第二幕 第十八話「清算されるべき過去」
「すまなかった。私も商人の端くれだ。知らなかったとはいえ、人の所有物に手を出してしまうとは」
深く頭を下げる男に、二人は戸惑う。
所有物。突き放したような言葉だ。しかし確かな重みを持っている。商人の世界では人でさえ取引されるのが当たり前であると告げているようにも思えた。
そういうものなのかなあと二人は曖昧に解釈する。
ヤスはというと、店の女に傷口の手当てをしてもらっているところだ。殴られたときに口の中も切れたようで、口の中に残った天かすが当たって痛いらしい。
「しかし、ヤスさんは私の店に結構なツケがあるのだが、これはどうしたものか……。まあヤスさんのことはよい。まずは君たちにお詫びをさせていただきたい」
少年は縮こまった様子だ。そうなるのも無理はない、先ほどヤスを殴るのを見て、多少なりとも怖がらない者などいやしない。
だが、悪い人ではないというのは、今の男の態度からも見て取れる。
「あの、お兄さんの名前は」
男は頭をポリポリと搔きながら言う。
「ああ、これはすまない。私の名だが、今はシュウトクと名乗っている。君たちの名前もよかったら教えてくれないか」
そういえばヤスさんにも自ら名前を教えたことはなかったなと、二人は目を見合わせ、なんだかかしこまった感じになる。
「私はヒナタ」
「ミヅキです」
「うむ、良い名だ」
良い人なんだろうな、と少年は感じる。
先ほどヤスのことを殴りつけてはいたが、元はと言えばヤスが不当な商売や盗みをしたからであって、目の前の男に加虐趣味があるわけではないのだ。
子供である二人に対しても、真摯に応えている。人を見下さず、見上げもせず、同じ目線で話す男なのだ。ただ己の信念をちゃんと持っているというだけなのである。
「お詫びに関してだが、何がいいかな……。そうだ、今日はここに泊まっていくと良い。もう日も西に傾いているし、今から出発するのも酷だろう。ヤスさんの傷の手当ても兼ねて、さ」
二階の窓越しに見た空は、薄紫色の雲を浮かばせて、茜色に滲んでいる。
今日中に旅籠屋まで戻りたいところだったが、ヤスもこれではとても荷車を引ける体力はない。
二人はその言葉に甘えることにした。
——おばさんは大丈夫だろうか。きっと心配しているだろうなあ。
少年は沈みゆく夕日に想いを馳せる。
「お世話になります」
「いやいや、いいんだ。それにしてもよくできた子たちだなあ、君たちは」
二人の頭に手をやって髪をわしゃわしゃとさせる。硬くて分厚い、しかし温かい手だ。
シュウトクの二階建ての店蔵は、表の大通り沿いの中でもひと際大きい。ヒビ一つない漆喰の白と、西日を反射してテラテラと光る瓦屋根の黒が、道行く人々の目を釘付けにする。
「ところでヤスさん」
シュウトクと名乗った男は、傷の手当てをされているヤスの方を向く。一つか二つほど低く、ドスの効いた声になっている。しかし少女たちには聞こえないように小さな声で、ヤスだけに聞こえるように言う。
ヤスは声を裏返らせて返事をすると、傷が痛んだのか殴られて痣になった頬を押さえる。
「今回は、この子たちに免じて見逃しますが、うちにツケがあるのを忘れないでください。真っ当に生きると言うのなら、まずは昔のツケを清算するのが筋だとは思いませんか」
「へ、へい。ごもっともです……」
ヤスはシュウトクに頭を下げる。それを見て「本当に人が変わってしまったようだ」と感心するシュウトクであったが、その瞳にはどこか陰りがある。それはむしろ、ヤスのことを羨むような瞳である。
しかし自分の瞳の色を、シュウトクは知らない。
「必ず、償い致します」
太く確かな声で告げるヤスの瞳は、真っすぐにシュウトクを捉えている。
ほどなくして日が落ちると飯の時間になる。
一階が店で、二階が居住できるような作りになっているこの漢方屋は、中々の大店で、子供二人に大人二人が過ごすとしてもまだ余裕があるほどだった。
シュウトクはさっと台所で飯を作ると、「本陣や脇本陣、
何が違うかと言えば、味はもちろんの事なのだが、何よりも違うのはその量だ。少女としても美味しいものは少なからず食べてきた。おばさんの味噌汁や、昼間の蕎麦だってそうだ。しかし食べ切ることができないほどのものはなかった。
「よし、どんどん食べてくれ。もちろん、おかわりもあるぞ」
その言葉をいいことに、最も食べているのはヤスだ。いったいその細い身体のどこに入るのだろうか。口の中が切れていた筈なのだが、ちゃっかりしていて、これまた図太いものである。
頬張って食べる少女だが、何やら不思議に思うような表情を浮かべている。
「ねえシュウトクさん、なんでこんなに色んな料理が作れるの?」
シュウトクは少し考える様に顎に手をやる。
「ううむ。それは私自身が少々料理を
「それってどういうこと?」
「例に挙げて言うと、山では山のものを食べる。港では海のものを食べるだろう?」
シュウトクは手振りをして言う。
「だが、江戸のように栄えた町は違う。たくさんの物が全国から集まってくるのさ」
今度は少年が興味を持って身を乗り出した。
「どうやって集まってくるの?」
少年はおばさんとのことを思い出す。彼の拙い経験では、背中の籠に山菜や薪を入れて運んだ経験しかない。一体それほど多くの物をどうやって運んでいるというのか。「よもやすべて足で運んでいるというわけではあるまいな」と少年は不思議で仕方が無かった。
「全国から江戸へ物を運ぶための航路、これをとある御用商人が発明したんだ」
なんと海を使っていたのだ。
商品の元となるものは農民や職人手によって生み出されるものの、それを全国各地から運ぶのは、そして運ぶ道を作ったのは商人であるのだと言う。
「商人ってすごいんだね!」
少年は目を輝かせる。
何を勘違いしたのか、ヤスは何やら小っ恥ずかしそうにしているが、お呼びではない。
飯も食べ終わって一息ついた頃。少女は何かを思い出したかのようにシュウトクのもとに寄っていく。
「シュウトクさん、聞きたいことがあるんだけど」
漢方に使う生薬を組み分けていたシュウトクは手を止める。
「いいよ、どうしたんだい」
「あの、トモノリさんって人知りませんか。私たちがお世話になった人が探している人なんですけど、何か知りませんか?」
まったく手がかりの掴めないおばさんの息子の行方に、少女は半ば諦めかけていたが、これほどの大店を抱えるシュウトクなら、多くの客の中からその名前を聞いても可笑しくはないはずだと思って聞く。
するとシュウトクは、珍しいこともあるもんだと笑う。
「おお、そりゃあ私の昔の名前と同じだ。偶然だねえ」
やっと手がかりを見つけたかもしれないといった様子の少女に、「でも私以外ではその名前は聞いたことがない」とシュウトクは言う。
だが、少女の耳にはそのような話は届いていない。ただ思考を巡らせて、「もしかしたら、もしかするかもしれない」と少女は自らの懐から一枚の手紙を取り出す。
丁寧に封を開けてシュウトクの前に差し出す。
「これ、読んでみてください」
少女の体温ほどに温まった手紙をシュウトクは受け取る。妙に古ぼけた手紙だ。
その手紙に目を通すと、シュウトクはガラッと表情を変える。瞳は一点のみを捉え続け、身体はピクリとも動かない。額には冷汗が垂れている。
「これは、誰から、預かってきたんだい」
顔がこわばったように硬くなっている。顎に力が入り、口を開くたびにキリキリと顎の関節が潤滑油のないからくりのような音を出している。
「ここから二日くらい西に歩いたところの、山に一人で住んでいるおばさんです」
シュウトクは自分を落ち着かせるようにフウと一度息を吐く。しかし彼の心臓の鼓動は高まったままである。
恐る恐る、ではないのだろうが、何も知らぬ人からはそのようにも見える仕草で、シュウトクは少女に聞く。確かめねばならぬ、と。
「どうして一人で住んでいるのかって、分かるかな」
「えと、旦那さんが息子さんを連れて出ていっちゃったって」
シュウトクは手に持っていた手紙をさらに強く、皺ができるほどに強く握る。
そして言う。
「その人は、味噌汁が得意で、語尾が柔らかく伸びていただろう」
「えっ」
「ああそうなんだろう。そうだろうともさ。その人は、私の母なのだから」
シュウトクは泣いていた。
「私が、その息子の、トモノリだ」
零れ落ちる泪が、手紙を濡らす。
彼が平静を取り戻すのには、少し時間がかかった。
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