしてナイトを取ったはいいが、ほら私のビショップに取られた――そう動くしかない状況に嵌った時点で勝敗は決まる」
彼女が盤の上で白の駒を動かすと、黒の駒は一人手に動く。これもまた魔術の一つであった。
「ほら、先生頑張って。遅い仕事なら誰でも出来ますよ? それともいよいよボケちゃったんですか?」
その声が、周囲の弟子達の神経を逆撫でする。しかし誰一人声を上げなかったのは尊敬する師の集中力を乱したくなかったからだ。
この女は屋敷に来た時から既にこの様な調子であった。元々はガノンダールが共同研究を持ち掛け、その締結の印としてこの度邸宅に呼び寄せた訳であるが、アスフォデルスは万事に難癖をつけて詰って来た。皆も最初は我慢していたが、これが師が生涯をかけて研究した論文とそれに携わった歴代の弟子達にまで罵倒が及んだ時、とうとう師父の堪忍袋の緒が切れた。
決闘にて雌雄を決するには十分過ぎる理由だった。
ガノンダールの肉体からは膨大な魔力が注ぎ込まれ、彼は白髪にも白髭にも顔中汗を垂らしている。
――ちり、とアスフォデルスのうなじに焔の羽が掠める感触が走る。それは彼女の体質の一つ、発動する魔術を事前に察知する能力の表れだ。
ガノンダールの熾した焔は勢いを増し、やがて彼の上で巨大な鳥の形を取った。
「こ、これは何だ! こんな魔術見た事がない!」
徒弟の一人がそう叫ぶ。ガノンダールが唱えてるのは、今までどんな弟子にも秘奥にしていた不死鳥召喚の魔術であった。一度放てばどれ程強大な守りで固めても、全てを無効にして敵を焼き殺す彼の必殺の魔術である。
同時に、アスフォデルスを除いた徒弟達の前に青白い光の壁が現れたのは、……それは飛び散る火の粉から弟子達を防ぐ結界だ。
そこで、ガノンダールは詠唱を止めアスフォデルスに声をかける。
「……いつまでそうしてるつもりだ、アスフォデルス」
「あ、終わりました? 遅いんで二局目に突入しちゃいましたよ」
「……杖を抜け、呪文を唱えよ、決闘の礼に従うのだ。他の門派に走ったとは言え、そなたも儂の弟子であった……無手の者を葬るなどしたくない」
それに対しアスフォデルスはにたりと笑う。嫌らしい、悪意の籠った笑みだった。
「仮にも一度は弟子だった時の餞別です。お先に一手どうぞ」
「アスフォデルス!」
彼はそう叫ぶと、錫杖を彼女に向ける。それが最後の一線だった。
「《そなたは諸共を焼くもの、そなたは触れ得ざる神秘の焔、我はそなたを籠より放つ》」
結びの呪文を唱えると、ガノンダールを呼び出した焔の鳥はアスフォデルスに向かって焔で出来た羽を羽ばたかせて飛翔する。しかし、それを彼女は――
「《解けよ》」
たった一言、杖を持たずに古代語を呟く。ただそれだけで、不死鳥は一気に輝きを失って溶ける様に消えた。彼女以外の誰もが、一拍の後大きく目を見開く。途端周囲は水を打ったかの様に静まり返り、その中で困惑する声が徐々に湧き起こる
「あれー? 待ってるのに魔法が来ないなー? どうかしたんですか、先生?」
「…………貴様、今何をした?」
明らかにふざけた態度でそう言うアスフォデルスに対し、ガノンダールは若干衰弱した様子を見せながらそう尋ねた。
「お前の魔術を発生前に打ち消した。使おうとしたのは、不死鳥の召喚だろ? 雑魚が後生大事に秘奥にする、ちゃっちい魔術だ」
秘奥にしていた魔術をつまらない手品の様にそう暴かれ、老翁は思わず膝を落としたのは愕然としたのと、全魔力を以って注いだ魔術が崩され著しく体が消耗したからである。そんな彼に対し、アスフォデルスはいやらしい笑みを浮かべたまま。
「いいか、ガノンダール。魔術っていうのは、こう使うんだよ……《力は矢、意思は弓、放て》」
彼女が放ったのは最もありふれた矢の魔術――マジック・ミサイルの呪文である。手の平を向けただけで古代語を唱えると、赤い光は彼女の前にぽつんと鬼火の様に現れ、ガノンダールに奔り直撃する。それは彼の身体を数メートル程吹き飛ばし、元座っていた緑色の椅子へ叩きつけた。
その時、アスフォデルスの顔は一瞬顔が硬直するも直に浅い呼吸を確認したのを見ると、また悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「威力は弱めておきました。決闘で死ぬより、生き続けて下さい先生。元弟子に逆上し、決闘を挑み、魔法を出せず、慈悲をかけられる……学者として、魔術師としては死んだ方がマシですが」
その姿は傍から見れば悪女そのものの姿であった。魔術師としても人としても、その様を尊敬出来る者はいないだろう。
「ですが、その長寿の秘密だけは私にも分かりません。どの様な手段を取って、そこまで寿命を延ばせたのか……それだけは心から尊敬しますよガノンダール先生」
それに対しガノンダールの徒弟達は、倒れた師父を数人が介抱しながら怨嗟の声を上げた。
「ま、待て! 貴様、自分の師父に手を上げたんだぞ! 魔術師として、人として恥じる事ないのか!?」
「んー、特にないかな? それに命を賭けた決闘で、殺す事も出来たのに取らなかったんだぞ? 褒められこそすれ、何で私が責められる? そもそも、私が尊敬する師匠はこいつじゃないし」
「き、貴様!」
「不満があるなら、それこそ決闘を挑めばいい。どうした、自分の師父が撃たれたんだぞ? 挑めよ?」
「くッ……」
「おい、どうした! 挑めよ、誰でもいい! 次の奴出て来いよ!」
それに答える物は誰もいなかった。誰も何も口にする事なく、ただただ沈黙を守るだけであった。
「口だけの雑魚がよ。こんなのを師と後生大事に崇めてるから、お前等は大成しないんだよ」
自分に話しかけた若い青年の魔術師に対し、アスフォデルスは挑発する様にそう言う。それに対し彼は言葉に詰まって涙を浮かべた。それは師父を傷つけた相手に挑む勇気のなさと、そして師父と同じ様に尊敬していた魔術師に対する失望であった。
「貴方を、貴方を尊敬していたのに! 謎に包まれてた貴方を今日知って、失望しました魔術師アスフォデルス!」
――魔術師アスフォデルスには謎が多い。
二百年を生き魔術や錬金術などの神秘を極めた者として君臨。現代の魔術師にとってアスフォデルスの名は知らぬ者はいないだろう。だが、その功績に反し実情は一切知られていない。
知られているのは同じく賢人である魔術師ガノンダールに一時期師事し、それ以降は同じく大魔術師として知られているファルトールの元で学んだ事だけである。しかし彼にとっては同じ門派の尊敬すべき先輩であり、本日会った時謎に包まれた魔術師が見れ心が躍った。だが蓋を開けてみればこの様な人物であるとは、夢にも思っていなかった。
そんな彼に対し、アスフォデルスが漏らしたのは――
「美しい……」
「は?」
「お前の青い瞳に映ったこの私、魔術師アスフォデルスは何て美しいんだ。……いるだけでそこに美が生まれる、まるで美しさの化身だ」
――自らの美しさに陶酔する声だった。彼女は彼の瞳に映る自分の姿に対し、まるで専用の鏡かの様に一度右に身体を回す。
「あぁ、師匠見て下さい。今、私はまさに貴方そのものとなった」
誰もがその様に怖気を覚える中、彼女が自らの姿を弄んでいると、弟子達数人に支えながらガノンダールが苦悶混じりに怨嗟の声を上げる。
「ファルトールの姿を取り繕い、アレを気取っても……心までは取り繕えまい。浅ましい淫売が染みた心までは……」
ファルトールという名が出た時、アスフォデルスの眉がぴくりと動く。次に吐かれる言葉には幾分かの冷やかさが自然と籠っていた。
「先生、貴方の生涯をかけた論文ですが、錬金術の材料のラドンと賢者ラドン混ざってますよ? それも四カ所も」
「なん……だと?」
「こんなの今時学生だって間違えませんよ。でもそれに免じて今の言葉、許してあげますよ。私優しいですから」
この日以降、魔術師ガノンダール一門の名声は地に落ちる事となる。ガノンダールの痛みと屈辱に耐えるその声が、まるで栄華の名残の様に虚しく響いた。
そうして、その様を後目に彼女は悠々と部屋を後にする。その際に――
「アスフォデルス様ー」
「……ん?」
背後から駆け寄ってくる小さな足音が二つ。彼女が首を後ろに向けると、そこには緑色のローブを羽織った十歳程の少女達がいた。
「貴方達は?」
「わ、私達アスフォデルス様みたいな魔術師になりたいんです! ど、どうしたらなれますか?」
「絶対になりたいんです」
いたいけな二人の視線が彼女に突き刺さる。それに対しまずアスフォデルスが目に行ったのは、彼女達の身なりと物腰だった。二人共身なりはきちんとしており、衣服には汚れもほつれもない。物腰も下働き特有の怯えが見えず、礼儀と教養が見えた。二人共裕福な家の出に違いない。
「そんなに、私の様な魔術師になりたい?」
「「はい!」」
「なら、いい事を教えてやる――お前等にはなれないよ」
きょとんとした表情を浮かべる少女二人に、アスフォデルスはにたにたと笑いながら話す。まるで自分が言う冗談が面白くてたまらないという感じに。
「お前達は、特に何の苦労もせずにご両親の元で育ったんだろう。お前等に私なんてなれないよ、無理だ。無駄だよ無駄、師の他に父さん母さんがいる奴等なんかが私になれてたまるかよ――解ったらとっと失せろ!」
最初は諭す様に、最後は怒鳴りつける様に。そう言うと、苦虫を潰した顔を浮かべ泣きじゃくる少女達から悠然と去って行った。
誰も見送らない門から出ると、途端羊皮紙や革袋を足に括り付けた鳩から鷹までの数々の鳥達がアスフォデルスの前に現れる。全て魔術師の使い魔達だった。
「これもバツ、これもバツ。これは……マル。私の研究が欲しかったら、金を出し惜しみするんじゃない!」
手紙は全て名の有る魔術師達からの共同研究の申し出や、商会から著作の出版の依頼であった。アスフォデルスはその場で歩きながら、不要な手紙はその場に破り捨てて門まで歩いた。振り返り、一度ガノンダール邸を一瞥する。
恐らく、ガノンダール一門が魔術師の栄光を浴びる事はないだろう。この醜聞は彼の魔術師として権威を地に貶めるに違いない。そう思うと胎の底から得も言われぬ興奮が走った。
「たまんないなぁ……散りゆく者の栄光って奴は」
そう言って彼女が最後に右手を口に当て、接吻を手向けたのは……つまり料理は最後の一口まで美味しくいただくのと同じ意味合いだった。
夜風と月明りの元、気分よくアスフォデルスが街を歩いていると目の端にあるものが目に入った。
それは汚い身なりをした物乞いの少女だった。髪と肌は泥だらけで、服の端々は焼け焦げている辺り、恐らく何かがあって物乞いまで落ちたのだろう。
今日はついていた。メインディッシュの他に、デザートにまでありつけるなんて……彼女の顔が再び喜悦に歪み、思わず舌なめずりをしていた。
「貴方、どうしたの?」
目線を合わせ、慈愛の籠った笑みを浮かべる。目線を合わせるのは、子供の心を開く為の一歩だ。ほら、光の失せた瞳が揺らいだ。こうなれば八割勝った様な物。
「……住んでた村、魔物に焼かれて」
――もうその言葉だけで十分だった。これだけで、このアスフォデルスが救うのに値する可哀想な子だと思った。
あぁ、目の前にいるこの子は何て臭くて汚いんだろう。なんとしても私が助けてあげなくっちゃ!
本を出す仕事の締め切りが、後一週間だけど……まぁどうでもいい仕事だ。催促が来るだろうが、おまけを付け加えとけば相手だって直に機嫌を直すだろう。
「お姉ちゃんの元に来たら、ご飯食べさせてあげるけど……来る?」
笑ってそう言うと、少女は声もなく頷いた。
さて、これからやる事は盛り沢山だ。ご飯を食べさせた後はお風呂に入れてあげて、綺麗な服も用意してあげないと。
これから失った物を補填しなくちゃいけない。なんて可哀想な子なんだろう、凄く凄く楽しみ。
彼女の今の人生は楽しかった。どんな自分も好きだった。
魔術師としての自分が好きだった。……ちょっと魔術で知ってる事を詳しく紙に書いただけで、世間はアスフォデルスに何でもくれた。
師匠そのものを再現した、美しい自分が好きだった。胸に埋めた赤い賢者の石のお陰で、いつまでも若く美しいままでいられた。自分の身体で好きな所を上げろと言われれば、全部と答えるだろう。
人に感謝される事が好きだった。その人が困ってれば困ってる程、助けの手を指し伸ばす時自分も救われてる気がした。だから、一人は全然寂しくなかった。
ここに一つの村がある。
今はもう名前すら失われ、公的な地図に載っていない廃村だ。しかし、住む者は誰もいないのに全ての建物は新品とは言わないまでも使い込まれつつ手入れが施されていた。……外からの視線を遮る十メートルはあろうかという壁に守られたそこは、近隣の住民から『箱庭村』と称されていた。
「“そなた、今何と言った。この儂が生涯をかけて解読したこの論文が無意味というのか!?”」
その中、一件の家がある。
赤い煉瓦で造られた家だ。大きさはそれなりで、家の内にはゴーレムが合わせて数十体程徘徊し屋敷の中を手入れしている。その中で、アスフォデルスは数週間前の事を思い出しながらフラスコの中の薬品を調合していた。
「“ならば、お前の目玉は硝子細工だという事さガノンダール”」
本人としては鼻歌を、特にお気に入りの部分を歌う様な感覚であった。実に清々しい気分であった。三十回目となっても、まだ飽きない。そうして、記憶は次に飛ぶ。あの後助けた物乞いの少女だった。
「“お姉ちゃん、助けてくれてありがとう!”」
本当に可愛い子だった。一週間一緒にいた後、こういう時よく利用する孤児院に最後は届けた。勿論対価は忘れてない、楽しませてもらった分はちゃんと支払った。……あの子の人生を保証出来る金を商会の金庫に預け、その鍵を孤児院を営む司祭に渡した。時が来ればあの少女の手に渡るだろう。
我ながら鮮やかな手並みで、綺麗に遊んだと思う。
更に記憶は次に飛ぶ。それはガノンダールの次に師事した師匠だ。
「“師匠、見て下さい! ホムンクルスを元に臓器や皮膚の再生方法を思いついたんです”、“これを生かせばお前も少しは楽になるだろう、良い観点だ”、“ありがとうございます、師匠!”」
今はいない師に褒められた時を思い出し、気分は頂点に達する。そして、ホムンクルスという一点で連想してある事を思い出し――
「……あ」
――一気に気分は上から下へ、急速に落ちていく。記憶は連鎖を重ね、悪い記憶が次々花開いてった。
「だめ、だめだめだめ……いや、違うんです。違うの、私……私」
そんな時に彼女がする事はただ一つ、薬品調合の手を止めて部屋の東側の壁にある姿見を見つめる事であった。
「わ、私は美しい……私は美しい、そうだよな?」
姿見に金の髪に、涙がうっすら浮かんだ淡褐色の瞳の女が一瞬映る。違う、こうじゃない。師匠はこんな顔を絶対しない。……そこで涙を拭い、何時もより少しばかり背を張り、声を高くするだけでそこにいるのは在りし日の彼女の師である。
「“まぁ、お前にも良い所はある。これからゆっくり直せばいいんだ”……ありがとうございます、師匠」
そして、次に思い浮かぶのは今はいない友の姿。同じくファルトールの元で学んだアルンプトラ。若かりし頃、初めて出会った当初の黒い髪に薄紫色の目をした少年である。
「“今回の件は残念だったね、でもまぁ君ならもう改善点は解ってるだろ? なら後は実行すればいいだけさ”……そうだな、アルンプトラ」
そこでもまた記憶に浸る。そう、出来は完璧だ。……彼女の身体は記憶そのまま師匠の姿を寸分違わず再現している。その出来は本人が涙を流して喜び、ある日突然姿を消す程の完璧さを誇っている。これがアスフォデルスであり、端から見れば危うい女であった。
「師匠、私頑張ります。いつか帰って来たら、今までいなかった分沢山褒めて下さい。“よくやったな、チェ……いやアスフォデルス”」
そのまま流れる様に記憶に浸った後、彼女は一旦休憩を取る事にする。薬品棚から四本の水晶製の試験管に入った薬を手にすると、右手に指の間に挟んで一気に口に流し込む。
この四本を流し込む事によって肉体疲労を強制的に吹き飛ばし、気持ちを明るくし、お腹も減らず、何日も眠らなくて済む様になる。食事やお茶や煙草よりも健康によい、彼女が編み出した効率的な休息方法である。
窓から外を見れば、ゴーレム達が傷んだ家屋の一つを組み替えていた。ここにいるのは彼女以外はゴーレムだけである。全てゴーレムが管理していた、村の景観の管理も、周辺の森に生息する増えすぎた獣の駆除も、魔術や錬金術の材料となる薬草の栽培も、いつ帰っても温かい料理を作れるのも。……これが彼女たった一人で行っているので、付いた仇名が『箱庭村』という訳だ。
実際、ここはアスフォデルスにとって箱庭であった。ある人の帰りを待つ為、百年以上前に大枚はたいて村まるごと買って以降、彼女の記憶のままの姿を維持し続けている。
……彼女がここを離れた事はない、研究の為に数ヵ月離れた事はあるが、基本的にはずっとこの村を根城にしていた。
「さ、後ちょっと……これ終わったら散歩付きあって、アルンプトラ」
その時だった。
不意にヘドロの様な匂いを嗅いだかと思うと、途端アスフォデルスはその場に倒れ込む。一瞬自らの身に何が起こったのか分からなかった。薬品の調合を間違えたのか、それとも……と思いを巡らせた直後に走らせた淡褐色の瞳に映るのは、右足に絡んだ赤黒い数本の触手である。それは彼女の机の下、その影から這い出ていた。
「こ、こいつは……何だ?」
それは、一通りの魔物に詳しいアスフォデルスが見た事の無い存在であった。影の中に潜むという見た目もそうだが、何よりも異質なのはその魔力である。……そのいるだけで空気を淀ませる、瘴気の様なそれは彼女の知識に一切ない物であった。
影の中に潜んだそれは、彼女の足に絡めた触手を締め付けると、ずるずるとゆっくり彼女の身体を引きずり込もうとする。
「ひっ……」
アスフォデルスは、生理的嫌悪から引き攣った声を上げた。頭が真っ白になって硬直し、咄嗟に何の呪文も思い浮かばなかったのは一重に彼女が戦闘者ではなく飽くまで研究者である事の性か。
たった一瞬の硬直による隙を突き、触手は更に彼女の腹にまで這う。嫌悪が頂点に達したその時。自分に絡んだ触手が不意に解かれる。影の中のそれは、まるで獣が何かを察して逃げるかの様に勢いよく触手を影の中に仕舞い込み、そのまま何一つ残さず机の下からも霞が晴れる様に消える。
「な、なんなんだ一体……?」
先程まで起こった事に一切理解が及ばず、思わず彼女は上の空気味に呟く。しかし、その言葉は困惑ごと急速な空気の帯電に掻き消された。
ちり、とうなじに焔の羽が掠める感触が走った気がした。
――その時、大地が啼いた。
この周辺にいる全存在が、全く同じタイミングでその大爆発を感じた。人も獣も、今はただその一瞬に恐れ戦く。
全て、何もかも灰になった。
数キロに渡る大きな虚がある。火山の噴火で生まれる巨大な凹地――カルデラ――にも似たそこは、未だ熱を保ち燻りを見せている。その場所から、まるでゾンビの様に右腕が一本生えた。次いで金髪の女の頭が生える。
「い、一体全体何なの……」
アスフォデルスである。彼女は地面に埋もれた左腕を出すと、そのまま腕力で足を出す。
黒いドレスはボロキレ同然となったが、身体は泥だらけな事以外異常はない。アスフォデルスは自分の身体を隅々まで弄っており、その中には防御魔術も仕掛けられている。それが地形すら変える大爆発から彼女が生き残れた理由だった。
思う存分むせ返った後、彼女は淡褐色の瞳を擦って辺りを見回す。彼女は爆心地の真っ只中にいた。すり鉢状になった地形の、目算で百メートル近くあるかもしれない深さの底。それが今彼女がいる場所の情景である。
「嘘だろ、なんでこんな事に……」
半ば呆然とした態で彼女はそう呟いた。染み付いた癖から、彼女はそう言いながらも飛行魔術を起動し、ひとまずクレーターから抜け出そうとする。
彼女の心境の表れかの様に飛行魔術はゆっくりと上がって行き、クレーターの縁からおよそ五メートルほど上昇した所で、――彼女の意思に反し飛行魔術が切れた。
「きゃあッ! ……うわッ!」
運良くクレーターの底に戻る事はなく、アスフォデルスは縁周辺の地べたを転がる。
「な、何なのよ……!」
本来、もう少し上昇してクレーターの全体像を見るつもりであった。彼女は自分に突如起きた異常を訝しみつつ、再度飛行しようとする。
だが身体が浮いた瞬間、胸に強烈な痛みが襲った。……激痛に耐えかね、魔力を遮断し再度地面に転がり込む。
痛みは鈍く、まるで心臓を鷲掴みにされている様な感覚だった。声を上げようとしたが、それどころかそもそも息すら出来ない。まるで地上に打ち上げられ息途絶える寸前の魚の様にアスフォデルスは地面の上で少なくもがいた。……数分後、ようやく呼吸が整い始める。
「……もしかして、その、ひょっとして私魔術が使えなくなって……る?」
ぽつり、と呟いたその言葉は絶望に満ち溢れている。気付くと、胸に埋めた賢者の石は罅割れていた。
彼女の身体は『賢者の石』を中心に様々な仕掛けを施しており、胸の痛みはおそらくその仕掛けに故障が起きている事だと彼女は推測する。この仕掛けに問題が起きると魔術の行使にあたり著しく支障を来たすのを意味していた。
「ま、待てよ……それなら」
そして追い討ちをかけるかの様に、“それなら”が訪れた。魔術が使えなくなった途端、彼女が自分に施した仕掛けが解かれていく。
……彼女が自負する美しさもまた自信の改造による物であり、魔術を使えなくなった今となっては維持は困難だ。変身魔術が解けて行き、肉体の老化を停止し常に最盛期を保つ為の魔法は暴走を始めていく。身長は縮み始め、白い肌はくすんで行き、金髪は徐々に茶色に変わっていく。彼女は自分の両手を広げて見つめると、徐々に収縮していった。
「う、嘘……やだやだやだやめて!」
彼女の言葉に反し、身体の収縮は止まらない。魔法は解け、身体は彼女が捨てた姿に戻って行く。
残酷な逆行が終わった直後、彼女はまず自分の前髪を引っ張り確認する。その色は理想の金ではなく茶色。それも自慢だった長髪ではなく、首元までのショートカット。身体を触れば凹凸はなく、まるで欠食児童の様にあばらが浮いて貧相な身体つきになっていた。
「ち、違う! 私はもう、あの頃の私じゃないッ……! ■■■■■じゃない!」
次いでその顔を手で探る。その鼻も、その目もその口もその頬も、その全てが理想とは程遠い。……鏡を見ずとも解る。それは、彼女があの姿になる前の最も忌み嫌う十歳の頃の、少女時代の姿だった。
「う、嘘……嘘だこんなの……悪い夢だ」
顔を蒼くしながら彼女はそう呟いた。けれど心は言葉に反し冷徹に現実を見据えている。自分はたった今さっき、美しさも魔術も財産も何もかも失ったのだと。両手で頭をガリガリと掻いた後、彼女の目に涙が溜まっていく。
そしてそれは数秒も経たずに両の眼から零れ落ちた。しゃっくりの様にひきつけを起こしながら、涙は止まらず地面に落ち染み込んでいく。そして彼女は叫んだ。
「そんな、嘘……師匠がッ、師匠の姿がッ……」
叫びは、魔術も財産も何もかもを失った事よりも尊敬する師の姿を失った事を何より悔やんでいる様に聞こえた。
× × ×
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます