第二幕 第十九話「鏡映し」
「智徳と書いてトモノリ。この名を授かって生まれたが、まだ私はこの名に
「えっと、どっちで呼べばいいですか?」
「君たちはトモノリと呼んでくれて構わないよ。身の丈に合っていないから、少し恥ずかしいけどね」
シュウトク、もといトモノリは、まだ赤みの残る目尻をしていて、自嘲気味に笑う。少女と話しながらも、時折視線が斜め上に遊んでいる。母のことを思い出しているのだろう。まだ皺の少なかった母を。
トモノリは、今の姿を知らないため、瞼を閉じることでしかその姿を見ることができない。
懐かしむ気持ちも少々。だが心にあるのは、忘れようと名前を変え、のうのうと生きてきてしまったことへの罪悪感だった。
ヤスはその姿をいつかの自分に重ねて、部屋の隅で耳だけを傾けていた。その表情は、どこか清らかである。瞳を閉じて不揃いな髭を触りながら、背中を壁に預けている。
「母さんは、元気にしてたかい」
「はい。ですけど、具合が悪くなっちゃって。それで私たち、薬を買いに来たんです」
そうだったのかと言って、トモノリはヤスの方をチラと見る。いまだヤスのことは半信半疑であったが、どうやら本当に真っ当な目的で来ていたようだ。
「トモノリさん。なんで、帰ってあげないんですか?」
少女にしては少しきつい口調だ。元気にしてたか、などと心配するなら、自分で確かめに行けばいいじゃないかと。
少女はトモノリの返事を待つ。
「母さんは、きっと僕の事なんか忘れてると思ってた。父と一緒に、自分を捨てて行ったと思っているはずだと、考えていた。合わせる顔もなければ、そんな資格も私にはない」
想う心は本当だが、全て言い訳だ。
トモノリ自身も分かっていた筈なのだ。たとえどれほどのことを言われようとも、母の元へ帰って共に暮らしてあげることの方が大切であるということを。
ただ、それから逃げた。勝手な妄想で自分を正当化して、まるで母なんていなかったみたいに生きて、楽な方へと逃げた。
そして今も、少女から逃げようとした。自分の間違っていた過去を認め、それをありのままに出した言葉を、否定されるのが怖かった。少女から何かを言われるのが怖かった。
だから、大人の事情があるように見せて、「君たち子供には分からないかもしれないけどね」と終わらせようとした。
ずるい大人だ。見栄っ張りで、自分勝手で、それを認めようともしない。
自分で自分を納得させるという今のトモノリは、かつての少女がしていた思考放棄とまるで違いはない。
少女は勢いよく立ち上がり、トモノリに近づいていく。歯を強く噛みしめ、口の端に力が入っている。目をカッと開き、大きく息を吸い込む。さらにズンと踏み込んでいく。
振り上げられた小さな少女の掌が、トモノリの頬をぶった。
「そんな勝手なこと言わないでください! おばさんの気持ちも知らないで! おばさんは、ずっとトモノリさんのことを待ってるの。届かないからって溜め込んでるけど、いっぱい手紙を書いて、ずっと一人で待ってるの。だから……帰ってあげてほしい、です」
少女は叫ぶ。
トモノリは叩かれてヒリヒリと熱い頬を感じながら、少女を見上げる。
なぜ、叩いた少女が泣いているのか。少女の瞳には泪が溜まり、今にも溢れ出してしまいそうになっている。
その少女の姿に、トモノリは心の深い溝が埋まっていくように感じた。
トモノリは雲が晴れたような表情を見せる。
「ヒナタさん、君に言われるまで、一番大切なことに気が付かなかったなんて、やはり私はまだまだ未熟だ」
自分の想像で過去に勝手な決着をつけてしまっていた。
本当に忘れたかったのは自分の方ではないか。
有耶無耶なことなど忘れ去って、前を向いてしまおうなどと考えていたのではないか。
名前を変えたのもそうだろう。未熟だなんだともっともらしい理由を付けて、心のどこかでは新たな自分、などと勝手に過去を振り払った気でいたのではないか。
言うなれば、ツケだ。それを清算しなければ、前に進むことなど到底できないというのに。
「不甲斐ない。必ず、母さんのところに帰るよ」
「きっと、お願いします」
トモノリは何かが込みあがってくるのをぐっとこらえているようだ。
「姐さん方、そろそろ寝やしませんか」
不意にヤスが口を挟む。それにトモノリも同意する。
「ああ、それがいい。もう日も落ちてかなり経つしね、眠る支度をしよう」
布団を並べて燭台の灯を消す。横になると、疲れていたのだろう、少女たちはすぐに寝息を立て始める。
トモノリは二人が寝たのを確認すると、暗がりの中、小声でヤスと話す。
「ヤスさん、助かったよ」
「ええ、おいらもお二方には聞かせたくありませんので。それでは失礼します」
大人というのはたいそう見栄っ張りなもんで、みっともない姿を子供に見せようものならば、腹を斬るなどと言う者もちらほらいるという。
いつかの自分も、二人の目にはこのように映ったのだろう、とヤスも敷いた布団に横になって目を瞑る。
いまだ続く夜の喧騒に紛れて、一人の男の
星月の光あまねくこの江戸の町の大通り。その一角に構える店蔵造りの大店の、草葉の香る漢方屋。そのまた二階の一室に上がりましては、一本欠けた川の字に敷かれた布団二枚の上にて眠り、はてさて見るは何の夢か。己の行く末さえ知らぬまま、知りえぬ未来への期待を胸に、明日を夢見て眠りについて、飛ぶに使えぬ羽を、休ませたそうな。
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