第二幕 第十七話「夢は栄えど 後編」

 昼は蕎麦屋に入った。短くなった影がちょうど伸び始めた頃合いだった。

「あいよう、蕎麦二つ~」

 酒でも飲んでいるのだろう、顔を真っ赤にした店主の調子のいい声が店中に響く。

 なぜ蕎麦が二つしか頼まれていないかというのは、ヤスが天ぷらを頼んだからだ。うなぎ上りの出費への、ささやかな抵抗だ。

 やがてうら若い女店員がそばを二つ、ゴボウとイモの天ぷらをお盆に乗せてやってくる。ことりと中の汁を揺らしながら、木の卓の上に置かれる。

 冬の季節にに合わせた、温かい蕎麦だ。少女たち二人の向かい側に座ったヤスの顔が、湯気に隠れてぼんやりと映る。

 器には細い麺、揚げ玉、ネギ、ワカメが入っていて、つゆと上に乗る柚子の皮が、引き締まった香りをかもしている。

 たぬきそばとも言うらしいそれをすする。

 なんとも美味しそうに食べる子供たちである。箸の動きが休まることはない。すするうどんの先から、汁が飛び散って木の卓に染みる。そのいくつかが少女たち自身の白の上着にもついてしまい、可愛らしい斑点が生まれる。

 器を両手で持ち、汁を飲む。甘いようなしょっぱいような味が口の中に広がり、喉を通ればじんわりと胸が温かい。ハアと息継ぎをしてまた飲む。

 天ぷらをすでに食べ終わっていたヤスは、その二人の食べる姿をただ見ている。

 自分が贅沢な子供時代を送れなかったのだから、せめて目の前の二人だけは、とものの見事に奮発してしまったヤスは、すっかり萎んでしまった腰巾着を見る。ため息を零すが、その腰巾着はもっと大切なもので満たされているような、そんな気がしていた。

 ちゃりんと巾着を手で遊ばせる。わずかな金属同士がぶつかる音をさせて、その重さを確かめる。軽くなってしまったなあと薄ら笑みを浮かべる。

 だが、失ったもの以上に、少女たちの笑顔は眩しかった。

「ごちそうさまでした!」

 手を合わせ、少女が言う。

 いつかこのうどんも自分で作れるようになれたらいいなあ、などと心で思う。

「さ、お二方。漢方屋に行きましょうか」

 腹も膨れたところで、次に向かうはおばさんの漢方を売っている店だ。

 少女は胸に手を当てる。おばさんの手紙が入っている。

 ウサギのように跳ねまわって楽しんでいた少女だったが、おばさんの息子、トモノリを知っているかどうかも、道行く人に逐一聞いてはいたのだ。

 しかし一向に見つかる気配がなかった。

「薬と言っても、漢方ですから。粉にしてそれを煎じて飲むんですよ」

 道中そんな小言を言っている間に、目当ての漢方屋の前まで来た。

 ぼちぼちの繁盛具合だ。立派な店蔵は、少女たちが寄って来た店と比べても、きっと幾らかは上だろう。

 今までの店とは違い、草葉の擦られて起こる独特の香りが漂っている。人の町にあらざる香りだ。苦さがそれだけで伝わってくるようだ。

 まばらに並ぶ人の間を縫って、ヤスがひょいと前に出る。

「いつもおいらが買ってる漢方、売っておくれ」

 店の女がそそくさと棚を漁り出す。

 ヤスは腰に手を当てて、足をぺたぺたと地面に叩きながら待っている。

 すると店の二階からどたどたと激しい足音をさせながら誰かが降りてくる。

 一人の男である。30の手前くらいだろうか。清潔感のある風貌で、若々しさの中にも大人としての気品を兼ね備えている。健康的に引き締まった肉体が服の上からも見て取れ、顔だちも整っていて男前だ。

 その男が鬼のような形相で階段を降りてくる。眉はツンと吊り上がり、食いしばった歯が軋んでいる。

 袖をまくって、その太く締まった腕があらわになる。丸い筋肉の上に血管が浮き出て、握りしめられた拳からは、その男の力強さが伝わる。

 ずんとヤスの方に近づいていく。その足がしだいに速くなる。

 いきった肩で風を切り、その速度が小走りくらいに到達すると、男が店の売り物棚を飛び越えた。硬く握られた拳が震えている。

 男はそのまま、ヤスの横っ面を殴りつけた。

 殴られたヤスは一瞬の浮遊感の後に、地面に叩きつけられる。

 鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ボロ雑巾のように地面に転がっている。

「どのツラ下げてうちの店に来たんですか、ヤスさん」

 本来は丁寧な口調なのだろうが、荒ぶる語気に侵されてしまっている。

「あんた、うちの商品を買っては他で高く売りつけているそうじゃないか。それとこの前、うちの備品をあんたが盗んだって、見た人もいるんだ」

 地面にうずくまるヤスを前に、仁王立ちをするように男が立つ。

 するとはたでわなわなとしている子供二人に目が行った。その少女たちの瞳はヤスに向けられているのだと男は知ると、今度は二人に対して口を開く。

「君たち、この人の連れか何かか。まさか、ともに悪さをしているわけじゃないだろうな」

 男は眉をひん曲げて、さも歌舞伎役者のような剣幕になり、鋭い眼光を飛ばす。

 二人の方に一歩踏み出そうとしたところで、ヤスがその足に掴みかかる。

「そのお二方は、おいらみたいな悪党なんかじゃねえ。むしろその反対とも言っていい!」

 男は「離れてくれ」と足を振るが、ヤスは必死にしがみついたままだ。

「どうしようもねえおいらを、そのお二方は買ってくれたんです! もう悪さはするなと、償って真っ当に生きろと!」

 それを聞いた男は何に気付いたか、振っていた足を止める。

「この子たちに買われたとは。いったい、いくらで買われたのか」

「この姐さんに恵んでいただいた、でございます……っ」

 男は少女のことをチラと見ると、また足元のヤスに視線を戻した。

とは……、あんたにつく値としてはあまりに高すぎる」

「ええ、本当に、まったくもってその通りで」

 火事と喧嘩は江戸の華。

 喧嘩の華が咲いたかと見物人が集まってくるが、どうやらもう終わってしまっていてはつまらないと、こぞって帰っていく。漢方屋の女も店の奥へと引っ込んでしまっている。

 閑散として残ったのは、立ち尽くす子供二人と、仁王立ちの男。そして鼻血と泪で顔を汚したヤスのみであった。

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