第二幕 第二十話「咲けよ江戸の華 前編」
少女はおもむろに目を覚ました。
少女の人間としての機能が少しずつ覚醒を始め、畳の香りを感じる。寝返りを打って少し乱れた髪の先が頬に触れてこそばゆさを感じ、手で梳いて直す。
窓を少し開けると、乾いた涼しい風と共に月明かりが差し込み、
正面から月に照らされて影を落としたその後ろ姿は、まるで月を望むかぐや姫のようで、摩訶不思議な妖艶さを内に潜めている。
少女がやがて振り返るとその視界に、月明かりでぼんやりと映し出された少年の姿が映る。
少年は隣にあったはずの温もりを探し求めるように、
少女はその様子を見て、夜風に吹かれて冷えた身体がまた熱くなっていくのを感じる。その熱はやがてまた別の熱を求め始める。
膝を畳に擦らせながら、少女は眠る少年に近づいていく。
少女の膝に伝わる感触がさらに柔らかくなる。
敷布団の上にぺたんと座る少女は、少年の前髪を手でそっとめくって、月に照らされた顔を見つめる。
いまだ夢うつつと言ったものだろうか。夜の闇に紛れているのをいいことに、少女は心に任せて湿った唇を、少年の唇へと近づける。片や熱い吐息を震わせ、片や穏やかな寝息を立てている。
少女の前髪が垂れ、少年の額に触れる。
その二つの唇で
しかしその瞬間、地面がグラッと揺れて、二人の額同士が強くぶつかり合ってしまう。
「痛ッ」
額に生じた痛みに少年は目を覚ますと、同じように額を押さえて痛がる少女が目に映る。
少女の後ろには開いた窓から、月の光が零れている。こんな夜更けに、と少年は不思議そうに問う。
「どうしたの?」
「あ、い、いやあ、なんでもないよお」
その痛みかはたまた別の何かが原因か。少女は少し泪目になっている。
それにしても今の揺れは何だったのだろうか、少女が思案するその時。
グラと視界が
揺れる揺れる、また揺れる。
今度の揺れは先ほどよりもずっと大きい。この漢方屋の屋敷が、丸ごと揺れているようなほどである。
大地の鼓動が大きくなる。縦横無尽に振動し、少女たちは壁に手を当てて身体を支える。
揺れに耐えながら、少年は思考を巡らせる。
——地震だ……ッ!
灯の消えた燭台が音を立てて倒れ、部屋の中の影が深くなる。棚の戸の留め具がすべて外れ、中に入っていた物が外に撒き散らされる。階下からは陶器の落ちて割れる音が絶えず聞こえてくる。
するとたちまち半鐘が乱れ打ちをされて、カーンカーン、カンカンカンと続けざまに鳴り響く。夜の帳を引き破るかのごとく鳴る半鐘は、江戸の町に響き渡り、眠る人々に偽りの朝を告げる。
耳をつんざく半鐘の音で、ヤスとトモノリは目を覚ます。一瞬の思案の後に血相を変え、すぐさまきつく帯を締める。
揺れによって歪んでしまったのか、上手く開かない襖を蹴破って、寝巻のまま表へと飛び出る。残された少女たちは何が起きたか状況が掴み切れていない。
だが次の瞬間、あたりがまるで昼のように明るくなり、ブワッと熱が伝わってくる。遠くで何か大きなものが崩れる音がする。
バタバタと音を立てながら大慌てで階段を昇り、戻ってくるヤスが口にする。
「火事だ……!」
鬼気迫る表情だ。火の熱に当てられてか、ツツと汗が顎から垂れ落ちている。
「お二方、早く逃げましょう! 大事なものだけ持って、さあ早く!」
少女は差し掛け傘を拾い、小袖の帯を整えてヤスの元へ向かう。
少年の脇差は枕元に置いていた筈なのだが、窓際まで転がってしまっている。揺れても倒れないように、少年は頭を低くかがみながら脇差拾いに窓に近づく。
すると窓から冬の夜とは思えないほどの熱気が入り込んでいるのを感じる。その熱が鬱陶しくて顔を上げると、風に乗って火の粉が横殴りに流れているのが見える。少年はその光景に一層険しい顔になる。
脇差を拾い上げ、ヤスの元に向かう。
「ヤスさん、ここ風下だよ!」
慎重に階段を降りながら少年が言う。
「ええ……どうやらそのようです」
一階に着き、そのまま外へ出る。すると、この漢方屋から向こう十数軒ほど先の町屋が燃えているのが見て分かる。火の粉はそこから来ている。一度風が吹いて火が大きくなったかと思えば、飛来する火の粉も多くなり、焼かれるような暴力的な熱を否応なしに受ける。
しかし火の手はそこだけではない。通りを何本か挟んだずっと向こうも激しく明るくなっている。江戸の町のあちこちで散発的に火事が起きているのだ。各地の火が一体となり、江戸全体を昼のように明るくし、揺らぎ続ける影を作り出している。
空を見れば星が消えていた。燃え盛る火が夜空の光を押し返し、星を人々の目から隠してしまっているのだ。江戸の火事に抵抗するように月だけはまだ夜空に浮かび、その
「二人共、無事だったか」
不意にくぐもった声が二人を呼ぶ。その声の出元はトモノリである。濡らした手ぬぐいを口元に巻き、手には長い木の棒を持っている。
「はい!」
点呼を受けたように少年は返事をするも、少女は状況を飲み込み切れていないのか、目を回し、口の開けたり閉じたりを繰り返している。
「私は向こうの応援に行く。ヤスさん、まずはこの子たちを頼みます」
「おいらもすぐ向かいますんで!」
トモノリは小さく
トモノリの背姿が見えなくなったころ、大通りに構える町屋と言う町屋から、その路地裏にある長屋という長屋から、人がドッと出てくる。昼間の数倍の人で溢れかえり、たちまち先が見通せないほどになる。夜更けということもあり寝間着のままの者も多く、帯の緩んだ者や冬の夜なのに下着のままに飛び出す者もいる。しかしそれらは子供や女がほとんどで、火から逃げるように少年たちの前から後ろへと流れていく。男は、先ほどのトモノリと同じように火の元へと駆けている。
「え……」
助けに来てくれたのではないのか、と少女は唖然としてしまう。目の前で取り上げられた希望に、少女の心に張られた糸が
「火消の連中は武家の方に行って、おいらたちみたいな商人や町人は、知らんふりさ」
舌打ちをしながら、ヤスは吐き捨てる様に言う。その目線の先には小さくなっていく火消たちがあった。
しかしすぐに目線を落とし、ゆると開かれた自身の掌を見つめる。
「だから、自分たちの手で、守らなきゃならねえんです」
その声はかすかに震えているものの、明確な意志が含まれていた。
ヤスの目の奥に燃ゆるは怒りではなく使命なのであろう。キュッと口を閉めたヤスの表情には覚悟の色が見える。
ヤスは二人の肩を掴む。
「お二方は、先に
その返事を待つこともなく、ヤスは身を
少女たちはその細長い背姿が人の波に埋もれていくのをただ見ることしかできない。
また地震が起きてグラッと揺れる。遠くで大きな音を立てて町屋が崩れると、その隣、またその隣へと火が移っていく。
また火が大きくなる。
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